迷いながらも選ぶ時
──これって、昨日言ってた……。
当たり前のように机上に鎮座するタブレット端末を見ながら、俺の頭は自然と姉さんの言葉を思い出していた。
曰く、ボヌールではアイドルや社員にタブレット端末を貸し出している。
それらは未公開の情報なども詰まっているので、どこかに置き忘れるようなことがあればみっちり説教をしなければならない。
だからこそ、もし忘れ物を見つけたらすぐに報告して欲しい。
確か、そんなことを言っていた。
「いや、けど、普通にこの部屋の備品かもしれないし……」
自分で自分の考えを否定したかったのか、すぐに別の可能性を口にしてしまう。
しかし言い終わった瞬間に、俺はその可能性は無いことに気が付いた。
何故かと言えば、目の前にあるそのタブレット端末が、見るからにプロジェクターの投射機にしか繋がっていなかったからである。
この手の端末で絶対に必要なはずの、充電器の姿が見えない。
仮にこのタブレット端末が部屋に付属する備品だったなら、これは有り得ないことだ。
こんな状態で放置されてしまったら、すぐに充電が切れて使えなくなってしまう。
備品と言う物は普通、だれがいつ使っても良いように、フル充電の状態で放置しておくのではないだろうか。
それをしていないというのは、つまり。
これの持ち主は、プロジェクターとタブレット端末を繋げてから──何故そんなことをしたのか知らないが──充電なんて必要ないくらいすぐに用事を済ませるつもりだったが、回収を忘れたということ。
要は、何者かの置き忘れだ。
「えー、けど、こんな大きいものを置き忘れるとか……」
信じられないと思いながら、俺はそのタブレット端末に近づいていく。
そのまま、よりじっくりとその様子を観察した。
「タブレットの色が白だから、同化して見失ったとか?机の色も白いし、タブレットは裏返しになっているし……」
そう言いながら、タブレット端末を持ち上げて念のため表面の方も見てみる。
これで「第四会議室備品」とか書いてあるシールが貼ってあれば、それで話は済むのだ。
しかし実際のところ、貼ってあったのは全く別の物だった。
我知らず「あっ」という声が俺の口から零れる。
「このシール……」
俺の視線が吸い寄せられたのは、タブレット端末の右下。
正確には、そこに貼られているプリントシールである。
ゲームセンターによく存在する、例のマシンから手に入れることが出来るアレだ。
恐らくはこのタブレット端末の持ち主が、親しい友人たちと共に撮影したのであろうプリントシール。
それが、端末の片隅に貼られている。
借り物のタブレットにシールを貼るなよ、と一瞬思ったが────重要なのはそちらでは無くて。
「この映っている人たち、グラジオラスだよな?さっきの、五人のメンバー……」
この手のシールの宿命か、画像とフレームにはかなりの加工がされていたが、流石に先程見たばかりの顔は容易に判別出来た。
アイドルをしているだけあって、五人とも分かりやすくはっきりとした顔立ちをしているのも大きい。
左の方には、長澤菜月が居る。
中央には、天沢茜も居る。
名前は知らないが、残り三人も漏れなく映っていた。
恐らくどこかのゲームセンターで五人揃ってこれを撮影し、タブレットにそのまま張り付けたのだろう。
その程度のことは、見た瞬間に分かった。
要するにこのタブレット端末は、あの五人の内の誰かが渡されている物なのだ。
まさか、全く関係の無い人間がこういったシールを貼るとも思えない。
思い返せば、昨日ロッカーで見つけたタブレット端末にも貼ってあった気がする。
「そう言えば、さっきの会話でも『いつもの場所で休む』とか何とか言ってたな……」
ここまで来て、適当に聞き流していた会話が脳裏に蘇っていた。
「あー、確か、一時間くらいいつもの部屋で休んでから、雛倉ジムに行くとか何とかー……」
