再び置き忘れる時
「……ああ、そっか、ここ、ボヌール……」
キョロキョロと周囲を見つめながら、帯刀さんはボーっとそんなことを言う。
そして軟体動物めいた動きでのろのろと姿勢を正すと、不意にこちらをじっと見つめた。
向けられるのは、猫が理由も無く虚空を見つめている時のような感情の読めない瞳。
「松原君、だっけ……?弟さんの……」
まず彼女は、そう呟いた。
寝起きとはいえ、俺の顔が記憶と一致したのか。
そして、続いてこんなことを言った。
「私、何で寝てたんだっけ……?松原君、知ってる……?」
「いや、知りませんよ」
あまりにも無茶苦茶なことを言われたので、思わず俺はツッコんでしまう。
多少言葉の勢いが強めだったかもしれないが、仕方が無いだろう。
そのくらい、彼女の言っていることは無茶苦茶だ。
眠っていた張本人が知らないことを、何故俺が知っているというのか。
「あー、そっか……そうだよねー」
俺の言葉を聞いた後、頭をゆらゆらと揺らしながらそう発言。
追加でふと思いついたように、うんうんと頷き始める。
「そっか、私、さっき、プロデューサー補にメンバー全員が戻るまで待機って言われてたんだった。それで、歩いて帰ってきた後もここにいて……疲れて寝てたんだ。ここに戻って、すぐにこの部屋に来て寝転んで……」
彼女は、眠る直前の様子を思い出したようにそう言うと、さらに何度か頷いた。
聞いていて心配になる様子だったが、彼女の口調は間延びしているもののはっきりとしていて、決して寝ぼけているような感じは受けない。
故に、俺は密かに彼女に対する認識を修正する。
どうやらこの人は、寝ぼけているわけでは無いらしい。
完全に意識が覚醒していて尚、「これ」なのだ。
……何故だろう。
彼女の容姿は、先ほどの寝ている時と比べて全く変わっていないのに。
今となっては、物凄く印象が変わっているように見える。
言葉を選ばなければ、その。
見ていて不安になるレベルで、間が抜けているような。
──この人、結構な天然系だったのか……。
何となく新しい発見をした気分で、俺は思わずその場に留まってしまう。
既にお菓子は貰っているので、すぐにでも立ち去っても良い場面なのだが、何となく足が進まない。
それどころかちょっとばかり、目の前に居るこの奇妙な人物に興味が湧いてきている節すらあった。
──そう言えば、レッスン中の会話でも、一人だけ間延びした口調の人が居たな……。
未だにポカンと口を半開きにした彼女の顔を見ている内に、そんなことも思い出す。
掃除のバイトを始めたあの日、天沢、鏡、長澤の三人はレッスン後に休憩室に向かっていた。
一方、酒井さんと帯刀さんはすぐに帰っていたはずだ。
酒井さんについては理由は知らないが、帯刀さんがすぐに帰った理由はよく覚えている。
確か「眠い」とか「寝る」とか言って、誘いを断って即帰っていたのだ。
あの時は、レッスン後なのだから疲れているのも当然だと思っていたのだが。
どうやら、常にこんな感じのテンションの人らしい。
「にゅー……お水……」
好奇心に導かれるままにそんな観察をしていると不意に帯刀さんが動き出し、俺は肩をビクッとさせてしまう。
彼女の挙動は普通だったのだが、なまじ雰囲気が読めない人であるために全ての動きが唐突に見えてしまっていた。
このような「近くに置いてある鞄から、水のペットボトルを取り出す」というだけの行動でも、不意打ちに思える。
驚きのあまり、そのペットボトルを凝視してしまったくらいだ。
そんな俺の動きは、帯刀さんから見ても流石に変だったのだろう。
俺の視線に気づいたように瞳を横に動かした彼女は微かに首を傾げ、それからつい、とこちらにペットボトルの飲み口を差し出した。
「……要る?」
「いや、違います、要りません。すいません」
勘違いされていることに気が付いた俺は、慌てて手をヒラヒラと降る。
何だかさっきから、ツッコミしかしていない気がするのだが気のせいだろうか。
「……遠慮しなくても、たくさんあるのに」
俺の動きを見て再び首を傾げた後、帯刀さんは足の指で──履いていたらしいサンダルは既に脱がれていた──ずるずると鞄を引き寄せ、ほら、と中身をこちらに見せてきた。
その動きにつられて、俺は何となく中を覗き込む。
そして、軽く驚いた。
「水のペットボトル、たくさんありますね……どうしてこんなに?」
俺の言葉に虚飾は無い。
彼女が見せた鞄の内部には、財布やスマートフォンに混じって、五本ほどのペットボトルが入れられていたのだ。
というか、それしか無かった。
元々鞄の大きさ自体がかなり小さいので、ペットボトルがぎゅうぎゅう詰めになっていると言っても良い。
どう見たって、ただの水分補給と考えるには多すぎる量だ。
どうしてこんなに、と俺は帯刀さんを見つめた。
「だって、さっきまでレコーディングしてたし……喉が乾くかなって」
「レコーディング……歌の収録を?」
「うん。グラジオのサードシングル、やっと決まったから……さっきまで、駅前のスタジオに居たもん」
そう言って、彼女は何故か人差し指でツンツンとペットボトルの側面をつつく。
さらに、「流石にこんなには要らなかったけどねー……」と呟いた。
──グラジオって、グラジオラスのことだよな?つまり、アイドルとして新曲を録っていたってことか?
