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雨に追われる時

 唐突かつ、かなりどうでもいい報告なのだが。

 俺は最近、折り畳み傘を購入した。

 何故かと言うと理由は簡単で、梅雨時になったからである。


 ……このような恐ろしくつまらない導入から始まるエピソードというのもこの世に中々無いと思うが、事実なのだから仕方が無い。

 傘が無いと結構困る場面がちょこちょこ起きる季節になったのだから、当然の対応と言えるだろう。


 何かと縁が無く今まで買ったことが無かったのだが、やはり折り畳み傘と言うものは持っておいた方がいい。

 前回の心霊写真の一件でしばらく校舎内に留まる羽目になったのも、傘が無かったせいなのだから。

 使いづらいし、「折り畳み」と名前の入っている割に畳むのが面倒くさいし、傘の面積上まあまあ濡れやすいのだが致し方ない。


 俺は従兄弟程には勘が良くないので流石に天気の予想などは出来ないし、突然の雨に対応も出来ない。

 だからこそ、こういう傘も必要になるのである。


 ────ああ、それと。

 傘について語っている内に、ふと思いついたのだが。


 今から語る一件も、ある種の動機となっているのかもしれない。

 梅雨の初め、帯刀さんと共に経験した小さな謎。

 それが、折り畳み傘を買う動機となったのだ。


 まあ、そんなことを帯刀さん本人に言ったところで。

 あの人はもう、このことを忘れていそうだけど。


 そう言う人だ、帯刀さんは。






 ────五月末。俺が折り畳み傘を購入する二日前の土曜日。






「今日も雨か……しかも、ザンザン降り」


 家の窓から外の様子を眺めた俺がまず呟いたことと言えば、こんな泣き言だった。

 同時にどうしても、顔がげんなりとしたものになってしまう。


 品の無い行為なのかもしれないが、許して欲しい。

 梅雨時に外に出ようとしている人の顔など、大体こんなものだろう。


「まあ、梅雨入りしたばっかりだしな……これからしばらく、こんな感じか」


 そう言いながら、俺は点けっぱなしになっているテレビをチラリと横目で見た。

 画面上では、美人なアナウンサーが発達した前線がどうこうだの今日は全国的に雨だの、様々なことを困った風に告げている。


 とりわけ、今回の梅雨入りは観測史上何番目に早いと言うことを繰り返し述べていた。

 どうやら、今日のメインニュースはこれらしい。


 彼女の様子からすると、この時期からの梅雨入りというのはそれなりに珍しいようだ。

 少なくとも、ニュースになる程度には。


 ──まあ実際、ここのところ雨ばかりだったが……。


 心の中でそうぼやいてみる。

 心霊写真の一件に関わった日からこちら、雲一つない快晴という日を経験した記憶が殆ど無い。


 今日だって朝早くはまだ辛うじて降っていなかったのだが、そこから一時間もすると既にポツリポツリと降ってしまっていた。

 どうやら、午前八時くらいに雨雲が決壊したらしい。


 そして必然的に、俺にとってこの天気は困ったものになっているようだった。

 何故かと言えば────。


「雨ってことはー……バイトは、また歩きか」


 ポン、と自分の太ももを叩く。

 本当なら何も言わずに黙々と行く準備をするのが一番いいのだろうが、それでも空に愚痴を言ってしまうのは何故だろう。

 そう考えて、俺は何度目かのため息をついた。




 恐らく多くの人に分かってもらえる感覚だと思うのだが、雨の日のバイト出勤というのは、それはそれは面倒な行為である。

 勿論、バイトの仕事自体は屋内なので何の問題も無い。

 しかし、行き帰りだけは面倒だ。


