拝借する時
「ええっと……まず、どうやって濡れずに帰ったのか、とかの部分から話そうか。ここの部分が一番簡単というか、難しく考えすぎていた部分だから」
『難しく考えすぎていた?どゆこと?』
急に砕けた言葉遣いになりながら、鏡が問い返す。
恐らく、スマートフォンの向こうではさぞ不思議そうな顔をしているのだろう。
そのことに少し笑いながら、俺はサラリと解答を告げる。
「そのままの意味だ。帯刀さんは、何を傘を使わなかったわけでも無いし、忘れたわけでも無い。……普通に傘を使って、ボヌールにまで戻ってきたんだ。だから、濡れていなかった。それだけだよ」
ごくごく、当たり前の話。
雨が降った時の歩行者が行う、普通の行動。
帯刀さんがしたのはそれだけだと、俺は鏡に告げる。
しかし、案の定というか。
鏡はすぐに、混乱したような声を返してきた。
『えっ、でも……それだと、話が繋がらなくない?ボヌールにまで傘を使って帰ったなら、何でこっちに傘が残ってるの?』
「ああ、そこが変だな。だから、その点についても普通に考えるしか無い」
『普通に?』
スマートフォン越しの、訳が分からない、という感じの声。
それを解消するべく、俺は更に答えを続ける。
「単純な話だ。帯刀さんがボヌールに帰った後、別の人がその傘を使って、スタジオまで歩いて行ったんだよ。だから、スタジオの傘立てに傘が残っているように見えたんだ」
滅茶苦茶つまらない真相だけど、今回の話は、要するにこれだけの話だったんだ、と。
そう告げると、スマートフォンの向こうから、いよいよ声が聞こえなくなったのが分かった。
まず間違いなく、納得したからでは無い。
絶句したのだろう。
事実、ようやく声を出した鏡の言葉は、更に混乱したものとなっていた。
『え、え、え、ちょっと待って、置いてかないで』
「待ってるぞ。置いて行ってもない」
『いや、置き去りにしてるって。ええと、つまり何?……誰かボヌールの人に、帯刀さんが傘を貸したってこと?だから、こっちに傘があるの?」
絶句している間にしっかりと考えたのか、今度の疑問はただ混乱している訳ではなかった。
ちゃんと、筋道通った仮説をぶつけてくる。
そのことに少し感心しながら、俺は彼女の言葉を否定することになった。
「いや、多分だけど、そうじゃないと思う。恐らくは、帯刀さんの傘は勝手に使われたんだ。こんな天気だし……朝は、降っていなかったしな」
「朝?」
「ああ、朝、だ。今回の話には、朝と今の天気が関わっている」
そう言っておいてから、俺はいつものように一息に推理を語っていくことにした。
一々質問を聞くよりも、多分こっちの方が早い。
「まず、天気から振り返ろう。鏡も知っている通り、今日の朝早くは、まだ雨が降っていなかった。まあ、午前八時くらいになると降り始めて、そこからはずっと降ってるけど」
「そんな天気だから、帯刀さんはスタジオに向かう時、傘をさして歩いて行くことになった。ここはまあ、彼女の話通りだ」
「特筆すべきこともなく、彼女のレコーディングは終わる。この時くらいに、君たちも帯刀さんとすれ違ったんだろう?そう言ってたし」
「そして、帰り道だ。ここで彼女は、雨が降ってるのに傘を忘れたんじゃないかとか、俺は難しく考えすぎたが……何のことはない。さっきも言ったように、普通に、帯刀さんは傘をさして帰ったんだろう」
「そんな風にして、帯刀さんはすぐにボヌールに着いた。当然、そこで自分の傘は、ボヌールの関係者用入口にある傘立てに置いたことだろう」
「それを終えた後、レコーディングの疲労から、帯刀さんは休憩室で昼寝に移った。だからまあ、今回の一件における彼女の行動に関しての推測は、ここで終わりだ」
「ここからは、帯刀さんというよりも、その傘の動きがメインになる」
「今回の推理で重要なのは、ここからだ。だから少し、今までの経緯は忘れて、帯刀さんの傘の特徴を思い出してほしい」
「彼女の傘が、どんな外観だったのか」
「あの傘は……まあ、正直なところ、そんなに綺麗な傘じゃないだろう?むしろ汚れているというか、使い古されている感じというか」
「鏡や長澤だって、あのシールがなければ、帯刀さんのそれだと気が付かなかったんじゃないか?普通に、ボロい傘が打ち捨てられてるな、くらいにしか思わなかったかもしれない」
