変更 或いは登場
「勿論、単純にど忘れしてるかもしれませんし、確定では無いですけどね。桜さん、仕事に集中すると他のことは目に入らなくなるところありますし……」
「まあ、確かにそういうところはある人だけど……それでも、ど忘れ、か」
考えにくいな、という風に奏さんが唸る。
まあ確かに、彼女がそう思うのも無理はなかった。
そう考えつつ、私はチラリ、と横目で着席した桜さんの方に視線をやる。
当然ながらそこには、先程までと同様に厚着をしたままの桜さんの姿があった。
椅子に座ったというのに上着も脱がず、サングラス越しに黙々とメニューを選んでいる。
──どう考えても、普通にメニューを選んでるだけだよね……仕事とか、何かに熱中って雰囲気じゃないし……。
それを確認して、私はいよいよ気分を低調にさせていった。
何というか、桜さんを観察していけばいくほど、先程自分で言った「実は誰かと密会しようとしている」という仮説が現実味を帯びていくのが怖かったのだ。
なんてことを思いついちゃったんだろう、私。
今のところ、桜さんの向かいには誰も座っていない。
だけどもしかすると、今この瞬間にでも、彼女と同じくらいに変装した誰かが座るのかもしれない。
そう考えると──その行為の影響がどれほどの物か、想像出来てしまう分──心臓が嫌な高鳴り方をするのが分かった。
考え過ぎが、考え過ぎでなくなってしまっている。
「あ、注文するみたい」
「え?あ、本当ですね」
そうこうしているうちに、同じように桜さんを観察していた奏さんが、そんな報告をした。
つられて思考を現実に戻すと、確かに、桜さんが片手を挙げて店員さんを呼んでいる。
いい加減、注文が決まったのだろうか。
「すいません。ここの、『極イチゴのロールケーキスペシャル』を一つ……アイスミルクティーも」
「かしこまりました」
丁度周囲が静かになっていたせいか、桜さんの注文は──偶然だろうけど、奏さんのそれと同じものだった──はっきりとこちらの耳に届いた。
というか、マスクなんて身に着けているせいで声が籠ってしまうので、店員さんにちゃんと聞こえるよう、桜さん自身も気持ち大きめに声を出したらしい。
ちゃんと注文を聞き遂げた店員さんは、聞き返すことも無くスタスタと立ち去ろうとする。
あのような不審者ファッションの人を相手にしても、一切不審そうな言動を見せない辺り、この店員さんもプロだ。
尤も、今注目すべきことはそれじゃなくて────。
──とりあえず、桜さん一人で注文した、か……でも、だからと言って密会の予定は無いとは言い切れないよね。後から誰か来て、その人は来た時に注文するのかもしれないし。
その光景を見ながら、私はそんな感想を抱く。
我ながら、異様に疑り深くなっている自分の考え方が嫌になってきたけど、一度考えだすと止まらなかった。
もしかするとこの辺り、松原さんの影響でも受けているのかもしれない。
────そして、そんなことを考えた瞬間。
突然店内に、とある声が響いたので、私たちは一気に意識をそちらに持って行かれた。
当然の反応だろう。
だってその声は、明らかに、桜さんが店員さんを呼び止めるために発したものだったのだから。
「あ、駄目だ、これ……えっと、すいません!」
最初の半分は、独り言。
もう半分こそ、店員さんに向けたものなのだろう。
既に店員さんが去っていこうとしていたこともあり、結構な音量で、桜さんは呼びかける。
自然、店内のお客さんたちの視線が一気に桜さんに向く。
私たちの二つ隣、例のカップルも、桜さんを見つめているのが分かった。
その視線に迎え入れられるようにして、店員さんが戻ってくる。
「お客様、どうなされましたか?」
「あ、その、すいません。ちょっと、注文変えたくて。さっきの、取り消させてください」
桜さんがそう告げた瞬間、店員さんの顔が怪訝そうなそれに変わる。
当然だろう。
今しがた、桜さんは注文をしたばかりなのだから。
届くのを待っている間に気が変わるとかならともかく、こんなに秒速で注文内容を変えるなんてこと、中々無い。
桜さんは、客観的に見て、変に思われて当然の行動をしていた。
しかし、それでも店員さんはやはりプロなのだろう。
すぐに表情を切替えて、話の続きに移っていく。
「分かりました。では、新しいご注文は?」
「あ、はい。アイスミルクティーはそのままで、ロールケーキの方は、『fraiseの原点イチゴショート』に変えてください。……本当に、すいません」
手早く注文の変更を告げながら、桜さんは何度も頭を下げる。
その動きからは、本心から申し訳なく思っているのが透けて見えた。
謝るしかできない、というような。
「分かりました、『fraiseの原点イチゴショート』ですね。他に変更は無いですか?」
「ありません、大丈夫です」
「分かりました、では、お席で少々お待ちください」
手慣れた風にそう告げて、今度こそ店員さんは立ち去っていく。
それを受けて、桜さんも席に戻った。
同時に、店内の客の視線もめいめい散っていく。
よく分からないけど、所詮はただの注文変更でしかないらしい、という事実を把握したのだろう。
桜さんの声を切っ掛けにやや静かになっていた店内は、瞬く間に元のざわめきを取り戻した。
────私たちを除けば、だけど。
「奏さん、今のは……」
「何だろう?どういう意図で?」
