幽霊の手が伸びる時
「……鏡に話した推理の中でも、休憩時間の部分は矛盾だらけです。変な点が多すぎる」
最初にそう告げた。
この言葉には、多分に自嘲も入っている。
我ながらよくもまあ、あんなに有り得そうに無い話を作れたなという自嘲。
「最初の部分、すなわち好奇心からユリノキを見に行ったという話は、貴女の普段の行動と矛盾します。鏡によれば、撮影中の貴女は凄い生真面目だそうですから」
それこそ、間違ってもスマートフォンなんて見ないとすら言っていた。
鏡による誇張もある程度入っているかもしれないが、実際そんな感じなのだろう。
だとすれば、それほどにまで撮影に集中している酒井さんが好奇心からユリノキを見に行ったというのは、かなり想像しにくい。
これが、一つ目のおかしな点。
続けて、疑問点を告げた。
「また、不思議に思える点もあります。転んだ後の貴女の対応……鏡も疑問に思っていたようでした」
「奏が?……何を言っていたの?」
「仮に貴女が休憩時間中に転んだとしても、何故転んだ後に手を洗わなかったのだろう。トイレで手を洗うくらい、すぐに済むことだろうに。そう言っていました」
俺の推理を聞いた後、鏡が思わず口にした疑問である。
俺はそれを、そっくりそのまま再現した。
手が汚れてしまった酒井桜は、何故その後手を綺麗にしなかったのか。
休憩時間だというのに、どうして行動しなかったのか。
非常に鋭い疑問だ。
というか、俺が鏡に話した推理を根本から崩す疑問である。
手が汚れた人間というのは、普通は手を洗うのだから。
「撮影で疲れていたから一々行かなかったんじゃないか、とも考えたんですけどね。その場合、今の今まで貴女が撮影を続けていたという事実と矛盾します。実際、体力的にはまだ余裕があるくらいでしょう?」
そう告げると、酒井さんは仕方なく頷く。
あまりにも明確な事実だったので、流石に嘘は言えなかったのだろう。
そのくらい、当然のことなのだ。
午後にも撮影が控えていて、それを普通にこなそうとしている彼女が、午前中の時点で疲れ果てているというのは少々考えにくい。
トイレに行く体力くらい、残っていると考えるのが普通だ。
「まあ要するに、貴女が『幽霊の手形』の元凶だと考えるには無理があると言うことです。いくらなんでも説明がつかない」
「だから……逆に考えたの?」
「はい。実際には貴女はユリノキを見に行ってなんかいないし、転んでもいない。合理的に考えれば、その方が妥当です」
勿論、そうなると「じゃあ『幽霊の手形』は誰のせいで作られたんだ」と言う話になる。
酒井さんのせいでないなら、一体誰が作ったのか。
そちらの疑問について、俺は最初に言ったことを繰り返した。
「そう考えると、ここで面白い符号があることに気が付きます。その休憩時間に鏡が体験したと言う、とあるトラブルについてです」
「……そこで、奏が出るのね」
「ええ、彼女は話の中ではっきり言っていますから。休憩時間中に転んだ、と」
そう言いながら、俺は鏡に言われた話を思い返す。
確か、こんな感じだっただろうか。
──言っとくけど本当に辛かったんだよ、あの時の膝の状態。
──着替えのための部屋に行くとき、何も無い場所で勝手に転んじゃったくらい。
──しかも転んだ場所って言うのが、まさしく噂のあるその木の近く。
──木の幹を支えにして立ち上がったくらいでね。
──病気になるどころか、擦り傷を作るところだったんだから。
普通なら、なんてことの無い話だ。
ただ単に、彼女がそのくらい疲れていたというだけの話。
だが黒板消しにまつわるこの学校の事情が分かった今となっては、その意味合いは変わってくる。
あの周辺の地面や木の枝はその時、チョークの粉によってそれなりに汚れていたと思われるからだ。
果たして、その木の近くで転んだという彼女は。
木の幹に縋って立ち上がったと言う彼女は。
その手を汚さないままでいられただろうか、と。
もしかすると、鏡は。
擦り傷を作らなかったということに安心して立ち上がった後は、手も洗わずに衣装変更に勤しんだのでは無いだろうか。
ただでさえ、雨が迫る中の撮影だ。
