「松原玲犯人説」を吟味する時
正直に言えば、それを聞いた時点で、俺は姉さんの言っていることを把握できていた訳では無かった。
寧ろ、端的に言えば何が何だか分からない通話ですらあった。
しかし同時に、これが決して無視の出来ない通話であるのも事実である。
何せ、内容が内容だ。
故に、当然の帰結として────俺は走った。
今日のボヌールは、バタバタと走っている人が特に多いが、それに負けないくらいに。
いつか見たような「爆速」で、姉さんの元に向かう。
自然、三分もかけずにプロデューサー室に辿り着いた。
「……姉さん!」
気が急いていたので、ノックはしない。
無礼を承知で、無駄に重い扉をバン、と音を立てて開けた。
すぐに、室内には姉さんだけが居ることを、俺の両目は確認をする。
「おー、来たか」
視界に映る姉さんの姿は、腹立たしく感じるくらいにいつも通り。
悠然と自分の椅子に座り、紅茶のペットボトルを片手にしている。
状況的に、徹夜で手伝っていたというライブから帰って来てすぐのはずだが、その姿からは一切の疲れを感じられなかった。
普段ならドン引きするところだが、今この状況に限っては、その超人っぷりが頼もしい。
これで「疲れているから一度寝る。起きてから説明させてくれ」とか言われたら、とんでもない生殺しをくらいところだった。
結果、俺は手近な椅子を引き寄せて遠慮なく姉さんの前に座り、急かすような態度になることを承知で話をせがむことにする。
「さっき、電話で言ってたよな?警察が俺を疑っているって……どういうことだ?」
挨拶や現状の説明もそこそこに、一番聞きたいところを聞く。
急ぎすぎて聞き取りにくい言い方だったかもしれないが、この際姉さん側の事情など構ってはいられなかった。
正直、ここで俺が疑われている理由とやらを教えてくれなければ、俺はこれ以上正気ではいられない。
今の俺の脳内は、何故、どうして、という感情の対処で手一杯だった。
火災が起きた時も、警察の事情聴取を受けた時も、ここまでの混乱はしていない。
この前代未聞の混乱に、歯止めを掛けたかった。
「……まあ、落ち着け、玲。これはまだ、確定した話じゃない。お前以外の、警察に事情聴取をされたというスタッフの話を聞いて得た推測だ。まだ、お前が捕まってどうこうとか、そういう次元の話じゃない……分かるか?」
俺を宥めるようにか、姉さんは酷くゆっくりと話をする。
聞いているだけで、自然と心臓がおとなしくなっていくような、柔らかい口調。
多分、アイドル相手にもこういう口調で何度も宥めすかしたことがあるんだろうな、と即座に推察が出来るくらいの、慣れた言い方。
ややもすると馬鹿にされていると感じそうなくらい、のんびりとした言い方だったのだが、その口調に誘われるまま、俺は少しだけ落ち着く。
会話の雰囲気という物は、目に見えない力を発揮するらしい。
そのせいか、次に発した質問は、それなりに穏やかな問いとなった。
会話の内容を、丹念に咀嚼しながら。
ゆっくりと、本質に迫る。
「他の人の事情聴取の様子、か……どうしてそこに俺が出てきたんだ?」
「んー、そこはまあ、向こうがあからさまだったからな。彼らの話では、警察は全員の事情聴取の最後に、絶対にこう聞いたらしいぞ」
そう告げて、姉さんは一本、指を立てる。
そのまま、何かの物まねをするようにして、その「警察が絶対に最後に聞いた質問」を再演した。
「彼ら曰く、こんな感じだったそうだ……『最後につかぬことをお聞きしますが、貴方はボヌールでバイトをしている高校生の少年を知っていますか?今日の撮影に、同行していたようですが。もし、知っているのであれば……彼が撮影中、どんな様子だったか、教えていただけますか?』……これを、全員に聞いたらしい」
「何だ、それ……」
驚くというか、衝撃的というか。
何とも言えない感覚に頭が包まれて、俺は絶句してしまう。
確かに、「あからさま」だが────あからさま過ぎるだろう、色々。
「まあ、実際のところ撮影スタッフでお前のことを知っていた人間は少ないし、ちゃんと見ていた人も殆どいなかったから、情報は集まっていないらしいがな。だが、これだけでも、警察がお前を疑っているのは明らかだろう?事実、心海をはじめ、不穏に思ったスタッフたちが私に注進してきた訳だから」
「確かに、警察の動きが明確だ……でも、何で?」
答えが来ないと分かっていても、もう一度そう漏らしてしまう。
本気で、訳が分からない。
だって俺は本来、今回の事件のようなことを止めるために、あの場所にいたのだ。
結果から言えば火災を防くことは出来なかったが、それでもいの一番に煙を見つけたように、警戒自体は努力したつもりである。
