尻尾を掴む時
結果から言えば、マネージャーを含めた乗客が揃い、バスが出発したのは、俺たちが目を閉じてから十五分後のことだった。
休憩とも言えない休憩時間だった訳だが、撮影のスケジュール的には、予定通りの形になっているらしい。
焦ることも、のんびりすることも無く、スタッフの一人らしい運転手はバスを進ませていく。
目指す場所は、映玖市の隣の市にある小高い山──狩野山という──の山頂。
俺たちが乗るそれを含めた二台のバスは、辛うじて舗装してます、という感じの山道をじんわりと登って、そちらに近づいていった。
その間、じっと、俺たちは瞳を閉じたまま過ごす。
背後の様子を少し確認した限りでは、凛音さんもそのような感じらしい。
日の出の様子を見て、いくつかのコメントする、という今回の撮影の都合上、台本などもそこまで確認する必要は無い、ということか。
だからなのか、バス内の様子だけで言えば、ただの旅行ツアーのような装いのまま、俺たちは山頂に辿り着くことになったのだった。
そして、一旦到着してしまえば、後は話が早い。
流石テレビ撮影というは、大体の現場がこうなのかもしれないが、ボヌールよろしく全てが「爆速」で話が進むからである。
瞬く間に俺たちは駐車場近くに降り立ち、さらに撮影スタッフは駆け足で撮影現場まで向かう。
日の出が一番綺麗に撮影出来る場所──無論、既にロケハンは終えているのだろう──に、カメラを設置しておくのだろう。
一方、凛音さんと天沢、さらにマネージャーや衣装さんと思しき人たちは、全員がロケバスから降りたことを確認してから、もう一度ロケバスに戻った。
何でも、化粧部屋も無いこの場所では、ロケバスがその代わりとなるらしい。
詰まるところ、バスの中で着替えやメイクを済ませるのだ。
こうして、撮影関係者は二つの流れに別れた。
片方が、日の出を撮りやすいであろう崖の上みたいな場所でのカメラ設置、アングルの試行錯誤に勤しみ。
もう片方は、いそいそと着替えやメイクを行う。
そして、俺は────。
「暇だな」
ポツン、と一人取り残されるようにして呟く。
立っている位置としては、ロケバスを停めてある駐車場──昇ってきた一本道の登山ルートの出口にある──と山頂奥にある撮影地点の、丁度中間地点。
とりたててやることの無い俺としては、そこに立つしかなかったのだ。
「……暇だな」
もう一度、呟く。
無論、それで何かが変わるということは無い。
俺がこの場でやるべきことなど、何も無いままだった。
こんな表現をすると、まるで俺が何か仕事をサボっているように思えるかもしれないが、仕方が無いことだろう、これは。
そもそもにして正規のスタッフでも無く、あくまで姉さんの指示でここに居る俺としては、撮影準備が始まってしまうと、手伝える仕事と言う物がない。
カメラや照明を触ったことなど無いから、撮影のサポートなど望めるはずはないし。
天沢や凛音さんの着替えを手伝おうものなら、それはスタッフではなく変態の所業である。
結論として、撮影が本格的に進んでしまえばやることが無いのだ。
強いて言えば、もう一つ頼まれていた、脅迫者の警戒が主な仕事ではあるのだが。
──でも、ここで警戒しろって言われてもな……人影なんてそう無いぞ、ここ。
そう思いながら、俺は目の前に広がる山頂の様子を眺める。
そして、改めてこの場所の安全性を確認した。
何せ要請が突然だったので、不審者の警戒を頼まれながら、俺はこの場所のこともよく知らなかったのだが。
実際に見てみると、ここは警戒など全く必要が無さそうな場所だった。
まずこの空間は、実際に来てみて分かったのだが、かなり狭い。
山頂の周囲に辿り着くまでの森が険しいこともあって、切り開かれている場所の面積が小さいのだ。
面積だけで言えば、それこそ以前訪れた月野羽衣のコンサートホールの方が、余程広い。
また、目に映る空間の三方が、完全に森に囲まれているというのも、体感的な狭さを加速させていた。
というよりこれは話が逆で、元々森で埋まっていた山頂の一画を、観光客や登山者のために切り開いたのだろう。
結果、山頂の一点、東の方向に開けた一画を覗いて、基本的に背の高い木々しかない形になっていた。
おおよそ三角錐の形をした山を、東の方向だけ開けるようにして斜めにカットしている、と言えば多少は想像しやすいだろうか。
