帰還の矛盾を探る時
「……長澤から、帯刀さんへの連絡です。傘をスタジオに置き忘れているって」
「傘……?」
とりあえず、俺は自分の疑問は置いておいて、通話を続けたまま連絡事項を伝えた。
すると、ふみゅ、と言いながら帯刀さんは首を傾げる。
だが流石にこれについては思い出せたのか、やがて「ああー」という声が聞こえた。
「そう言えば、行った時から雨が降り始めてたから、持って行ったなあー、傘。マネージャーさんも居なくて、行きも帰りも歩きだったし……」
「それを、忘れられていたらしいですよ……長澤が、スタジオの方で見つけたそうですから」
「へー……じゃあ菜月に、ありがとうって言っといてー……」
それだけ言って、彼女はまたコテン、と体をソファに預けた。
そして、再び瞳を閉じる。
どうも、電話を替わる気は無いらしい。
まあ、これくらい簡単な要件なら、別に直接話す必要が無いのも事実だが。
一先ず、俺はそっくりそのまま長澤に状況を伝えた。
「……帯刀さんに、今伝えた。知らせてくれて、ありがとうって。眠いから、電話は出ないらしい」
『あ、そうですか。じゃあ、私たちが帰る時に、この傘は一緒に持って帰りますね』
慣れているのか、長澤は感謝の言葉を軽く受け流す。
もしかすると、今までもこう言うことが何度もあったのだろうか。
そんなことを考えながら────俺は、一旦置いておいた疑問を再び取り上げることにした。
電話を切ろうとした長澤に対して、こんなお願いをしたのである。
「……長澤。電話ついでに一つ頼みがあるんだが、良いか?」
『頼み、ですか?』
「ああ。写真を一枚、送ってほしい」
そう前置いてから、俺は要請を出した。
内容としては、簡単なものだ。
その、帯刀さんが置き忘れたという傘の写真を、俺に送って欲しい。
それだけを言って、俺は電話の締めとした。
────この申し出は、長澤としては唐突を超えて不気味な頼み事だったとは思うのだが、彼女の律儀な性分が影響したのか、写真はすぐに送られてきた。
当然、すぐに俺はそれを開封することになる。
「傘は……この右端の奴、か」
送られてきた写真を見つめながら、軽く呟いた。
俺は集中して、写っているスタジオの傘置き場を観察する。
当たり前だが、そこには多数の閉じられた傘が写っていた。
如何にも社会人が使っていますという感じの高級そうな紺の傘から、百円ショップで買いましたという風のビニール傘まで。
十本近い傘が、傘立てには立てかけられている。
話に出ていた帯刀さんの傘というのは、それらの傘の中でも、一番右端に立てかけられている物だった。
どこにでも売っていそうな、簡素なビニール傘。
それが、傘立ての枠にのしかかるようにして立てかけられている。
拡大しながら外観を見てみると、どこかで泥でも引っかけられたのか、傘の色がやや茶色っぽくなっていることが分かった。
元々古めであることも相まってか、外観は率直に言って汚らしい。
仮に帯刀さんの物だ、と聞かされずにこの傘を見たら、ゴミだと思ったかもしれない。
しかし、それが帯刀さんのそれであることは確定していた。
というのもその傘には、よくよく見てみれば、柄の部分に花柄のシール──グラジオラスの花を象った物らしい。一種の洒落なのだろう──が貼ってあるのである。
写真を送ってもらう際に聞いた長澤の話によれば、このシールが判別の手段、ということになるらしかった。
他のビニール傘と見分けがつかないのは流石に不味いので、張り付けてあるらしい。
これがあったから、長澤もこの傘が帯刀さんの物だと、すぐに分かったようだった。
そこまで確認してから、俺は視線を上げ、未だに持ったままだったお菓子を机に戻す。
そして、ソファの上でとろけたチーズみたいになっている帯刀さんの方に、改めて向き直った。