「何が言いたいかといえば……何のためにシールが貼ってあるのかを知らないような人からすれば、本当にあの傘は、捨ててあるようにしか見えなかったかもしれない、ということだ」
「ほら、傘立てを見ていると、偶にあるだろう?傘立ての端の方に、ずっと置いてある、持ち主不明の傘ってやつが」
「多分、持ち主が一回忘れて帰ってしまって、その上で取りに来なかったんだろうなーって感じの、古い傘」
「掃除とかが余りされない場所だと、延々置いてあるようなやつ」
「帯刀さんの傘は、初見の人には、そういう傘に見えたかもしれない、という話だ」
「それを理解した上で、一つ、想像してほしい」
「もし、その傘を……如何にも放置されていそうな傘を、見つけた人が居たとしたら?」
「なおかつ、その人が何らかの理由で、傘が必要な状況になっていたとしたら?」
「……その人が、勝手に帯刀さんの傘を使って外出する、と言うことは、十分に有り得るんじゃ無いだろうか」
「まあこの場合、その人の目的は、レコーディング中のスタジオに向かうこと、と言うことになるんだろうが」
「……顔は見えないけど、訳が分からなそうな顔してるんだろうな、多分。少し、話が飛び過ぎたか」
「そうだな、じゃあ一度、話をリセットしようか」
「傘から少し離れるが、ここを想像してもらわないと、話が分からないだろう。少し、付き合ってくれ」
「とある、ボヌールの人間の話だ」
「その人の今日の行動を、今から言う通りにイメージしてほしい」
「そうすれば、何故その人が帯刀さんの傘を勝手に持って行ったのか分かる」
「まずその人は、ボヌールの社員だ。仕事の一環として、アイドルのレコーディングに関わるような立場にある、そんな人だ」
「そんな人が、今日、ボヌールに来ていたとしよう。来ていたも何も、普段通りの出勤だけどな。その人物は普通に、朝早くに出社してきた」
「出社した時間は、かなり早い時刻だったんだろう。芸能事務所だしな。忙しいし、時間も不規則になる」
「そして、ここからが大事なんだが……その人物は多分、傘を持たずに家を出た」
「折り畳み傘とか、濡れないようにするための手段を一切持たず、ボヌールに来たんだ」
「何故そんなことになったかは、概ね想像出来る」
「まず、時刻だ。さっきまで言った通り、今朝はまだ、雨が降っていなかった。だからその人が出勤する頃は、まだ一滴も降っていなかったんだと思う」
「それ故に、うっかり傘を持ってくるのを忘れた。或いは天気予報を見ておらず、必要ないと判断した、というのは、有り得る話だろう。まだ空が薄暗かったなら、空模様も分かりにくいし」
「まあ、平たく言えば、うっかりしていた訳だ」
「途中で言ったかもしれないが、少なくとも、『雨が降っていながら傘を忘れる』ことよりは、『今は雨が降っていないから傘を忘れる』ことの方が、起こる可能性が高いからな」
「そういう経緯で、その人は傘を持たないまま出社して、ボヌールで仕事をしていた」
「屋内で仕事をしている分には、傘なんて要らないし、それで良かったんだろう」
「だが、問題はその後だ」
「その人にとって、面倒なことが起こった」
「具体的な時刻としては、帯刀さんがレコーディングを終え、ボヌールに戻ってきた昼過ぎのことだろう」
「その人物に、急遽用が入ったんだ。……レコーディング中のスタジオに、急いで向かわなければならない、という用件が」
「完全に妄想だが、ボヌールの人なんだし、有り得なくも無いだろう?」
「当然、ボヌールの社員として、その人物はスタジオに急いで向かうことになった」
「……しかし当然、その人物はここで困ることになる」
「何故かと言えば、傘がないからだ」
「この時には、時間的にはもう、雨が盛大に降ってしまっている」
「とてもじゃないが、濡れずに歩いて現場にまで向かうのは不可能だ」
「どうやったって、歩きでは悲惨な目にあう」
「まあ、バスや電車を使うとか、タクシーを呼ぶとか、傘以外の移動手段はあるけどな」
「だけどこの場合、ボヌールとスタジオは位置的にそこまで遠くない。すぐそこのスタジオに行くだけのことにそんな方法を使うのも、躊躇われたんだろう」
「だからその人物は、さっさとどこかで傘を調達して、スタジオに向かおうとした」
「では、どうするか?」