そして、その狭い山頂にある物と言えば、ロケバスを停めた駐車場、点々と置かれてあるベンチ、そして観光客向けに置かれてあるような、幾つかの店舗である。
森と隣接するように建てられた店の数自体は、一応十店舗くらいある──母屋を兼ねている店なので、建物の数自体は倍となる──のだが、一つずつが小さい上に、ぎゅっと密集しているので、あまり広い感じはしない。
要するに、何が言いたいのか、と言うと。
場所的に、不審者が現れたら秒で気がつくのである、ここでは。
前提として、ここに辿り着くまでの経路は、車にせよ歩行者にせよ、ロケバスが通ってきたあの一本道しかない。
つまり、脅迫者やその協力者が車でここに現れたのなら、その道を通るしかなく、必然的にすぐに気がつく。
あれ、誰か来た、と。
無論、その不審者が舗装された道を使わず、徒歩で険しい山登りに勤しんだのであれば、その道路を介さずにここに来ることは出来るだろう。
しかしその場合、当然森でガサガサと音を立てることになる。
これはこれで、誰かが枝を折りながら歩いてきているな、ということになってすぐに分かるだろう。
先程言ったように、三方を森に囲まれているので、どの方向から来ても道なき道を進む羽目になるのだ。
静かに、誰にも見られずに森を抜けること自体、不可能に近い。
では、脅迫者がさらに裏をかき、唯一森の無い東の方向から来たのであれば?
一見有り得そうだが、これはこれで無理なのだ。
というのも、実際に来て分かったのだが、日の出が綺麗に見えるという山頂の東方向の先というのは、完全に断崖絶壁になっていた。
安全のために柵が設けられているのだが、そこから下を見る限り、一番近い山肌はざっと三十メートル下である。
仮に犯人が普通の道を使わずに、この崖をロッククライミングしてくるというのであれば、俺はいっそのこと犯人を褒めたい。
──つまり、不審者対策をしたいのであれば、俺がここに居るだけでそれは果たしている……あの一本道を通らない限り、安全にここには来られないんだからな。
最終的にそんな結論に辿りつき、俺は一本道の方向を見張って。
それから、はあ、と息を吐いた。
犯人の普通に使える通り道があの一本道しか無い以上、それを観察出来るこの場所──一本道の出口と撮影現場となる東の崖の中間地点なので、どちらも見ることが出来る──を通過せずに犯人がアイドルたちに近づくことは出来ない。
すなわち、俺が警備としてここに立つのは、論理的に非常に正しい行為ではあるのだが、実際にやってみると実に暇というか、やりがいの無い仕事だった。
だって、これで本当に脅迫者が来たらまだ仕事はあるのだが、来なかった場合は本当にただ足が疲れるだけになりかねないのである。
いやまあ、そんなのは来ないに越したことはないのだが。
──でも、スタッフの方も俺と同じ結論何だろうな……割とガタイのよさそうな人が、意味も無くウロウロしてるし。
そう考えながら、俺はチラリと一本道の方角の逆、撮影現場の方を見た。
そちらでは、ADらしき人をアイドル役に見立てて、カメラテストみたいなことをしているのだが────そのスタッフの周囲には、二、三人、ちょっと動いていない人が居る。
やや大柄の男性たちで、一応、という感じで大きな荷物を持たされている人たちだ。
多分彼らこそ、姉さんの言っていた民間警備会社の人、なのだろう。
撮影スタッフに紛れ込み、警備をしているのだ。
様子を見る限り、どうも彼らもこの警備がかなり暇なこと──プロの撮影スタッフじゃないから、俺と同じく手伝える仕事が無い──に気が付き、時間を持てあましていると見える。
──これでもし、脅迫者が愉快犯的な奴で、「実際には実行もしない脅迫で撮影関係者を困らせること」が目的だったら、それはこの上なく成功していることになるんだろうな……百通の脅迫状のせいで、こうやって何人もの人が右往左往しているんだし。
彼らを見ながら、俺はふとそんなことを考えた。
もうここまで来ると、そんなことを考えても仕方が無いのだが、それでも、である。
何というか、脅迫状という存在がいかに社会に迷惑をかけるか、リアルタイムで確認している気分だった。
──ロケバスの方にも警備の人が行っているみたいだし……何度考えても、やるべきことはここで突っ立って観察することのみ、か。そうなると、やはり暇だなあ……。