 特に自転車でバイト先たるボヌールに向かっている俺は、こう言う時に困ってしまう。

 自転車というのは車と違って、何かしら対策をしなければ雨天では中々使えないからだ。


 その対策にしても、普通はレインコートくらいしかない。

 しかしレインコートというのは案外濡れるし重たいし、少なくとも俺はあまり好きじゃない。

 要するに、余程のことがない限りは使いたくない。


 高校に通うときだって、雨の日は電車を使っているくらいなのだ。

 当然、ボヌールに向かう時に雨が降っていたとしても「自転車を使うくらいなら、傘をさして歩いて行った方が早いか」という話になる。


 電車を使っても良いのだろうが、学校はともかく我が家からボヌールまで電車で行こうとすると、立地的に結構な遠回りになる。

 電車代もかかるし、総合的に考えて歩いた方が何かと得なのだ。

 ……移動にかかる時間が倍以上になり、疲労度がヤバイと言う点を除けばだが。


「といっても、遅れるわけにはいかないしな。バイトとは言え仕事だし……早めに準備しておいた方が良いか」


 思考を現実に戻してもう一度ぼやくと、家の中を俺の愚痴が軽く反響した。

 例によって姉さんは朝早くに仕事に向かっているので──朝食を食べた時に互いの予定を確認するくらいのことはしたが──家には俺一人しかいない。


 自然、この愚痴も特に聞く人はいなかった。

 それが良いのか悪いのかは知らないが。


「何にせよ、今日のバイトは三時からだし……二時前には出なきゃダメか?」


 普段ならバイト時間はもっと早いのだが、午前中にレッスン室の使用予約が入ったらしく、バイト時間は午後にずれていた。

 昨日、突然この予定変更を告げられた時には、午後からなら悠々行けるなと思っていたくらいなのだが。

 歩きであることを考えると、もっと早くに出た方が良いだろう────。




 そんなこんなで変わらない雨天の下、午後のジメッとした道をテクテク歩くこと一時間弱。

 そろそろ足首が痛いなと感じるレベルになったところで、俺はボヌールに辿り着くことになった。


「あー、疲れた……」


 ボヌールの屋内に入った瞬間、思わず口からそんな言葉が飛び出る。

 本当に疲れているせいか、その声は自分でも驚くくらい嗄れていた。

 我ながら爺臭いなと思いつつ、俺は傘立てに自分の傘を突っ込む。


 この天気からするとぎゅうぎゅうに傘が詰まっているかとも思っていたのだが、意外にも傘立ては空間が余っていた。

 朝早くの時点では空模様もギリギリ曇りだったので、傘を持ってこなかった人も多いのだろうか。


 ──傘を持ってこなかった人たち、帰りに困らなきゃいいけど……いやまあ、俺が心配することじゃないか。


 軽くそう考えながら、俺は速やかにボヌール内へと歩いて行く。

 目的地は勿論レッスン室……ではなく、いつか振りの休憩室。

 かつてタブレット端末を発見した、あの部屋だ。


 まずそこに向かった理由は、大した物ではない。

 バイトを始める前に、ちょっと足を休めておきたいと思っただけだ。

 バイトとしては少し不真面目な選択だったかもしれないが、雨道のせいで消耗していたので休みたかったのである。


 時間の見積りを誤ったのか、バイト開始の時刻までまだ三十分近い余裕がある。

 あの部屋で休んで良いというのは姉さんも言っていたことだし、三十分くらい休憩するのは大丈夫だろう。

 何気にあまり食べていない、菓子盆のお菓子も食べたいし。


 ────ただ、一つ難点を言えば。


「……まあ、先客が居なきゃ、になるけど」


 休憩室に向かって歩きながら、ポツンと呟く。

 同時に利用者が居ませんように、と俺は軽く祈った。


 こんなことをするのにも、勿論理由がある。

