難しく考えすぎる時
──現場を確認していないのもあるが、手詰まりだな……よく分からない。しっくりくる可能性が思い浮かびにくいというか。
今考えている話は、これまでの話の中でも特に規模が小さい。
大抵の「日常の謎」というのは、「まあ、いっか!」とでも言ってしまえば、それだけで気にならなくなる話が多いのだが、今回のこれはその極致だろう。
謎自体が小さな物で────それがそっくりそのまま、証拠の少なさにも直結していた。
だからこそ、謎解きに困ってしまう。
何も思いつかないと言うよりも、余りにも証拠や証言が少なすぎて、いくらでも思いついてしまうが故に。
例えば、状況を説明するだけなら、「実は傘に貼られているシールが別の傘に移し替えられていた」とか、「誰かが帯刀さんの使用した傘をスタジオにまで運んだ」とか、色々と考えられる。
そのどれもが、現状に一応の説明を与えてくれるものだ。
証拠は無いが、否定も出来ない。
しかし同時に、肯定も出来ないのだ。
この手の「日常の謎」は得てしてそう言う性質を持つが、今回はその筆頭だろう。
「それに、『流石に雨を見て傘を忘れるなんて無いだろう』って言うのも所詮推測だしな……帯刀さんなら、ちょっとありそうな気もする。そうなると、さっきの仮説も捨てきれない……」
そう呟いて、もう一度俺は唸った。
言いたかないが、この点も、すなわち帯刀さん自身の性格も、謎解きを難しくしている面があった。
彼女は先程のやり取りを見てわかる通り、結構な天然系というか、かなりフワフワしたような人に見える。
そのせいで、日常のとある場面に置いて、どのくらいしっかりした判断を下すのか、今一つ分からないのだ。
謎解きというのは普通、「殆どの人間は、大抵の物事に対して理性的な判断を下すだろう」という常識に基づいて行われる。
そこを崩されると、いくらでも狂った可能性が考えられるので、推理にならない。
今まさに、俺はそのような状態に陥っていた。
──参ったな。暇潰しに考え始めたはずなのに、意外とモヤモヤするぞ、これ。解けないと消化不良だ。
終いには、そんなことまで考える。
自分から勝手に考えておいて、自分で勝手に困っているのだから世話無いが、本心だった。
もっとこう、新しい情報が欲しい。
────しかし、そんなことを、考えたからだろうか。
出来過ぎといえば、出来過ぎなタイミングで。
俺のスマートフォンがリリリン、と鳴り始めた。
「うわっ……え、また着信?」
予想外の出来事に、俺はまた軽く悲鳴をあげる。
ここのところ、こう言う不意打ちが増えたような気がするのだが、気のせいだろうか。
驚愕の余り変に強張る手を開き、俺は慌てて画面を見つめる。
そして、そこに先程と同じく、鏡の名前が表示されていることを確認した。
「また電話……長澤か?」
思わずそう呟きながら、俺はスムーズに通話に移る。
何か、伝言のし忘れでもあったのか、と思ったのだ。
先程の通話から、それほど時間が経っていなかったのも、その推測を後押ししていた。
しかし、結論から言えば。
俺の推測は、大外れだった。
何せ、スマートフォンを耳元に当てた俺は────もっと、活発な声を聞くことになったのだから。
具体的には、以下のような声である。
『もしもーし?もしもしもしもしもしもしー?松原……くーん、聞こえてるー?また、なんか楽しい推理をしようとしてるって菜月から聞いたんだけど、合ってるー?』
こうして文字に起こすと、短い文章である。
しかし実際の音声は、文字では表現できない程のエネルギーに満ち満ちた声だった。
どのくらい凄いかというと、その声を聴いた反射で、俺がスマートフォンを耳から離してしまったくらいである。
松原、の後に続いた「くーん」の部分──何故か間が空いていた。呼称を迷っていたのか──など、力が籠りすぎていて、特に耳に響いた。
正直、鼓膜が痛い。