「へえ……あ、でも、茜がいるなら、私たちもちょっと、あの部屋で休んでおく?まだ晩御飯には、ちょっと早いし。シャワー浴びるにしても、そんなにかからないでしょ?」
「そうですね。三十分くらい、時間潰しましょうか……」
確かにこう言っていた。
天沢茜は、ジムに向かう前に「いつもの部屋」で休む。
それに乗っかる形で、長澤菜月ともう一人のメンバも「あの部屋」で休む、と。
「その『いつもの部屋』って言うのは、姉さんの話から考えても多分ここだよな。レッスン室からも近いし……」
確認するように、ひとりでに声が口から出た。
恐らくここは、グラジオラスメンバーにとってはたまり場のような場所なのだろう。
だからこそ、ちょっとした休憩や時間潰しに使われている訳だ。
「ここに入った時、意外と室温が快適だった理由はこれだな。ついさっきまでグラジオラスメンバーが居たから……」
この部屋に入った時のことを思い出して、俺は今更ながら納得する。
今はまだ四月。
季節としては春だが、肌寒い日も多い。
当然この休憩室の利用者が居なかったならば、もうちょっと室温は低くてもいいはずである。
だが実際にはそうでも無かった。
つい先ほどまでグラジオラスメンバーがこの部屋を使い、空調を使用して部屋を暖めていたからである。
「そして俺が掃除をしている間に休憩が終わって、帰って行っちゃったんだな。二人は夕食に、天沢茜はジムに……このタブレットを使用していたのは、その前か」
うんうんと頷きながら、俺は経緯を把握していく。
恐らくその用事に向かったまま、これの持ち主は忘れ物をしたことに気が付いていないのだろう。
もし気が付いているのなら、すぐにでも戻って回収されている。
推測となるが、天沢茜はジムでの用事に、残り二人は夕食に忙しく、誰が持ち主だったにしてもそもそもタブレットに触れる機会自体が無い。
故に、俺がこれを見つけてしまったのではないだろうか。
所詮は妄想だが、そう外れてはいない自信がある。
目の前のタブレットは、この部屋を利用すると言っていた三人内の誰かの物なのだ。
「さて、そうなると……どうすればいいんだ、これ?」
自然と。
俺の口からは、自問自答が零れ落ちた。
────普通に考えれば。
俺はすぐにでも、このタブレットの存在をボヌールの人間に伝達するべきなのだろう。
事務の人でも姉さんでもいいから、誰か偉い人に。
どう考えたって、それが一番良い判断だ。
昨日姉さんが言っていた通り、情報端末の置き忘れと言うのはこの現代においては洒落にならない被害を呼ぶ。
一般人ですらそうなのだから、アイドルなら猶更だ。
姉さんは「置き忘れを見つけたらみっちり説教」と言っていたが、あの対応は全く間違っていない。
いや何なら、芸能事務所に所属する人間としては極めて誠実な行為といって良いだろう。
だから俺はすぐに、このタブレット端末を持って事務室にでも駆け込むべきだ。
それが理屈と言う物である。
しかしここで、少し感情的な意見を許してもらえるのなら────。
「あれだけ頑張っているのに、この一件で説教されるのも何かアレだって、昨日思ったばかりなんだよな……」
俺個人としては、そんな感想が零れ出る。
同時に、困った俺は首の後ろをバリボリと右手で掻いた。
身勝手な上に偽善的な思考であることは理解していたが────それでも、だ。
昨日今日と、レッスンをチラッと見ただけだが、それでも彼女たちが必死になって頑張っていることは理解している。
中途半歩な気持ちでは、あんな紫色の顔色にはならないだろう。
天沢茜に至っては、頑張りすぎてオーバートレーニングになったとか言っていた。
この時間は彼女たちにとって、その大変なレッスンがようやく終わった時間帯である。
その時間に「タブレットを置き忘れていたぞ、すぐに事務所に戻れ」などと連絡が入り、そのまま説教……というのは、少々可哀想に思えた。
置き忘れをしたのは本人の責任なので、言ってしまえば自業自得なのかもしれない。