大体の経緯が分かり、俺はようやく状況を把握する。
どうやらいつの間にか、グラジオラスが新曲を出すことが決まっていたらしい。
その収録のため、アイドルたちもスタジオに向かっていたのか。
だからこそ、水も必要だったのだろう。
歌の収録がどのぐらい大変なのかは生憎分からなかったが、疲れるであろうことは容易に想像出来た。
六本はやりすぎとしても、間違いなく喉は渇くことだろう。
そう考えれば、休憩室で眠り込んでしまう程にまで疲れるというのも分からない話ではない。
寝ただけでそれまでの経緯を忘れてしまう程の天然さは、未だに分からないが。
──けど、グラジオラスが新曲を出したってことは……。
ふと、俺の脳裏に見知ったメンバーの顔が思い浮かぶ。
何気に今までに発生した小さな事件たちの流れ上、俺は帯刀さんを除く四人とは既に顔見知りだ。
新曲と聞いて、彼女たちもレコーディングをしたのだろうか、上手く録れたのだろうかという感想が出てくるのはある種必然だった。
「……それ、鏡や天沢も居たんですか?」
故に、無意識に問いかけてしまう。
失礼かな、と思いつつ。
「んー?茜はスタジオの都合で別の日だったから、居なかったよー……。桜もそうだったしー……菜月や奏とは、入れ違いですれ違ったけど」
「入れ違い?」
「うん。私の分が録り終わった後は、菜月たちはソロバージョンの収録をする予定があったしー……二人はまだ、収録中だと思う」
話を聞いて、へえ、と呟く。
どうやらグラジオラスの新曲があると言っても、全員が揃って収録をする必要はないらしい。
まあ、スタジオの規模や予定の影響も受けているのかもしれないが。
──しかしこの言い方からすると、帯刀さんにはソロバージョンの収録とやらは無いのか?長澤や鏡だけ、そっちを録ってるって話になるけど。
そう言えば姉さんが長澤は歌が上手いって言ってたな、と思い出す。
その辺りが、ソロでの出番に繋がっているのだろうか。
鏡については歌が上手いかどうかは聞いたことがないので、事情が分からないが。
──何にせよ凄い話だな……。
最終的に俺は、そんな感想に行き着く。
さらに、俺はふと思考を現実に戻した。
──でも帯刀さんが収録でそこまで疲れてるんだったら、もっと寝かせてあげたほうが良かったか?俺はどうせすぐにバイト行くんだし。
互いの労働量を考慮すると、必然的に導かれる結論だった。
ただでさえ眠りの途中で起こしてしまったのだから、俺が長居するのもアレだろう。
やや時間的には早いが、お菓子は貰ったんだし、さっさとレッスン室に向かうのが無難か。
そう考えて、俺は帯刀さんに向き直った。
「……じゃあ、俺はこれで。起こしてしまって、すみませんでした」
軽く告げてから、俺は会釈してその場を立ち去ろうとする。
それに対して、帯刀さんが何か引き留めるような言葉をモゴモゴと言っていたのが分かったが、止まる気は無かった。
ここに居たところで、互いに話すような内容でも無いのだし。
────だが、そう考えて足を進めた瞬間。
まるで、帯刀さんの代わりに俺を引き止めるように。
俺のポケットから、スマートフォンがリリリンと音を立てた。
「……あれ、電話?」
音が癇に障ったのか反射的に眉を顰める帯刀さんに軽く謝りつつ、俺はスマートフォンを慌てて取り出す。
普段は事務所に入った時点でマナーモードにしているのだが、どうやら歩いてきた疲労もあってそれを忘れていたらしい。
俺のスマートフォンはジャカジャカと音を立てながら、仕様通りに画面に発信者の名前を提示していた。
誰からだろうと首を傾げながら、俺はその名前を見つめる。
そして、すぐに「えっ」と声を漏らした。
「……鏡か?何でこんな時に……?」
「んにゅ?……奏?」
隣で帯刀さんが反応したのが分かったが、俺としてはそちらの相手は出来なかった。
前回の着信からとりあえず登録しておいただけの相手から、また連絡が来たのである。
心霊写真の一件で、俺に謎解きを頼んできた彼女から。