『あれー?もしもし、聞こえてるー?』
しかし、その沈黙で不安を与えてしまったのだろうか。
少々、所在なさげな声がスマートフォンより届く。
それに対応する形で、俺は返答することになった。
「ああ、十分すぎるほど聞こえている……鏡」
『そう?なら良いんだけど』
バックが雨だから、音が案外うるさくてねー。
そんな言葉を、彼女は語尾に付け足した。
この言葉からすると、彼女は今スタジオの外か、玄関にでもいるらしい。
そのために、雨に負けないように大声を出した、というところか。
耳を抑えながら状況を整理し、俺は会話を続ける。
「……それで、どうしたんだ、鏡。推理をしているのは事実だが、それについて、何か用でも?」
『んー、用っていうか……簡単に言えば、混ぜてってことになるけど』
「混ぜてって……この、謎解きに?」
先程の話から推測はしていたが、一応確認した。
果たして、鏡は躊躇うことなく、「そうだよ?」と言葉を返してくる。
どうやら彼女は、長澤から俺との電話の内容を聞いているらしかった。
長澤に貸していたスマートフォンを返してもらうと同時に、事情を聞き及んだ、という流れなのだろうか。
「……あれ、じゃあ今、長澤はどうしてるんだ?」
ふと疑問に思い、そっくりそのまま呟いてみる。
殆ど独り言だったのだが、しっかり届いていたらしく、鏡から説明が入った。
『菜月は今、レコーディングの真っ最中。私の分が一区切りついたから、入れ替わりでブースに入ったんだよね。その時に、松原君が変な頼み事をしてきたって聞いたから、休憩中の暇つぶしがてら、こうして電話したって訳』
「へえ……」
──当然だが、変な頼み事してくるなあ、とは思ってたんだな、長澤。
少なくとも、入れ替わりまでの短い時間に会話の種にする程度には、不思議がられていたらしい。
何となく、申し訳ない気分になる。
こういう風に頼みごとに関するラインが低くなっているあたり、俺も鏡に毒されているのだろうか。
「しかし、良いのか?一区切りってことは、まだ録音の全ては終わってないんだろ?こんな電話なんてしても……」
『だいじょぶ、だいじょぶ!休憩中は、歌以外のこと考えてないと休憩にならないしー。私の場合、誰かと話している方が喉の調子も良くなるし!』
俺の心配は軽くスルーされ、すぐに鏡は、それでそれで、と話を繋げる。
電話越しだというのに、彼女が前のめりになっているのが目に浮かぶようだった。
『菜月に傘立ての写真を送らせて、どんなことを推理してるの?松原君、理由なく写真送らせる人じゃ無いよね、この前もそうだったし……何か推理するなら、混ぜてよ、私も興味あるから!』
「あー、うん……」
理屈から言えば、通話を切るのが正解、という事は分かっていた。
休憩時間とは言え、彼女はまだ仕事中なのだし、俺の個人的疑問に関わらせる必要はない。
特に鏡の場合──掃除のバイトが迫り、帯刀さんも起こさない気でいる俺と違って──普通に後で、起床した帯刀さんから事情を聞く、という手が使えるのだし。
ただ、鏡が余りにも純粋に興味を示してくる物だから、俺はさらにある種の圧を感じていた。
結果、ため息混じりに、俺は自分の感じている疑問を解説することとなる。
「話としては、単純なことなんだ。要は、どうやって濡れずに帰ってきたかっていう謎で……」
そうやって、解説すること約五分。
ふんふんと話を聞いていた鏡は、聞き終わるや否や、こんなことを言った。
『ふーむ……松原君って、アレだね。本当にこう、凄い頻度で、説明がつけられなくもないけど説明のつかない話を見つけてくるね』
「ほっとけ……」
俺自身、変な話だと感じていることである。
ボヌールでバイトし始めて以来、こういうことが増えた。
そのくらい変な人が周囲に多いのか、或いは、俺が目ざとくなっているのか。
まあ何にせよ、この手の話気づいた以上、解かないとモヤモヤする。