それがどうして、俺が犯人という話になるのか。
理不尽さすら感じてしまう。
我知らず、俺の両拳はぎゅっと握り締められた。
そんな俺の様子を、姉さんは今一つ感情の見えない瞳で見つめていた。
さらに、俺の心に波風を立てないように配慮された口調で、彼女は実に波風を立てることを言い出す。
「実を言うと、警察がお前を疑っていること自体は、少し分かる気もするがな。お前としては不快だろうが……客観的に見れば、この『松原玲犯人説』は中々の説得力がある」
「……そうか?」
「ああ。だってお前、話によれば、火災現場に最後に訪れたんだろう?」
「そうだけど……」
姉さんが何故そんなことを言うのか、意図を把握しきれなかったが、事実だったので頷いておく。
野良猫を涼しそうな場所で寝かせるために、確かに俺は例のゴミ捨て場を最後に訪れている。
警察にも、最初から証言していたことだ。
「でも、俺は本当に何もしていないんだけど」
「だろうな。だが、こういう言い方も出来る。……傍から見れば、お前が立ち去った直後に、ゴミ捨て場が突然発火した、ということだ。それまで、火種や怪しい人影なんて、一切無かったにも関わらず、な」
そう告げて、姉さんはコン、と指で机を叩く。
「警察も、周囲の人間も、お前の話を信じ切る理由は無いからな。そりゃあ、人によってはお前が犯人に見えるだろう。お前の素性を知らない人からすれば、その時のお前の姿は間違いなく、『火災直前に現場を立ち去っていたよく知らない人影』になるんだから」
「確かにそうかもしれないけど……だからって、そんな、無茶苦茶な」
あんまりと言えばあんまりな理屈に、俺は突っ込みを入れる。
確かに、シンプルで分かりやすい図式ではあったが、それで疑われてはたまらない。
そもそも、それだと突っ込みどころがいくつも生まれてしまう。
「大体、仮に俺が犯人だというのなら、火事が起きた時に、俺がバスを飛び出てまで火災の様子を見に行ったことはどうなるんだ?俺が犯人なら、何故そんなことをする必要がある?」
分かりやすいところを、俺は最初に挙げて見た。
あの時、俺が煙を見つけて素早くそれを見に行ったのは、あのロケバスに居た人全員が知っている厳然たる事実だ。
つまり、警察もそのことは知っていることになる。
そして当然、仮に俺が放火犯だとすれば、こんな行動はまず有り得ない。
普通、放火犯というのは、自らが起こした火災をより大きく広げようとするものだ。
それがどうして、初期の段階から発見しに行っているのか。
これでは、消火を助けてしまっている。
この矛盾にどう説明がつくのか、と思って俺は姉さんを見上げる。
すると、姉さんはあくまで警察サイドに立って答えてくれた、
「勿論、ここはお前が犯人だとすると、おかしなところだ。だが……警察は、それは敢えての行動だと疑っているようだな」
「敢えて?」
「ああ、敢えて、だ。それこそ、推理小説とかでよくあるだろう?何か事件を起こした犯人が、敢えて第一発見者を装うパターン。自分で殺した被害者の死体を隠さず、わざと悲鳴でも上げて関係者を呼ぶ、みたいな」
普通なら分かりにくい例えだったと思うのだが、読書家の性か、こう言われると一発で理解出来てしまう。
確かに、そういう作品は多い。
第一発見者の振りをしたうえで、警察や探偵に真犯人が縋りつくシチュエーションを、これまで何度見たことか。
「小説内で犯人がああいう行動をする理由は、トリックに必要だとか、単純に事故だとか、色々あるんだが……その中の一つに、『自分が犯人だと疑われないようにするため』というのがある。知っているだろう?」
「……その人物が犯人なら、わざわざ自分から事件を周知するはずも無い。だからこそこの報告者は犯人じゃない、と読者に錯覚させる奴か」
「その通り。警察は、それと同じ目的のために、お前がわざと自分で起こした火災を見に行った、と考えているようだ。要するに、容疑者リストから逃れるために、意図的に火災を周知した、ということだな」
「そんな馬鹿な……」
「そもそも、そのくらいの強い動機がないと、ただのバイトがロケバスをわざわざ止めてまで煙を見に行くなんてことはしないだろう、という理解のようだな。心海が、そんな感じの刑事の雑談を聞いたらしい」
──……そうなるのか。
悔しさに、俺は密かに歯ぎしりをした。
確かに、俺は大声を出してロケバスを止め、かなり注目されながら火事の様子を確認しに行っている。
無論、あの行動自体は、自分の中で生まれた「もしや」があまりにも早く実体化していたが故に、反射的に実行したことに過ぎない。