着替え一つにも手伝いが入るくらいに、現場は急いでいた。
そんな中で、現場に慣れていない彼女が慌ただしく動いたのなら────。
「つまり、こういうことです」
一度、息を整えて。
俺はこの話をまとめ直した。
「今回の一件について、貴女は真相を察して揉み消すような動きはしている。ですが、その元凶ではない。……鏡のミスが露見しないよう、庇っているんだ」
そう告げた瞬間、酒井さんがはっきりと息を呑んだ。
目を見開いた様子がくっきりと見える。
しかし、俺は言葉を止めない。
「あの写真に映っていた『幽霊の手形』は、手の汚れに注意を払っていなかった鏡が自分の服を汚し、その結果出来た物ですね?貴女は、それを密かに拭っていて……結果として貴女の手が汚れてしまった。それが、今回の件の真相でしょう?」
酒井さんは、何も言わない。
正確には、敢えて言っていないのだろう。
これ以上情報を漏らさないために意識して沈黙を維持している、という風に見えた。
それを確認して、俺は流れるように今回の経緯を語っていく。
ここで話を止めても、向こうが不気味がるだけだ。
どのくらいのことまで俺が分かっているのかくらいは、明示しておく必要があった。
「……ここから先の話は、あくまで俺個人が想像したものです」
「とりあえず時系列順に語ってみますが、何か意見があればすぐに止めてください」
「事の始まりはあのユリノキ周辺が、チョークの粉によって結構汚れていたことにあります」
「これに関しては、今まで撮影をしていた貴女には今一つ想像できないかもしれませんが……まあ、諸事情で粉っぽくなっていた、くらいに思っていてください」
「黒板掃除係の怠慢というか」
「何にせよ、あの木の近くで転んだ鏡は──両手だか片手だか知りませんが──その木に触ってしまった。そしてその結果、手が汚れてしまった」
「チョークの粉が、掌にしっかりと貼り付いてしまったんです」
「不運と言えるでしょうね」
「普通なら、そんなに汚れた植物なんてそうそう無いでしょうし」
「しかし彼女の不運は、これだけではありません」
「自分の手がチョークの粉で汚れたという事実に、彼女は自分では気が付けませんでした」
「このことも不運でしょう。気づいていれば、そこでこの話は終わっていたんですから」
「何故気が付かなかったかは……まあ、その時の状況を想像すれば大体分かります」
「ただでさえ、初めての本格的なモデル撮影の最中です。慣れないコスプレのような恰好までしている上、雨のせいで随分と急かされながら仕事をこなしてきました」
「恐らくこの時点で、彼女はそんな汚れなんて構っていられないくらいに疲労していたのでしょう」
「だからこそ、何も無い場所で転んだんでしょうし」
「俺と話していた時は平気そうでしたが、アレは時間が経ったからでしょう。撮影中はプレッシャーもあるし、もっと疲れていた」
「さっき言ったように、貴女は仮に手が汚れようが、悠々と手を洗いに行けるくらいの体力はあった」
「しかし彼女は、念のためにすぐに手を洗おうという判断が出来ないくらいに限界だった」
「無論、それでも本来なら手を洗いに行くべきだったのでしょう。撮影なんですから」
「しかしまだ経験も浅い鏡は、そういう判断が出来なかった」
「手の状態も確認しないまま、まあいいやとでも思ったのでしょうか」
「両手にチョークの粉が付着したまま、次の撮影に向かったんです」
「そして次の場面でも、鏡には不運が続きます」
「それが、周囲もこのことに────鏡の手が少々汚れていたことに気が付かなかったということです」
「少なくとも衣装を着込む段階では、誰もそれを指摘しなかった」
「白っぽい汚れというのは、学ランみたいな黒い生地の上だからこそ目立つのであって、他の場所だと目立たない」
「加えてあの学ランは少しサイズが大きく、袖がやや余っていました」
「それによって鏡の掌が見えにくくなっていて……そのせいで気づかれなかったのでしょう」
「服自体も、衣装さんに着せてもらったとも言っていましたしね」
「これらの不運が重なった結果、どうなったと思います?」