 実を言うと、今までもこうやって休憩室を使おうとした瞬間はあったのである。

 しかしその度に────休憩室には先客が居た。


 端的に言えば、既にそこを使っている社員やらアイドルやらが俺が来た時点で休んでいたのである。

 そして俺は、彼らを見つけるたびに休憩室の使用を遠慮してしまっていた。


 本来なら俺もバイトとは言え関係者なのだし、休憩室の利用を躊躇う理由は無い。

 しかしやはり、知らない社員やら女性アイドルやらが休んでいる場所の端っこを俺が勝手に使わせてもらうというのは、何となく気が引ける。


 どうしたって互いに気を遣いそうだし、それ以前に休憩にならなそうだ。

 疲労度で言えば、まず間違いなくただのバイトである俺よりもレッスンや仕事で忙しい彼女たちの方が上なのだろうという認識があるものだから、猶更そういう対応になった。


 気がつけば、先客がいませんようにと願いながら休憩室の扉を開けるのが、休憩室に向かう際の俺の習慣と化しているのである。

 それ故に、その日も。

 俺は祈りながら休憩室まで辿り着き、そしてゆっくりと扉を開けていた。




「失礼しまーす……」




 まず、ノック。

 続けて小さくそう言いながら軽く扉を開け、俺は中の様子を覗く。

 途端に、部屋の隅に置いてあるソファに人影を認めた。


 細い身体だ、女性だろうか。

 余程疲れているのか、ソファの上で横になっている。


 この位置からでは顔をがよく分からないのだが、人なのは間違いない。

 先客、ということだ。


 ──人、居たのか……。


 大雑把に状況を見てから、率直に残念だと思う。

 彼女が悪い訳ではないが、そう思ってしまった。


 先客がいた以上、俺の方針は撤退あるのみ。

 ここで休むことは出来ない。


 だが、この時は────少し事情が違った。

 撤退する前に、もう一つのことに気がついたのである。


「……寝てるのか?全然動かないし」


 その事実に気がついた瞬間、俺は思わず声を出す。

 発見に驚いたせいか、少々大きな声になってしまった。

 普通なら、まず間違いなく振り返ってくる程度の声量。


 しかし相も変わらず、室内の女性からの反応は無かった。

 起きているのなら、少しくらいこちらを見ても良さそうなものなのに。

 どうやら、本当に熟睡しているらしい。


 その事実を認めた瞬間、俺は少し迷う。

 俺の視線の先には、ソファの前に置かれてあるテーブルとその上の菓子盆があった。


 ──どうする?人居るけど、お菓子くらいは貰うか?眠っているのなら、気がつかないだろうし……。


 時刻が時刻だ。

 俺としても、小腹が空いている。

 向こうが寝ていて俺が相手に迷惑をかけないなら、お菓子を貰うくらいはまあ……。


 頭の中で、天秤が揺れる。

 グラグラ、グラグラと羞恥心や欲望や躊躇いが揺れ────気がついた時には、俺は休憩室の扉を全開にしていた。

 せめてお菓子でも食べて気分的に休みたい、という思いが勝ったのである。


 すやすやと眠るその人の睡眠を邪魔しないように、そろそろりと泥棒みたいな歩き方をしながら俺は菓子盆に向かった。

 当然だがそれをしている最中、どうしても俺の視線は寝ている彼女の顔に集中する。

 彼女が起きないように様子を注視している分、必然的に彼女を見つめる形になるのだ。


 ──改めて見ると、大人っぽい容姿してる人だな……背丈的に、高校生程度だと思うけど。


 この人は間違いなく社員ではなくアイドルの方だな、とそこで確信した。

 高校生くらいだと思しき年齢もそうだが、それ以上に寝顔全体に「華」がある。


 ……いや、というかそれ以前に。

 ……何かこの顔、見覚えがあるような無いような。


 ──あれ、誰だっけ、どこかで見たような……?