しかし、こう客観的に指摘されると、確かに怪しいというか、異常な行動に思える。
撮影中に何もしていなかった一人のバイトが、大声を上げてまでロケバスを停車させる。
実はそれは意図的なアピールで、注目されるために大声を出した、という解釈をされても、さほど無理は無かった。
それこそ姉さんの言う通り、推理小説の犯人などにありがちな行動だ。
しかし当然ながら、その程度の違和感から、やっていないことで疑われるという現実はどうにも認めがたい。
結局、俺は姉さんに無駄な時間を消費させてしまうことを承知で、もうちょっと抗ってしまう。
「でも……その場合、例の脅迫状とか、脅迫メールの件はどうなるんだ?もしかして、あれも俺のせい、みたいになっているのか?」
「いや、流石にそこまでじゃない……恐らく警察としては、お前が脅迫犯の仲間、詰まるところボヌールに潜む内通者じゃないか、と考えているんだろう」
「内通者……ボヌール内部の、情報漏洩か」
姉さんが、前々から言っていたことである。
仮説でしかないが、ボヌール内部に裏切り者が居ると考えた方がしっくりくる、という存在。
ボヌール内部の何者かが、脅迫犯に情報を漏らしているために、これらの事件は起こっているのだ、と言っていた。
「実際、これは私が悪いんだが……今回の撮影の情報を漏洩しそうな容疑者を挙げていくと、どうしてもお前はその中に含まれてしまう。何せお前は、本来はサプライズ発表をされるはずの、『凛音レポート』の情報を事前に知っていたんだからな」
「……脅迫犯のために、その情報を漏らすことが出来た、ということか?」
以前、姉さんにこの撮影のことを教えてもらった時──というか、自慢された時──のことを思い出す。
確か、今から一ヶ月以上前の出来事だ。
我が家で夕食を取っていた時に、俺はそのことを知らされていた。
グラジオラスに大きな仕事が決まって、凛音さんと一緒にロケに出向くのだ、と。
つまり俺は、番組の制作会社の人間でも、撮影スタッフでもないのに、「ライジングタイムの新コーナーには凛音とグラジオラスメンバーが出演する」ということを、世間よりも早く知っていたのである。
そして、確か話によれば────。
「一ヶ月前って言ったら、最初に脅迫状の塊が届いたのも、丁度その時期だったな……」
「そう言うことだ。偶然ではあるが、時期が符合してしまっている。私からこの話を教えられた時点で、お前がその情報を漏らしてしまい、そのせいで脅迫犯が行動を始めた、という推理が成り立つ訳だ。脅迫犯や内通者の話は、氷川が既に映玖署全体に伝えているしな」
話を聞いて、思わずなるほど、納得してしまう。
脅迫犯の正体が分かっていないため、推理がやや雑だが、確かにこの「松原玲犯人説」はかなり筋が通っていた。
認めたくはないが、警察が有力仮説と考えるのも無理はない。
恐らく、警察が考えている今回の犯行の流れ──要するに、俺が内通者兼放火犯である場合のシミュレーション──は、以下のような物になる。
まず、俺が何らかの理由で凛音さんに敵意を抱き、脅迫しようと考えたとする。
その上で、姉さんからライジングタイムの撮影について話を聞いた、と仮定する。
本来は内部機密だが、俺はその情報をネットなどが得意な何者かに吹き込み、脅迫状を書かせる。
無論、バイトとして内部を漁ったことで調べ上げた、監視カメラの位置なども教えた上で、だ。
何なら、「最初の方は疑われにくいから直に手紙で行け、二回もやったら流石に警備が厳しくなるから、そこからはメールに切り替えろ」とでも命令したのかもしれない。
これらの情報を手に入れた上で、脅迫犯は「後輩アイドルと共演するな」とか、「ロケに行くな」というような、変に詳しい脅迫状を作成する。
そのまま、脅迫犯はこれをつつがなく実行し、果たして俺は特に疑われることなく日々を過ごす。
さらに、当の撮影現場にもバイトの立場を利用して潜り込む。
撮影現場では、俺はそもそもにして特にやることが無いので、他の人に何か言われること自体が少ない。
逆に言えば、他の撮影スタッフやアイドルたちと違い、ロケ地で極めて自由に動ける、ということだ。
故に、何の邪魔も無く、俺は脅迫状の内容を実行するべく、予告通りにゴミ捨て場に放火。
他の人には、猫を置きに行くから、と言ってゴミ捨て場に向かい、その隙に火を付けたのだ。
最後には、敢えてその放火を自分で大声で知らせ、第一発見者を装う────。
動機が無いことを一旦置いておけば、中々有り得そうな流れだった。
少なくとも、大きな矛盾は無い。
寧ろ、「何故脅迫状がその時期に突然届き始めたのか?」とか、「どうして世間に発表されていないロケ撮影のことを脅迫犯が知っていたのか?」とかいう今回の事件に関する疑問が、俺が内通者だと仮定すれば全て解けるのだ。