「帯刀さん……ちょっと、良いですか?」
軽く、そう問いかける。
どうしても、話を聞いておきたい、と思って。
大したことないと言えばその通りなのだが────少々、気になったのだ。
「帯刀さんが、どうやって濡れずにここまで帰ってきたのか、知りたいんですけど……質問、しても大丈夫ですか?」
依然として寝転がったままの帯刀さんに、そう念を押す。
さて、どんな返答が来るのか、と俺は身構えて────。
────身構えたまま、三十秒くらいが経過する。
「……帯刀さん?」
無視されているのか、とも思ってもう一度問いを発する。
しかし、眼前の帯刀さんはピクリとも動かない。
ソファに寝そべったまま、規則正しく上半身を揺らしている。
その動きは、非常に既視感の強いものだった。
いや、もっと言えば。
ついさっき、このソファの上で見ていたような。
「え、もしかして……また寝てる?」
まさか、この数分で、いくらなんでも。
そんな風に驚きながらも帯刀さんの顔を覗き込むと、俺の耳にはすうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。
間違いない。
熟睡している。
「……マジかよ」
帯刀さんには悪いが、思わずそう呟いてしまった。
少し聞きたいことがあったのだが、まさか寝られてしまうとは。
レコーディングの後なのだから、疲れているのは仕方無いし、昼寝を邪魔してしまったのはこちらだが……それにしても行動の一つ一つがフリーダム過ぎないか、この人。
ほぼ初対面の人間の前で、こうもすやすやと寝ないだろう、普通。
──アイドルグループって、本当に変な人が居るなあ……。
帯刀さんの綺麗な寝顔を見つめながら、俺は聞きようによってはまあまあ失礼なことを考える。
厳密には、アイドルが、ではなくこの人個人が変わっているのだろうが。
何にせよ、この状況が意味しているのは、俺が自分の個人的疑問を解決させる手段を失った、ということだった。
これ以上帯刀さんと話せないし、質問も出来ない。
いやまあ、よっぽど気になるのであれば、彼女を起こして話を聞けば良いだけの話ではあるのだが、流石にこんな風に気持ちよさそうに寝ている人を起こすのは、ちょっと申し訳ない気がした。
ただでさえ疲れているようだし、俺のせいで眠りも中断させてしまったのだから。
何というか、そんなに寝たいのならどうぞご自由に、という気持ちはあった。
「つまり、この人の話はこれ以上聞けない訳で……参ったな。本人に直に聞くのが、一番手っ取り早かったのに」
無意識に困り顔をしながら、俺はそんなことを最後に呟いた。
……俺をこうも困らせている疑問とは、何か?
それは、この状況が作っている、とある矛盾についての疑問だった。
というのも、常識的に考えれば、今のこの状況は非常に変な物になるのである。
こんなに大雨が降っているのに、傘がスタジオに置き忘れられている、というのは。
だって、そうだろう。
傘が置き忘れられているということは、スタジオからの帰路に置いて、帯刀さんは傘を使わなかったということ。
だから必然的に、「スタジオから事務所にまで戻ってきたという帯刀さんは、傘無しでどうやって濡れずに帰ってきたのか」という疑問が湧くのである。
まあ、普通なら、車で送ってもらったり、電車やバスを使ったりした、というのが常識的な答えだろう。
しかし、話を聞く限り、そういう訳では無いらしい。
つい先程、彼女自身が「行きも帰りも歩きだった」と断言している。
要するに、彼女は何らかの形で、「歩いて」スタジオと事務所を行き来したはずなのだ。
だが、一見したところ、彼女の服は特に濡れてなどいない。
着替えたのか、とも思ったのだが、見た感じよそ行きっぽい服装だったし、そもそも事務所に帰ってすぐに寝た、とも言っていた。