「鏡は自身の掌がチョークの粉で汚れたまま、学ランを着込むことになりました」
「誰も指摘せず、彼女自身も気が付かず、その上で服を殆ど触らずに着せてもらったことでそうなってしまった訳です」
「そして、問題となったのはその後」
「鏡の話の中に、こんな場面があります」
「学ランがスースーしたから、彼女は背中を掻きむしった、と」
「まさか撮影中にそんなことは出来ませんから、恐らく撮影直前の話でしょう」
「つまり彼女は……チョークの粉で手が汚れたまま、学ランの背中部分を掻いたのです」
「背中を掻く時というのは、こう、手首の部分を背中に密着させながらやることが多い」
「実際にやってみると分かりますが、結構掌が密着するでしょう」
「だからこそ、付着したのでしょう」
「学ランの背中の部分に、チョークの粉がくっきりと貼り付いた」
「これをミスと呼ぶのも、鏡に対して酷な気がしますが……それでもこれは、やはりミスなのでしょうね」
「大した汚れでは無いとは言え、彼女は自分の不注意により、折角着せてもらった衣装を汚してしまったのですから」
「汚れの位置が背中ということもあって、鏡本人はまたまた汚れには気が付いてはいませんでしたが」
「こうして誰にも知られず、『幽霊の手形』は生まれてしまった訳です」
「そして……ここからは想像の割合が増えてくるのですが」
「恐らく貴女は……現場で一番に、鏡の背中が汚れていることに気が付いたんでしょう?」
「気がついたのは、衣装を着替えた直後の鏡と合流したところ」
「偶然鏡の背中を見た貴女は、何故か相方の学ランが汚れていることに気がついた」
「さらに──ここからが大事なのですが──貴女はその汚れを見た瞬間」
「それが、鏡のミスによるものなのだろう、ということにも気が付いた」
「これは、貴女の視点では簡単な推理です」
「衣装を着替えた瞬間の、つまりピカピカの新品を着てきたはずの彼女の服に大きな汚れが付いているんですからね」
「衣装さんのミスとは考えづらいし、服を着ている鏡のミスとしか考えられない」
「勿論この時点では、貴女は黒板消し云々の事情は知りませんから、汚れの正体までは分からなかったでしょうけど」
「ただ単に『どこかの壁にでも寄りかかって汚したのかな』くらいに考えたはずです」
「だけど貴女にとっては、その理解でも十分だった」
「重要なのは、貴女の仲間が何かミスをして衣装を汚してしまったらしい、という点ですから」
「だから貴女は────その汚れを指摘せず、密かに拭ってやることにした」
「……何故、普通にその場で指摘しなかったのか?」
「その理由は、大きく分けて二つでしょう」
「一つは単純で、時間が無かったから」
「その時の現場は雨が降るか否か、撮影を続行できるか否かで焦っていたところです」
「見たところ簡単に拭えそうな汚れだし、指摘して大事にするよりはさっさと解決させよう、という思考に至ることは不思議なことじゃない」
「そしてもう一つの理由は……鏡の評判を気にして、ということになるでしょうか」
「モデルの世界は横の繋がりが強いから、スタッフの評判にも気を払った方が良い」
「この教えは、貴女の言った言葉です」
「そして当たり前ですが、この考えは鏡自身にも適用されます」
「鏡にとって、今回の仕事は初めての本格的な雑誌撮影。いわば、初陣です」
「その初陣から、事故とは言え衣装を汚したことが知られたら?」
「もしくは、そんなドジをしてしまう子なんだという印象をスタッフに抱かれてしまったら?」
「その場合、もしかすると……アイドルとしての鏡の評判に何か差し障りがあるのでは無いか?」
「そう考えたから、貴女は素直にその場で汚れを指摘しなかった」
「どうせ、その学ランの撮影さえ終われば、鏡の仕事は終わりです。ここまで何とか上手くやってきたのに、最後の最後でミソを付ける必要は無い」
「いや何なら、鏡自身にも、背中が汚れていることを知らせる必要は無い。ただでさえ疲れているのに、そのことを指摘したら余計に気にしてしまう」
「そう考えた貴女は、鏡本人にも背中が汚れていることを知らせずに、その汚れを手で拭った」