発火時刻があんな時間だったのも、どうせ俺がバスを意図的に停車させて発火に気がつかせるから、スタッフが立ち去る直前でも構わなかった、と考えたとすれば筋が通る。
俺が悪意を持ってそういうことを実行すれば、確かに、それらのことは全て実行出来るのだから。
そう言う意味では、極めて鋭い推理だ。
疑われているのが俺じゃなかったら、手放しで同意したいくらいである。
正直、今までに考えた全ての仮説の中で、最も筋が通っている気すらする。
──変な気分だな……俺自身が疑われているのに、その俺が疑われる理由に自分で納得しちゃうって……。
妙な感覚を味わいながら、俺は苛立ちを紛らわすようにして首の後ろを痛いぐらいにバリボリ掻く。
頭の半分がこの推理に反駁を感じているのに、もう半分が理屈的に納得してしまっていて、気が狂いそうだった。
その感覚を振り払うように、俺は口を動かし続けることにする。
「……そうなると、アレか?警察としては俺が内通者か、少なくとも犯人に関係した人物である可能性は滅茶苦茶高い、くらいの認識で捜査に臨んでいるのか?」
「まあ、流石にそれ一本で捜査はしていないだろうが……可能性としては、十分有力だと思っているんだろうな。だからこそ、お前の撮影中の行動を聞きまわっている」
もっと言うなら、と補足が入る。
「意図的に『自分たちが松原玲を疑っている』という姿勢を示すことで、お前の立ち回りを観察する気なのかもしれない。プレッシャーをかけている、と言っても良いが」
「……もし俺が本当に内通者兼放火犯だったら、警察に疑われていると察したことで何か証拠隠滅に動く。だから、その反応を見て証拠を掴む、ということか」
「そうなるな。それこそ、もう家には捜査官が張っているかもしれない」
まさかそこまで、と一瞬思う。
しかし、否定しきれなかった。
本当に警察が俺を疑っているなら、それくらいはやるかもしれない。
──そう考えると、さっきの取り調べも……。
氷川さんや茶木刑事の姿を思い出し、俺は冷や汗を垂らす。
今思えば、あの事情聴取で、天沢とわざわざ部屋を離されたことにも、意味はあったのかもしれない。
氷川さんと俺が知り合いだからどうの、ということ自体、嘘だったのだろうか。
その場合、もしかするとあの対応は。
俺を一人にして、じっくりと話を聞きたかったから、なのだろうか。
犯人候補の動きを、丹念に観察していたのだろうか。
仮にそうだとすれば、俺があの話の中で「犯人は遠隔操作で発火させたのではないか」という仮説を出したことは、刑事に対する印象としてはちょっと不味かったかもしれない。
あれではまるで、捜査の方向を誤らせるために、わざと間違った真相を警察に教えようとしたかのように見えてしまう。
推理小説でよくある、真犯人がミスリードをグイグイ推してくる感じの展開と、同一のものだ。
無論、実際のところ俺にそんな意図は無かったが────疑おうと思えば、人間の行動なんていくらでも疑える。
あの時の俺は果たして、刑事たちから見てどのように見えていたのか。
「……もし、そうだとしたら」
そこまで考えてから、思わず。
俺はまた、そんな言葉を漏らしてしまう。
山火事の心配をした時と、同様のテンションで。
「警察が本気で俺を疑っているとしたら、俺はこれから……どうすればいい?」
知らず、弱々しい声になってしまったことに、自分で驚く。
どうやら俺は、既にかなり弱っているらしい。
我ながら情けないとは思ったが、仕方のないことでもある気がした。
いくら何でも、警察を相手にする方法など、今までの人生で考えたことも無い。
もはやこれは、推理がどうとか、そういう次元の話ですらなかった。
答えが、見えない。
────そんな俺の様子を、姉さんはやや申し訳なさそうな顔で見つめて。
それから、ピン、と指を一本立てた。
そして彼女は、いやに堂々と言葉を放つ。
まるで、最初からそれを言うためだけに、俺をここに呼んだかのように。
「……決まっている。お前が自分の身の潔白を晴らしたければ、一つしか道はない」
「……一つ?」
「ああ。一つだ。それこそ、お前の好きな推理小説によくある展開でもある」
軽く、姉さんがため息をつく。
それから彼女は、アイドルたちに発破をかける時と、全く同じ口調でこう告げた。
「玲。これからお前は一人の探偵として、自分の手でこの事件を捜査し直すんだ。そして真犯人を見つけて、警察に引き渡す……そうすれば、全部解決だろう?」
さも、それが何でもないことのように。
姉さんは、断言したのだった。