一部始終を見守ってから、私たちは顔を見合わせる。
そして、シンクロするように首を捻った。
本当に、訳が分からない。
グラジオラスメンバーが変な恰好でお店に来ていると思ったら、今度はまた変な注文をしていた。
この状況は、どうやれば説明がつくのか。
「今のも、何か関係あるんでしょうか?それとも、単なるミス?」
「いやでも、ミスにしては変じゃない?最初は普通に、ロールケーキだって断言してたんだし……何か、言い終わってから別の事情に気が付いた、みたいな感じじゃなかった?ロールケーキを注文しちゃいけない理由を、突然思い出した、みたいな」
そう言われて、私は桜さんの言葉を思い出す。
確かに、そんな感じのことを言っていた。
注文の訂正を求める直前、「駄目だこれ」という感じのことを口走っていたように思う。
「何ですかね……実は、桜さんもアレルギーとか?ロールケーキに、そういう成分が入ってたとか」
混乱しながらも、私は有り得そうな仮説を挙げてみる。
ここの割引券をくれた、凛音先輩の話に絡めてみたのだ。
しかしこの考えは、即座に奏さんに否定された。
「ううん、違うと思う。桜さんにアレルギーとかがあるなんて、聞いたことないし。前も、控室でロールケーキとかを貰った時は、パクパク食べてたよ?」
「そうでしたっけ?」
「うん。菜月はちょっと疲れていたみたいだから、覚えていないかもしれないけど。撮影後だったし」
そう言われて、確かにそれは覚えていないかも、と思う。
私は基本的に体力が無いので、収録後というのは常に疲労困憊になってしまっている。
そんな状況でメンバーが何を貰って、何を食べていたかというのは、正直記憶にとどめる余裕はない。
「ええとつまり、ロールケーキを食べられない、なんてことは無い。つまり、体質的に駄目だったというより、また別の理由があるんですかね?」
「どうだろう……駄目、訳わかんなくなってきた」
そう言って、奏さんは自棄になったように自分の分のロールケーキをガーッとフォークで突いて食べた。
何とか落ち着こうとしているのかもしれない。
そして、それを一息に食べてから────こんなことを言った。
「桜さんがあんな厚着をしている理由も、私たちに連絡を取らなかった理由も、突然注文を変えた理由も、何も分からない。というか、どれがどの話と繋がっていて、どれが無関係なのかも分かんない!」
「ですね。本人に聞くのも、何か怖いですし」
自嘲するようにして軽く笑う奏さんを前に、私は力なく頷く。
多分、私たちは二人とも、同時に「ここが限界だ」と考えていた。
私たちでは、この理由は突き止められないだろう、と。
そして、そう認めてしまうと、私たちには三つの選択肢が残されることに気づく。
これから選ぶことの出来る、三つの進路が。
その内の一つは、ごく単純。
ゴチャゴチャ言わずに、桜さんに直接聞きに行くと言うもの。
もう一つは、さらに単純。
どうせ考えたって分からないのだから、全てを忘れて見なかった振りをする、というもの。
そして、最後の一つが────。
「また、松原君に頼ってみようかな……もしかすると、月野先輩の一件みたいに大きな話になっちゃうかもだけど、逆に言えば彼も謎解きの経験があることだし」
アイスカフェオレの氷を揺らしながら、奏さんはその「最後の一つ」を口にした。
私はそれを聞いて、そうくるだろうな、と思う。
何となくだけど、予測していた流れだった。
ここのところ、何かしら厄介な話、ちょっと気になる話に出くわした時、奏さんは習慣のように彼に頼っている。
私が知っているだけでも二回、私が知らない話まで含めると、もしかするともっと、頼みごとをしたことだってあったかもしれない。
月野先輩の一件から、彼の推理力は信じるに足る、と踏んだのか。
──まあ、あの人が本当に魔法みたいに色々と真相を暴いてくれるのは本当だけど……。
そのことは認めつつ、私はそこで少し、不安に思った。
だから、一応問いかける。
「でも、解いてくれますかね?こうやって直に見ている私たちでも全然分からない話で、しかも時間も結構遅いですし」
「んー、でも、バイト自体はそろそろ終わってる時間帯だしね。話を聞いてもらえるくらいは、何とかなるんじゃない?」
そう言って、奏さんはスマートフォンを軽く操作し始めた。
彼女の様子からは、言葉にせずとも、松原君への信頼が透けて見える。
とりあえず、今大丈夫なのか、というような確認の言葉を打ち込もうとしているのか。
彼女は、松原さんとのトーク画面を画面上に呼び出して、すぐさまスタンプを────。
「申し訳ないが、その手は止めてもらっても構わないかな?探偵なら、きっと間に合っているから」
────奏さんが、そうしようとした瞬間。
夏に似合わない、涼やかさを感じさせる声が、私たちの隣から降ってきた。
響いた、でも、聞こえた、でもない。
降ってくる、としか言いようのない、突然の声。
その声が、私たちの動きを止める。
一瞬、私も奏さんも、表情を殺して固まってしまう。
そのくらい、突然の事だった。
勿論、動きを止めたのはほんの数秒。
すぐに自分を取り戻すと、私たちは同時に声が聞こえた方向を向いて振り向いた。
そして、多分これまた同時に。
全く同じ感想を抱く。
あれ、この人、と。
──さっきまで見てたカップルの……彼氏さん?