 泥棒歩きを続けながら、俺は首を捻る。

 頭の中はかなり強い既視感に包まれていた。

 瞳を閉じた寝顔になっているために記憶の中から検索しにくいのだが、俺はこの人をどこかで見たことがあるような気がする。


 ──でも、俺が知っているアイドルなんて限られるからな。超有名な人か、グラジオラスメンバーくらい……。


 何とか消去法でそこまで考えて。

 その瞬間、あっとなった。


 ──思い出した、この人、グラジオラスの帯刀多織さんだ……最近会ってないから、忘れてた。


 顔自体は何度も見たことがあったのだが、人間というのはどうしても直に話していないと忘れてしまうらしい。

 かなり目立つ容姿なのだが、すっかり頭から消えていた。

 なまじ他の四人のグラジオラスメンバーと顔見知りになった分、相対的によく知らないメンバーの印象が薄くなっていたというのもあるのだろうか。


 ──これはまた。変なところで会ったな……。


 意外な余り、俺は思わずそれまで以上にジロジロと彼女の顔を見てしまう。

 相手が寝ているものだから、遠慮というものが無かった。


 ──そっか、そうだよな。こういう、大人びた顔のアイドルだったよな……どうしてこの顔を忘れられたんだか。


 自分に驚くやら呆れるやらで、俺はついそんな感想を抱く。

 そのくらい、帯刀さんははっきりと目立つ顔をしているのだ。


 顔の系統としては長澤や鏡のような可愛い系ではなく、酒井さんや天沢のような綺麗系が近いだろうか。

 ショートボブの黒髪、薄い唇、そして切れ長のまつげ。

 さらに白魚のような指、歳の割に──確か高校二年生のはずだ──豊かなスタイル、ほっそりとした足が続く。


 眠っているからというのもあるのかもしれないが、幼さとか不完全さとか言う物が抜け落ちたような容姿をしている。

 化粧などは特にしていないようだが、それでも並の女優に匹敵するような顔立ちをしているのだから凄まじい。


 ──前に鏡が「女優の仕事が多い」みたいな話をしてたけど……何か分かるな。居るだけで空間が華やぐし。


 泥棒歩きを再開し、そろりそろりと菓子盆からお菓子をつまみながらそう思う。

 近くで見るたびに思うのだが、帯刀さんをはじめ、グラジオラスメンバーの容姿は本当にレベルが高い。


 レッスンも頑張っているようだし、どうして未だにあまり売れていないのか不思議に思うくらいだ。

 そんな失礼なことまで考えて、ようやく俺は帯刀さんの観察をやめた。


 ──まあ、そこは俺がとやかく言うような話でもないけどさ。


 何となく苦笑し、俺は最後のお菓子を掴む。

 そして来る時と同様、静かに泥棒歩きで帰ろうとした。


 ……しかし、その瞬間。


 丁度、フッと意識が覚醒したのだろうか。

 何の前触れも無く、突然。

 帯刀さんがパチリ、と両瞳を開いた。


「えっ」


 驚いて、思わず声を出してしまう。

 起こしてしまったのかとか、既に起きていたのかなどと考えてしまったのだ。


 しかし、そこで声を出したのは不味かった。

 その声でさらに目が覚めたのか、帯刀さんはすぐに目をシパシパと瞬かせ、口をモゴモゴとさせ始めたのである。

 何か、言おうとしているらしい。


「むん……んにゅ?」


 人間の言葉かどうか怪しい感じの声を漏らしつつ、彼女は上体をゆらりと起こす。

 それを見て、俺はどうしようかと思った。


 これ以上彼女の睡眠を邪魔しないためにも、さっさと去るべきか。

 それとも、とりあえず彼女を起こしてしまったこと自体は謝っておくべきか。


 どうしようか決めかねている内に帯刀さんはゆらゆらと髪を揺らし、ポヤンとした顔でこちらを見つめた。

 いよいよ、ハッキリと目が覚めたのか。

 彼女は半開きのままになっていた唇を揺らし、モゴモゴとこんなことを言う。


「お母さん……あと五分……寝て良い?」

「へ?」


 ……反射的に声を漏らした俺は、悪く無いと思う。

 先程の言葉、訂正しよう。

 未だに彼女は、寝ぼけているらしい。

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