自然、俺は現状説明が終わり次第、こんな質問を鏡に放った。
少しでも、そのモヤモヤを晴らすために。
「なあ、鏡。帯刀さんとも親しい君に聞いておきたいんだが……」
『何を?』
「さっき、『もし傘を忘れたなら、彼女は雨が降っているのに持参した傘を失念したことになる』みたいなこと言っただろう?……それ、有り得ると思うか?」
最初に、そこを聞いてみた。
帯刀さんについて、少なくとも俺よりは詳しいであろう人物にしか、ここのあたりの推測は聞けない。
彼女の天然具合はどのくらいか、というのは。
……果たして、帰ってきたのは予想通りの回答だったが。
『いやー、確かに多織さんは天然系だし、忘れ物なんてしょっちゅうだけど、流石に雨がガンガン降ってる中で、傘をさすことを忘れるほどじゃないと思うよ?実際、行きの時は普通に傘を使って来てるんだし……』
「なるほど。……まあ、流石にそうか」
当たり前と言えば当たり前の話なのだが、目の前でスヤスヤと眠る帯刀さんの姿があまりにもあどけないものだから、ひょっとすると、などと思ってしまった。
鏡の言葉を聞いて、ようやく安心することが出来る。
そんな俺の雰囲気を察したのか、鏡はそこで、諭すようにこんなことを言った。
『松原君が、そこで多織さんとどんな話したのか知らないけどさ、多織さんは、こう、仕事では凄くちゃんとする人だよ?普段は天然だけど……スイッチが入ると人が変わる、というか』
「へえ、そうなのか?」
『うん。子どもの頃から、子役として役者の道を進んできた人だしね。本能レベルで、そういうスイッチを体の中に作ってるんじゃない?』
──そう言えば言ってたな。役者としての仕事が多いとか何とか。
俺が帯刀さんについて得ていた、ほぼ唯一の事前情報である。
話の本筋とは関係のない部分だったが、興味があったので、ついついそちらに意識を向けてしまった。
あの時は、アイドルの仕事の一環として役者としての活動している、という風な感じだと思っていたのだが、この言い方からするとそうでも無いようだった。
子役ということは、アイドルになる前から、彼女は役者として活躍していたと言うことになる。
今でも仕事が来るのだから、評判も悪くはないのだろう。
正直、今までのふわふわとした言動からは、ちょっと想像出来ない経歴なのだが────本当に、人は見かけによらない、と言うことなのだろうか。
「そうか、役者、か……じゃあ当然、別人みたいな演技をするんだな、この人も」
何となく、俺はそう呟く。
すると即座に、鏡がそうだよー、と答えた。
『凄く話題になるって程では無かったらしいけど、子役時代から、役者としても人気が高かったんだよ、多織さんは。結構有名な映画にも出ていたこともあったらしいし……』
「へえ、どんな?」
『んー、分かりやすいのでいうと、凛音先輩が主演したやつとか?』
そう言って、鏡は七、八年前の恋愛映画のタイトルを挙げた。
タイトルを聞いた瞬間、俺はああ、あれか、と思い至る。
そのくらい、有名な作品だったのだ。
俺でも名前を知っているくらいの、ボヌールに所属している有名アイドル──鏡の言う凛音先輩──が主演を務め、初挑戦とは思えない自然な演技をしたことで、高く評価された作品だ。
近年でも特筆すべきヒットを記録したため、俺も見たことがあった。
そう言えばあの映画には、そこそこ重要な役で、十歳くらいの女の子が出ていた気もする。
流石に出番が少なかったので、顔は忘れたのだが。もしかするとあの子こそ、子役自体の帯刀多織なのだろうか。
だとすると、役者としての評価も自然と推し量れるのだが。
『レコーディングの時も帯刀さん、別人みたいな声を作って、その上で収録する、なんてことしてるしね。アイドルの仕事自体も、演技のレパートリーの一つとしてこなしているみたいだって、収録風景を見た松原プロデューサー補が舌を巻いてたくらい』