ふう、と何度目かのため息をつく。
流石にスマートフォンなど見てしまうと、警戒態勢になれないので、そんなことは出来ない。
しかし、いざ周囲を観察したところで、何かがあるわけではなかった。
そのせいで、この時の俺の気分を端的に言えば、中々苦痛な時間を過ごしていた。
これで話せる相手でも居れば、まだ暇もしのげるのだが、そんな相手がいる訳もないし────。
「……ンナアー」
「ん?」
……と、そこまで考えたところで。
妙に可愛い声が俺の足元に響き、俺は意識をそちらに引っ張られた。
反射的に、バッと視線を下に向ける。
「え……猫?」
「みゅー」
まるで返事をするようにして、一匹の猫が俺の足元で鳴き声を発した。
さらに、何かねだるようにして俺の足首にコツン、と頭をぶつけてくる。
その動きは非常に人に慣れていることを伺わせるもので、人間に対する恐れを全く感じなかった。
自然、俺も変になれなれしく猫に話しかけてしまう。
「野良猫、だよな?どうしたんだ、お前。ここに住み着いているとか?」
「みゃあ」
「みゃあ、じゃなくて……」
猫の首元に首輪が無いことを確認してから、俺は首を捻った。
先程まで見かけられなかったのだが、この様子を見ると、この山頂には野良猫が住み着いているのだろうか。
知識として、観光地などには野良猫が住み着くことがある──そして野良猫対策に自治体が積極的ではない場合、そのまま増える──ことは知っていたが、実際に見たのは初めてだった。
個人的に猫が好きというのもあって、俺はその場でしゃがんで、猫の様子をまじまじと見てしまう。
思いっきり脅迫者対策をサボってしまったが、ちょっと興味が湧いたのだ。
撮影がまだ始まっていないのもあって、俺は猫の観察に専念してしまう。
「結構デブだな、お前……観光客から餌をせしめて、割とリッチに過ごしているタイプの野良猫か?」
「みゅん」
「……ああ、そっか。普段なら朝だし、寝ているような時間だけど、撮影スタッフが来たから、餌を貰えると思って起きてきたのか」
「ミョウ!」
まるで「そうだ!」とでも言いたげに、そこで野良猫がピョン、と跳ねた。
勿論言葉が通じているはずも無いが、まるで理解しているように思えるから不思議である。
この辺りも含めて、人間に慣れている、のか。
「でも、俺餌持ってないしな……」
「みゅー?」
「あげる物は無いってこと」
そこでスッと立ち上がって、俺は何となく猫に向かって軽く謝る。
別に悪いことでは無いし、何なら観光地の景観と野良猫対策を考えれば、餌を与えない方が正しいのだが、どうしてだか悪いことをしている気分になるのは何故だろう。
猫の方もまるで悲しんでいるかのように、俺に体当たりをかましてきた。
「いやだから、あげる物は無いって……」
相手する道具も無いので、俺は今一度、逃げるように撮影現場の方に視線をずらす。
一分ばかり猫の相手をしてしまったので、そちらの様子を確認しておこう、と思ったのだ。
故に、俺はまずそちらを注視して────そして、「げっ」となる。
それは、撮影現場に何かあったからではなく。
また別の、問題を見つけたからだった。
「猫、一杯いる……」
「んなーご」
いつの間に、現れていたのだろうか。
気がつけば二匹くらいの猫が、撮影現場のスタッフの足元にじゃれついていた。
どうも、今、俺と会話している猫のお仲間らしい。
恐らく、俺の推理通り、観光客の力を借りてか、複数匹の猫が山頂で暮らしているのだろう。
その猫たちが、撮影スタッフに餌をもらい来ているのだ。
ただ、スタッフとしては、こんな野良猫たちを撮影する映像に映すわけにもいかないらしい。
困った挙句、手の空いたスタッフが捕まえて遠くに持って行っていこうとしているのが遠目に見えた。
と言っても、猫たちの方が、遠くに連れて行ってもすぐに帰ってこようとしているので、果たしてどれほどの効果があるのかは不明だが。
「そうなると、俺の仕事が一つ増えるな……」
スタッフの様子を観察してから、俺はそう呟く。
その次の瞬間には、俺は足元の野良猫の尻尾を軽くつかんだ。
「餌はあげられないが、動くなよ、お前も……」
そう言って、俺は掌を猫の背中にずらし、その動きを抑えておく。
猫はそれが不満らしく、尻尾をまあまあの勢いでブンブンと振るのだった。