いつの間に、近づいてきていたのだろうか。
私たちの席の隣、隣席との間の僅かなスペースに、彼は立っていた。
つい先ほどまで、彼女さんと楽しく話していたはずの、彼氏さんが。
見上げる形での視界に映るのは、桜さんほどでは無いけど、妙な厚着。
さらに、目線を隠すような帽子。
そして、今一つ観察しにくい顔。
そんな、振り返ってみればまあまあ怪しい恰好の彼が、私たちの隣に立っている。
わざわざ、彼らの席から立ちあがってまで。
──え、何で……というか、今、何を。
あまりにも予想外の展開に、私たちは彼の顔を見上げながらもう一度固まる。
そして、救いを求めるようにして、彼が本来居るべき席────彼女さんが座っている席の方を見つめた。
よく分からないけど、止めてくれないかな、と思って。
しかしそこに視線を移した私は、予想外の光景を見つける。
──あ、彼女さん、頭抱えてる……。
そちらの席では、彼女さんが比喩では無く、実際に頭を抱えていた。
左手を頭に添え、困ったような、或いは仕方がないな、と諦めるような顔を浮かべている。
そんな表情でも十分に絵になる辺り流石だけど、とりあえず、彼氏の行動を止めてはくれないみたいだった。
「ええと、その……どうかされましたか?何か、迷惑でも?」
私がそんなことをしている内に、何とか我に返ったらしい奏さんが、恐る恐る、という風に口を開いた。
とりあえず、話を聞かなくては何も始まらない、と踏んだらしい。
「迷惑?いや、別にクレームを言いに来た訳じゃない。確かに、話の途中から声がやや大きくなっていたけど、不快に思う程じゃなかったよ」
「あ、声、大きかったですか。それはその、すいません」
「そのお陰で興味深い話が聞けたんだ。そちらが謝ることじゃないよ」
そう言って、彼氏さんはニコリと笑った。
さらに、私たちを安心させるようにゆっくりと、こう続ける。
「私がここに来たのは、また別の話だ。先程から漏れ聞こえる話を何となく聞いているうちに、思いついたことがあってね。だからこそ、こうして探偵の真似事をさせてもらいに来た次第だ」
彼の言う「私」という単語は、やや言いなれていない口調になっていることに、私は何となく気がつく。
普段は「俺」とか「僕」のような、もっと別の一人称を使っているのに、初対面の人間の前だからかしこまって「私」にしているかのような、そんな硬さが残っていた。
けど、そんなことは今はどうでもよくて。
重要なのは、彼の言葉の後半にあった。
「探偵、ですか?」
聞き捨てならない単語に、私は反射的に問い直す。
もしかすると聞き間違いか、とも思ったのだけど、彼はすぐに「そうだ」と頷く。
自分は、探偵の真似事をしている人間なのだ、と。
──……えーっと。
いよいよ、頭が処理しきれなくなってきて、私は本気で頭が真っ白になる。
今日という一日は、一体何度私を混乱させれば気が済むのだろう。
最初にちょっと不思議なカップルを見つけさせて。
その次に桜さんの変な動向を気にして。
挙句の果てには、探偵を名乗る少年の登場だ。
ちょっと、普通なら有り得ない展開だろう。
あまりにも、盛り沢山すぎる。
それぞれ一つずつだけでも、一度自分の身に起きれば、向こう一週間は会話の種に出来る濃さがあるんじゃないだろうか。
しかし、どれだけ認めがたくても現実は現実。
今、実際に探偵の真似事をしたいという少年が目の前に立っていて。
仕方なく、私は一番最初のとっかかりから攻略していく必要性に駆られた。
自己紹介、という部分から。
「あの、その前に、お名前は?」
ここで聞くのも変な気がしたけど、そもそもこの人たちの名前すら、私たちはよく知らない。
そう考えた末に、私はとりあえずそう聞いてみる。
すると、眼前の彼は、何故か少しだけ驚いたような顔をして────それから、こう答えた。
「ああ、私の名前か……そうだ、名乗って無かったな」
コホン、と一度咳払い。
その後、こう続ける。
「自己紹介が遅れてすまなかった……初めまして。私の名前は、相川葉だ」
東京旅行中の、高校二年生だよ、今日は偶々、チケットが手に入ったミュージカルを見た帰りなんだ。
当たり前のようにそう告げながら、彼は、私たちを幾度目かの混乱に突き落とすのだった。