「それはまた凄いな……」
続いての評価に、俺はまた感心する。
以前も言ったことだが、姉さんはお世辞と言うものをまず口にしない。
社会人として、形式的に言っていることはあるのかもしれないが、少なくとも俺は見たことがない。
そのくらい言葉に対して正直な姉さんが褒めたと言うことは、本当に凄い収録だったのだろう。
……話がずれたまま、俺はそんなことを考えて。
そして、唐突に。
あれっ、となった。
今、何か、無かったか。
雑談ではなく、もっと、話の根幹に関わる情報が。
鏡の話の中から、出てきていなかったか。
『……どうしたの、松原君。急に黙って』
不意に沈黙してしまった俺を気遣うように、鏡が今までよりも遥かに小さな声を発する。
これまでも、何度かあった光景。
そのことを、多少は申し訳なく思いながら────しかし俺は、謝ることなく口を開いた。
「なあ、鏡。一つ、質問良いか?」
『えっ……何、いきなり』
「いや、簡単な疑問を解決したいだけだ。鏡なら多分、すぐに答えられる」
そう前置きしてから、疑問文をようやく口に出す。
「俺はこう、レコーディングに関する実情を全く知らないから、今まで予想もできなかったんだが……姉さんみたいな、プロデューサー的な立場にある人って、そういう収録風景を見に来ることって、あるのか?」
極めて、単純な疑問。
そして同時に、実際に何度もレコーディングしたことがある──何せ、今回収録しているのはサードシングルなのだ──鏡なら、即座に答えられる疑問。
事実、彼女は殆ど即答してくれた。
『あるのかって……それはまあ、無くはないけど。向こうの忙しさにもよるけど、マネージャーさんとはまた別に、付き添ってきてくれることはあるよ?他の人への売り込みとか、業界の先輩に一緒に挨拶に行くとか、色々用はあるし。それこそ、こういう日も……』
そこからも、彼女は幾らかの実例を紹介してくれているようだった。
しかし、俺はもう、そこから先は聞いていなかった。
聞くどころでは無かったと言うか。
或いは、聞く必要もないくらいに自明だった、というか。
そんな「自明」な情報を起点として、次々と脳内で情報が繋がっていく。
雨の様子も、帯刀さんのしていた話も。
全てが、呼吸でもしているかのように揺れ動き、血でも通っているかのように脈動する。
これら全ての疑問を解決出来る、一つの仮説。
それが組み上がってしまうまでに、一分もかからなかった。
いつも、言っているような気がするが。
分かってしまえば、簡単な話である。
単純、と言っても良い。
「そっか……それしか、ないよな。雨が降ってるんだし……朝はまだ、降ってなかったんだし」
なるほどなるほど、と俺はまた呟く。
そして、未だに眠りこけている帯刀さんの方を、思わず見つめた。
特に変なことはしていないのに、幾つかの偶然から、「日常の謎」を生み出してしまった少女を。
そう考えると、帯刀さんにはちょっと失礼なことを考えてしまった。
もしかするとこの人なら、雨が降っている時でも傘を忘れるんじゃないか、とか思ってしまったのだから。
場合によっては、後で謝った方がいいかもしれない。
『……おーい?また黙ったけど、本当にどうかした?』
そんなことを考えているうちに、俺は鏡が、再び声を上げていることに気がついた。
ヤバッと思って、俺は慌ててスマートフォンに意識を注ぐ。
「あ、ごめん、鏡。丁度今、この謎が解けたばかりだったから……」
『解け……?え、分かったの、今ので!?』
信じられない、と言う風に、鏡がまた大声で叫ぶ。
仕方あるまい。
彼女としては、メンバーの紹介がてら、本当に雑談をしていたつもりだったのだろうから。
しかし、それが証言となるのだから、世の中分からない。
今更のようにそんなことを実感しながら、俺はいつも通り、開始の言葉を述べることとした。
「さて────」