しかし俺はちゃんとしたボヌールの人間という訳でも無いので、どうしても同情心が強く出てしまう。
一方的な哀惜に過ぎないとしても、何かこう、もっと穏やかに収められないか。
「昨日思いついた通り……ボヌールの人にバレる前に、何とかこのタブレットを本人に直接返せないかな……」
自然、そんな思い付きが口から飛び出た。
無論、昨日姉さんから「ちゃんと報告しろ」と言われた次の日にこんなことをするというのは、ルール違反というか、控えめに言ってもグレーゾーンだ。
でもその方が、俺的には満足できる気がする。
だって今のところ、この置き忘れられたタブレット端末については俺しかその存在を知らない。
ボヌールの人間やこれを忘れた張本人でさえ、事態にはまだ気が付いていないのだ。
つまりここで、俺がタブレット端末を本人に返してしまえば、何の問題にもなりはしない。
問題が発生する前に、勝手に解決するのだから。
これを忘れたアイドルからすれば、叱られずに置き忘れが解消できてラッキー。
俺の方は、自己満足を果たすことが出来てラッキー。
ボヌールとしても、俺がタブレット端末を回収した形になるので、情報漏洩が起こらずにラッキー。
一応、全員に損が無い。
誰かに極端に迷惑をかける、ということも無い。
尤も、実行しようと思うと大きな問題が立ちはだかるが。
「問題は、返す方法だな。このタブレット、具体的には誰の物だ?まず、そこが分からないと……」
タブレット端末を前にしながら、俺は小さく唸った。
今のところ分かっているのは、グラジオラスメンバーの内、三人がこの部屋を使用しただろうということだけ。
プリントシールの位置は昨日見た長澤菜月のロッカーにあったそれと同一だが、だからと言って彼女の物とは言い切れないだろう。
五人全員がシールを同じ位置に貼ってある可能性もある。
このシールだけでは、誰それの物だと断定は出来ない。
それでもこれを本人に返そうと思うと、どうすれば良いのか。
少し、俺は脳内でシミュレーションをしてみた。
まず、三人の内の誰かに適当に渡せばどうなるだろうか。
三分の一の確率で本人に渡るし、仮に間違っていたとしても、メンバー同士で互いに連絡を取り合って──メンバー同士なら連絡先くらい知っているだろう──持ち主に手渡すことが出来る。
というか、「ボヌールに知られずに本人に返す」ことだけを目的とするのなら、この部屋を使用したと思われる三人でなくとも、グラジオラスメンバーにさえ返せれば誰でもいいのだ。
一見、これは問題が無い提案のように思える。
何らかの形で、タブレット端末を返せはするはずだ。
だがよくよく考えると、これはこれで別の問題が発生するのではないかということに俺は気が付いた。
「もしタブレットを渡した相手が持ち主以外の人で、なおかつ凄く真面目な人だったら……その場でボヌールの方に連絡されるっていうのもありそうだな。本末転倒、というか」
考えすぎかもしれないが、致し方ないだろう。
俺は現状、彼女たちの性格を全く知らない。
何となく「律儀そう」とか「頑張ってそう」というイメージはあるが、所詮はイメージだ。
彼女たちの中には滅茶苦茶規則に厳しい人が居るかもしれないし、ゴリゴリのルール人間も居るかもしれない。
そうでなくても、生真面目に「有耶無耶にしちゃいけない」と事務所に連絡が入るかもしれない。
可能性だけなら、いくらでも考えられる。
仮にこのタブレット端末をそういう感じのメンバーに渡してしまったら、話がややこしくなるだろう。
すぐに忘れ物を事務所に連絡しなかった俺まで、その人の通報により連鎖的に叱られるかもしれなかった。
つまり、俺の望み通りに秘密裏に持ち主にタブレットを返したいのであれば。
これを忘れた張本人をどうにかして特定して直接返すのが、一番スマートで、一番話がこじれないのだ。
持ち主本人が生真面目なタイプだった場合は、それはもう諦めるとして。