「鏡の話では『背中をポンポンしてくれた』とのことですが……それは、粉を飛ばすために汚れの上をはたいていたということでしょう?」
「これのお陰で、鏡の背中の汚れはほぼなくなりました。少なくとも、撮影に支障が出るレベルではなくなった」
「ついでに言えば、背中の方に汚れの殆どが移ったせいか、図らずも鏡の手に関しても既に綺麗になっていたのでしょう。仮に手の汚れが残っていたのなら、流石に鏡も自力でこの真相に気がつくでしょうし」
「要するに貴女の行動の結果、鏡が自分でも気が付かない内に発生させていた問題は、すっきり解決した訳です」
「……しかし、全てが解決した訳ではない」
「今度は貴女の方に、問題が発生しました」
「単純な話です」
「そんな汚れを、手で拭ったり払ったりしたから……逆に貴女の手が汚れてしまった」
「そういう、ごく当たり前の問題です」
「予想出来なかったのか、予想していても無視したのか」
「どちらにせよ、断言出来ることは一つ」
「貴女の手が汚れたというこの問題は、下手すると鏡のそれよりも対処に難渋するということです」
「だって、そうでしょう?」
「撮影はもうすぐそこにまで迫ってきている上、着替えまで終えているんですから」
「ちょっとトイレで手を洗ってきます、というのは心情的にやりにくい」
「かといって、そこらの壁に擦り付けるのも避けたい。何なら、もっと汚れるかもしれませんから」
「手をその場でパンパンと打ち合わせれば、それだけでかなりマシになったと思いますが……鏡にバレるのを恐れたんですかね?」
「鏡に気負わせないよう、気づかれないままでいるのも貴女の目的の一つ。だから、あからさまな行動は躊躇われた」
「ウェットティッシュみたいなものがあれば、一番良かったんでしょうけど……生憎、その時の撮影現場には無かったんでしょうね。もしくは、取りに行けないくらい忙しかったか」
「だから結局、貴女はそのまま撮影に臨むしか無かった。何とかなるだろう、と踏んで」
「勿論、手の汚れと言っても、貼り付いた粉は少量です」
「黒板消しからユリノキ、さらに鏡の手やら背中やらを経て空輸されてきた汚れですしね。そんなに盛大な汚れでも無い」
「だから、気を付ければバレないと思ったのでしょう?」
「しかし結果的には、その目算は外れました」
「貴女はつい、ポージングの中で学ランの胸元を触ってしまった」
「しかも、カメラマンにそれを指摘されてしまった」
「……指摘された瞬間、察しがついたんでしょう。不味い、恐れていた事態が起きた、と」
「そして同時に、こう思ったはずだ」
「何とかして誤魔化さなければならない、と」
「ただ衣装が汚れていただけなら、まだ良い。それが自分の責任だと言われたとしても、まだ立て直せる」
「でもこの汚れをさらに追及されて……実は鏡にも要因があると考えられてしまうのは、避けなくてはならない」
「一番最初の、鏡のミスを明らかにしないようにするという目的が果たせなくなりますから」
「それ故に、貴女はすぐに学ランを脱いで汚れを払った。自分の手も、広げた学ランに隠れるようにしてついでに拭ったんでしょう」
「その上で、すっとぼけたんです。何も分からない、と」
「この嘘に関しては、中々上手く行きました」
「撮影を急いでいたこともあり、それ以上追及されることはなかった」
「結果として貴女を隣で見ていた鏡にとっては、写真にまで残っている汚れの跡が忽然と消えたように見えた」
「あくまで貴女の服に起きた事件としか認識していなかったので、自分が原因であることにも気が付かなかったのでしょう」
「こうして『幽霊の手形』という謎が生まれ、同時にかき消された……」
「要するに最初から最後まで、貴女は鏡のために行動していた」
「モデルの先輩として後輩を導くために。そして、鏡のミスが露見しないように」
「……そう考えると、鏡がその手形の主のことを『幽霊』と例えたのは的を外していましたね」
「幽霊は幽霊でも……今回に限っては、守護霊とでも呼んだ方が良さそうです」
「そうでしょう?……酒井さん」