加えて、アーケードや地下道のような、雨を逃れるために便利な物はこの辺りには無い。
だからこそ、矛盾が生まれる。
傘も無い状態で歩いて帰った以上、普通は濡れて帰ってくるはずで。
逆に雨に濡れていないのなら、傘を使うか、歩き以外の手段に頼ったはずなのに。
そのどちらにも、彼女の現状は適応していない。
傘を置き去りにしながらも、歩いて帰ってきた、と言っている。
この点が、かなりおかしい。
……こんな風に疑問に感じたからこそ、俺はわざわざ、長澤に傘の写真を送ってもらったのだ。
もしかすると、長澤の言う「置き忘れられている帯刀さんの傘」というのは単なる勘違いで、実はそれは他人の傘なのではないか、と思ったからである。
その場合、この状況の説明になる──長澤が傘を置き忘れたと誤解しただけで、帯刀さんは普通に自分の傘で事務所に帰ったことになる──と考えたのだ。
「でも、シールから言って、これが帯刀さんの傘なのは確定なんだよな……だからこそ、どうやって帰ったのか聞きたかったんだが」
軽く呟いて、俺は帯刀さんの寝顔を見つめる。
そこでは相変わらず、起こすことに罪悪感を抱くほど、幸せそうな顔で寝ている彼女の姿があった。
様子としては、昼寝している猫である。
流石に、邪魔しにくい。
この様子からするに、彼女を起こして事情を聞くのは、最終手段にした方が良いようだ。
「そうなると、自力で考える必要が出てくる訳だが……しかし、本当にどうやって?」
あまりにも気になったので、俺はブツブツ言いながら、腕を組んで考え込む。
終いには、休憩室内の適当な椅子を持ち出し、そこに座り込んだ。
どうでもいい疑問であるのでは間違いないのだが、何故か、どうでもいいことだと割り切れない。
何というかこう、解けそうで解けないのが気持ち悪い、というか。
頭の中に、しっかりと染みついてしまっている感がある。
──じゃあ、どうしようか?掃除のバイトまでまだ時間もあるし、帯刀さんをわざわざ起こすのも悪い。なら……推理して、解くのが一番早いのか。
ふと、そんな選択肢が頭に浮かんだ。
解いてみようか、と。
こんな選択肢がすぐに思い浮かぶ当たり、今までの件を経て、俺は推理が趣味と化したのかもしれない。
或いは、単に暇つぶしがしたかったのか。
いつの間にか、俺の中では、この疑問を推理することは既定路線となっていた────。
「まず……帯刀さんは、普通に雨が降る中スタジオまで歩いて向かった。そしてその上で、少し前までレコーディングをしていた。これは間違いない」
分かりきっていることから、一つ一つ確認する。
そうやって流れを追わないと、今回の一件の不思議さは分からない。
「だけど、彼女は傘をスタジオに置き忘れてしまった。そうなると、考えられる可能性は……」
考えられる可能性。
思い浮かぶままに、俺はそれらを呟いてみる。
「まず、レインコートか何かを来て、歩いて帰ったっていうのは、有り得なくはないか?彼女がレインコートの類を持っていることが前提になる話だけど……」
最初に、その線を検討した。
詰まるところ、雨の中、カッパ姿で帰ってきた、という可能性である。
かなり力技な解決法だが、有り得ない話ではないだろう。
何せ帯刀さんの話によれば、スタジオは駅前にあるらしい。
位置的には、ボヌールからそこまで離れていない場所である。
それこそ以前、タブレットの一件で俺が走って向かった、例のジムと位置的にはそう変わらない。
あのくらいの距離なら、多少濡れてでもいっそレインコートを使って歩いて帰ろう、と考えられる人が居てもそこまでおかしくはないと思う。
かなり頑張って走れば、一応、傘無しでほぼ濡れずに歩いて帰ることは、不可能では無いということだ。