まずはこの状況を分析して、忘れたのは誰かを推理しなくてはならないのだ。
「事務所の人に聞く訳でも、他のメンバーに聞く訳でもなく……完全に状況証拠だけで、これの持ち主は誰か推理しなきゃいけないんだな。その上で、本人にこっそり返しに行く」
改めて話をまとめ直し、その上でふと思った。
自分で思いついておいてなんだが、結構な無理難題じゃないだろうか、これ。
だってこれはつまり、誰かに頼ることも出来ず──例えば姉さんに頼ったらその瞬間、置き忘れのことが事務所にバレて説教コースである──状況だけを見て推理をしろ、ということなのだから。
掃除前に遠目で見ただけのアイドルメンバーの持ち物の区別を、今この場で考えなくてはならない。
タブレットにはロックが掛かっているだろうから、中を見て持ち主を特定することも不可能である。
「……しかも、よく考えたらタイムリミットまであるな、これ」
ついでに、更なる難点にも気がつく。
タブレットの持ち主候補たちは、休憩室を出て行ってからの予定をどう話していたか。
長澤菜月と同行メンバー──名前が分からないが、高校生くらいの女子だった。とりあえずXと呼ぶ──は夕食を楽しみに行く、との話だった。
行き先は事務所前のファミレス。
時間から考えると、今はまさに食事中なのだろうか。
一方、天沢茜は駅前のジムに行くとの話だった。
オーバートレーニングにならないトレーニングのやり方について教えてもらう、だったか。
この事務所は駅からそこまで遠くないし、恐らく今はそのジムに居る頃だろう。
ここで重要なのは、俺は彼女たちがそのファミレスやジムで用を終えた後、どこに向かうのか全く知らないという点である。
もしかしたら家に帰るのかもしれないし、また別の用があるのかもしれないが、どちらにせよ俺は居場所が分からない。
つまり今の時刻からそれなりに時間が経過して、彼女たちがそのファミレスやジムから移動したが最後、俺が仮に持ち主を特定したとしても渡しに行けなくなるのである。
相手がどこに居るか分からないのだから、渡しようがない。
一応、明日バイトに来た時に、レッスンで来ているかもしれない相手を探して渡すという手もある。
だがそんなに時間が経てば、持ち主自身も「自分がタブレットを忘れた」ということに気が付き、探しに来る可能性が高い。
そうなると、そこでアウトになる。
彼女が事務所内をウロウロと探し回っていたら、俺がその人物にタブレットを返す前に事務所の人間に気がつかれ、説教コースに入るだろうからだ。
同様の理由から、「見ない振りをしてタブレットをこの部屋に置いていく」もアウトとなる。
要するに俺がこのタブレットを返しに行ける時間帯は、今しかない。
相手にファミレスやジムから移動される前にこれの持ち主を推理し、渡しに行かなければならないのである。
正直、時間的にはかなり厳しい。
ジムに向かった天沢茜はともかく、ファミレスに向かった二人などは、残り時間は三十分も無いのではないだろうか。
俺が彼女たちの場所に行くための移動時間も考慮すると、推理にかけられる時間はその半分もあれば長い方か。
諦めた方が良い場面なのだろうな、という自覚はあった。
普通に、事務所に「忘れ物ありましたよ」と告げた方がよっぽど楽だし、何なら正しい。
だけど────。
「やれるだけ、やってみるか……無理だったら、それこそ事務所に報告しにいけば良いんだし」
何故か、俺の口から出た言葉はそれだった。
理由は、自分でもよく分からない。
もしかすると、初めてのバイトということで変なテンションになっていたのかもしれない。
或いはただ単に、アイドルに恩を売りたかったのかもしれない。
もしくは、姉さんが手紙で書いていた「弟は謎解きが得意」とかいう戯言を、案外無意識に信じてしまったのか。
何にせよ──自分でも不思議なのだが──俺はここで、推理をする、という方を選んだ。
そして決意通り、一先ずは問題のタブレットと相対してみる。