「一番良いのは、というか、普通の方法は、コンビニとかで傘を買うことだ」
「今時、コンビニで傘を売ってないなんてことは、そうそう無いだろう。どこかのコンビニなり売店なりに駆け込めば、ビニール傘くらいはまあ何とかなる」
「勿論、そのコンビニに駆け込むまでの間は濡れるし、あまり高くないとは言え、予定外の出費を強いられるのはマイナス点だが」
「そう言うのを避けたいのなら、誰か別の社員から傘を借りる、という方法もあるな」
「その人物は傘を持ってこなかったが、他の人がそうとは限らない。もっと準備がいい人、或いは遅く出社した人は、傘をちゃんと持ってきている可能性が高い」
「そう言う人から傘を借りて、スタジオまで走ると言うのも、一つの手だろう。借りる相手の了承を得るために、事情説明をしなくちゃならないのがちょっと手間だが」
「だけど……恐らくその人は、もっと手っ取り早い手段を使った」
「新しく買いに行ったり、借りるための交渉をしたりするのを、面倒くさがったのか」
「或いは単純に、外に出ようとしている時に、ボヌールの傘立てを見たのかもしれない」
「帯刀さんの傘が────如何にも置き去りにされていそうな、古い傘がそこに放置されているのを、その人は見つけたんだ」
「そして多分、こう思った」
「恐らく、この傘は持ち主も置いていってしまったような物、有体に言えばゴミだろう」
「だったら、ここから持って行っても良いんじゃないだろうか、と」
「……少し、想像しにくいか?」
「まあ確かに、厳密に言えば窃盗だしな、これ。どれだけ困っていても、そんな事はしない、という人も多いだろう」
「もしかしたら、持ち主が困るかもしれないし、と考えられる人は」
「だけどまあ、その逆を考える人も、世の中多い」
「明らかに放置されてるっぽいし、まあ良いだろう、くらいの考えで、傘を持ち出す人って、結構いる」
「仮に持ち主が現れても、被害額が少額な場合が多くて、盗まれた側も一々訴えるようなことはあまり無いし」
「実際、よくある話だと思う。適当な傘を取ってきて使うとか、別人の傘を持って帰ってしまうとかはさ」
「今日の昼も、まさにそれが起こった訳だ」
「その人物は、傘立てにあった古い傘──帯刀さんの傘──を勝手に持ち出して、スタジオに向かった」
「勿論、そこに辿り着いたら、その人は傘をスタジオの傘立てに置いたことだろう」
「その上でスタジオ内に入り、仕事に移った訳だ」
「……そして」
「この人物が傘立てに勝手に取ってきた傘を置いた、このタイミングで、長澤がスタジオの傘立てを見つけた」
「だからこそ、こう思ってしまった訳だ」
「あっ、帯刀さん、また傘を忘れていってる────」
「実際にはその傘は、一度ボヌールに持ち帰った物が、もう一度スタジオに持ちこまれたんだけどな」
「長澤としてはそんな事情は知らないから、誤解をした訳だ」
「長澤自身が、先程までスタジオに居た帯刀さんの姿を見ていたのが、その誤解を補強してしまったんだろう」
「そしてこの証言により、本来は簡単だったはずのこの話は、妙な様相になった」
「持ち主である帯刀さんが、ボヌールに濡れずに帰ってきているのに、当の傘がスタジオにある、という風にな」
「まあ、大体そう言う事情だった訳だ」
「何か、質問は?」
「ん?……その、傘を勝手に持ち去った人は誰かって?」
「その人が見つからないと、今の話が本当か分からない、か」
「何だ、そんなこと」
「そんなのは、鏡、君の近くの様子を伺えば分かるだろう?その人も、君も、まだスタジオに居るんだから」
「まあそうじゃなくても、今までの話の中で出てきた条件だけでも、大体分かるけどな」
「今の話が成立するような人なんてのは、限られている」
「グラジオラスのレコーディングに関わるボヌールの人で、なおかつ、朝早くに出社するような人」
「その上で、帯刀さんと入れ違いに事務所を出て行っている人……例えば、彼女に『ついさっき』事務所での待機を指示していたのに、今はボヌールに姿が見えない人」
「そんな人、俺は一人しか知らない」
「なあ、鏡。スタジオの中に入れば、居るんだろう?……姉さんが」
「そうだ、その通り」
「傘もないのに、グラジオラスのレコーディングの様子を急遽見に行った松原プロデューサー補が、今回の一件の犯人だよ」