「ただこの場合、何で傘の存在を忘れているんだって話になるけどな……普通、気がつくだろう。目の前でガンガン降っているんだから。そもそも、何でレインコートと傘の両方を持っているんだ、ということにもなるし」
そこまで話したところで、俺は自分で自分の仮説に突っ込みを入れた。
この辺りが、この仮説の難点である。
何というか、この仮説が正しい場合、いくらなんでも、帯刀さんが粗忽すぎることになってしまい、おかしく感じるのだ。
そのおかしさというのは、単純な物だ。
彼女の状況を想像してみてれば、すぐに分かる。
というのは、この仮説における帯刀さんは、傘をわざわざ持ってきているに関わらず、雨天を見て「帰りたいけど雨が降ってるな。でも、傘を持ってきた記憶が無い。よし、レインコートでも使って歩いて帰ろう!」と決断したことになるのだから。
ちょっと、普通なら有り得ない判断である。
これがまだ、「帰る時は雨が止んでいたので、そのせいで傘を忘れて歩いて帰った」というのなら、話は分かるのだ。
頭上の空が晴天だったのなら、傘の存在が頭から抜け落ちても無理はないだろう。
しかし何度も言うが、実際には雨は降り続けているのである。
その状況で、自分が持ってきた傘のことを失念して別の手段に頼ると言うのは、ちょっと天然とかそう言うレベルを超えているだろう。
正直、記憶喪失を疑うレベルだ。
流石に、帯刀さんがいくら天然系の人だったとしても、そこまでの粗忽者では無い気がする。
「そうなると、別に思いつくのは……折り畳み傘みたいな、別の傘を持ってた、という可能性か?折り畳み傘の方を使っちゃったから、普通の傘は忘れたとか」
ここでもう一つ、俺は異なる仮説を挙げる。
これまた、有り得なくもない話だろう、と思った。
突発的な雨のため、鞄の中に常に折り畳み傘を常備させておく人は、世の中に結構居る。
そして、折り畳み傘を常備しながらも、使いやすさなどの観点から、普通の傘を一緒に使う人も少なくはない。
帯刀さんがこのタイプの人だったなら、この状況も、説明はつかなくはないだろう。
まず、彼女は鞄に折り畳み傘を常備しつつ、行きの時は普通の傘でスタジオまで向かった。
そして帰りの際は、うっかり鞄内の折り畳み傘を使って帰ってしまい、普通の傘の方は置き忘れてしまった。
もし本当にこんなミスをしたとしたら、やはりかなり粗忽な気がするが、先程の仮説よりは、まだ有り得なくはないだろう。
少なくとも、雨を見ていながら傘の存在を忘れ去るよりは、起こりやすいミスのはずだ。
ただ、問題点としては……。
「帯刀さんの鞄、水のペットボトルでぎゅうぎゅうなんだよな……見た限り、折り畳み傘なんて無かったし、そもそも何かが入り込む隙間すら無かった」
先程見た光景を思い返して、俺はそう口にする。
そうだ、さっき、俺は彼女の鞄の中を見ている。
財布やスマートフォンを除けば、水のペットボトルで満たされている鞄を。
あの中には、折り畳み傘なんて物は無かった。
それどころか、もう別の物が入り込む隙間すら見受けられなかった。
もう外に放り出しているのか、と思って寝ている彼女の姿を観察したが、見たところ、帯刀さんはこの鞄以外の荷物は無いようだった。
つまり、折り畳み傘の存在が、現在の彼女の周囲に見受けられない。
こうなると、仮説の大前提となる、折り畳み傘を予め持っていた、というのはちょっと考えにくくなってしまう。
少なくとも、俺が見た感じでは、そんなものは無かった。
勿論、頑張れば折り畳み傘の一本くらいは鞄に入ったのかもしれないし、現在はその折り畳み傘もどこか別の場所で干しているのかもしれない。
だが、何というかこう、それではしっくりこない。
この仮説も違うんじゃないか、という気がしてならなかった。
──そうなると、ますます不思議だな……どうやって帰ったんだ、本当に。
パッと思い浮かぶ二つの仮説を自ら棄却した俺は、そこでうーん、と軽く唸った。