──一体、何の用だ?……今度は、UFOの写真でも撮ったとか言い出すんじゃないだろうな、鏡。
前回の騒動を思い起こして、反射的にそんな感想が浮かんだ。
しかし電話をかけてきた以上、無視するわけにもいかない。
通話のマークを押してみる。
「はい、もしもし。松原だけど」
すぐに鏡から「あ、もしもし?ちょっと今良い?」みたいな感じで返事が来るかな、と予想していた。
しかしその予想に反して────スマートフォンからは、もう少しか細い声が響いてくる。
『あ、繋がりました、松原……さん、ですよね。……あの、その、今、大丈夫でしょうか?』
「……その声」
一瞬でシナプスが繋がる。
同時に、混乱もした。
それは、声の主が分からなかったからでは無い。
発信者自体は、分かりすぎるほどに明瞭だった。
何せ、つい今しがたも帯刀さんとの会話で取り上げたばかりの存在である。
一瞬で声の主を判別し、俺は問い返した。
「長澤か?……どうしたんだ?まだレコーディング中だろうに」
『あ、その、レコーディングはまだ私の番じゃなくて。奏さんが収録している最中なので、奏さんのスマートフォンを貸してもらってて……』
あまり話し慣れていないような感じで、長澤が説明をする。
何気に、ちゃんと話すのは月野羽衣のライブ以来だ。
久しぶりであることもあってか、声が強張っている。
もしかすると、人見知りな性格なのかもしれない。
『……あれ、でも松原さん。何で知っているんですか、レコーディングのこと』
しかしそこで唐突に、今度は長澤の方が予想を外したような声を出した。
どうも、自分たちの予定がいつの間にか知られているという状況が解せなかったらしい。
「ああ、すまない。今、ボヌールで帯刀さんと話していたところだったんだ。それで、君たちは収録中と聞いてたから」
『そうだったんですか?……えっと、じゃあ、もしかして今、多織さんは松原さんの目の前に居たりします?』
「まあ、居るな……それが?」
ソファに寝そべりながら、多少興味を持ったようにこちらを見てくる帯刀さんを横目で見ながら、俺はそう返答する。
同時にスマートフォンの向こうから、『だったら、丁度良かった……』と安堵するような声がした。
『松原さん。申し訳ないのですが、多織さんと電話を替わって下さい。多織さん、自分のスマートフォンやタブレットの電源を切ってるみたいで、連絡が取れなくて……何とか代わりに、多織さんの近くにいそうな人を探して電話していたところなんです』
「まあ、それは良いが……でも、どうしたんだ、わざわざ電話なんて」
すぐにスマートフォンを渡しても良かったのだが、何となく興味が湧いて軽く問いかけてみる。
答えてくれるかなとも思ったのだが、大した事情でも無かったのか返答はすぐに来た。
『大した話じゃないですよ。スタジオに多織さんの傘が置きっぱなしになっているから、私たちが代わりに持って帰ります、と伝言したいんです』
「へえ……忘れ物か」
『はい。待機時間中に、雨の様子でも見ようと思ってスタジオの入口に出たら、偶々傘立てに置きっぱなしになっているのを見つけて……』
ふーん、と俺は事情を聞き流す。
聞いてみれば確かに、大した話ではない。
日常的にあり得そうなミスである。
──この前のタブレットもそうだが、どうにも置き忘れが多いユニットだな、グラジオラス。
強いて感想を探せば、その程度だった。
まあ、気づいてもらえた分良かったなとは思ったが。
……しかし、そこで。
俺はふと、こう考える。
──……ん?でも、それじゃあ……。
脳裏に浮かぶのは、微かな違和感。
それだと話がおかしくないか、という不思議な感覚。
だって、そうだろう。
スタジオに、傘は置きっぱなしになっているというのに。
そして今日は朝早くを除いて、ずっと雨だと言うのに。
「……ねーねー、何の話―?」
全く濡れた様子も無い服を身に着けたまま、帯刀さんはそこで無邪気に口を挟んだ。