グラジオラスを知る時
「……ん?」
ロッカーを開けると同時に、口からそんな声が出た。
少しばかり首から下を硬直させてしまう。
そのくらい、目に映った光景が予想から外れていたのだ。
予想した中身は、当たりなら目当ての掃除用具、外れなら何もないだろうという物だった。
だが実際に見た中身は、そのどちらでも無い。
端的に言えば、ロッカー内に存在していたのは────女子用の学生服と学生鞄だった。
付け加えて、これ見よがしに鞄の上に置かれたタブレット端末で全てである。
タブレットの表面には持ち主らしい女子高生を映したプリントシール──ゲームセンターでよく見るアレだ──まで貼ってあり、それが女子の持ち物であることを示していた。
要するに、これは誰かが使用しているロッカーだったのである。
てっきり掃除用具用のロッカー以外の物は無いだろうと思っていた俺は、目をパチクリと開閉させてしまう。
だがよくよく考えてみれば、これはそう不思議な話でもない。
妥当な解答は、割とすぐに脳内に思い浮かんだ。
──あ、そうか。あのアイドルの子たちが、着替えのためにロッカーを使っているのか。
遅ればせながら、ようやく事情を察する。
そもそもこの空間は、レッスンの前の着替えをしたり、荷物を置いたりするために使われる場所だろう。
鍵が掛かっていないのは不思議だが、彼女たちの着替えがここに置かれてあるのは当然と言えた。
そして、そこまで正しく事実を認識できた瞬間。
俺の全身を、電撃のような危機感が貫いた。
──ヤバ。アイドルの私物を漁るド変態になってないか、今の俺……。
慌てて、ロッカーの扉をバタンと閉める。
俺はここに来たばかりで、事務所の人には顔すら知られていない。
今の状況を誰かに見られたら物凄い誤解を受けそうだ、なんて考えて────。
「……あの、私のロッカーに何か用ですか」
────その予想は、程なくして適中した。
俺の背後から、かなり疲弊した、しかし綺麗な声が響いたのである。
刹那、バッと背後を振り返った。
思わず声を上げそうになったが、そちらは気合で我慢する。
本来なら、声を上げたいのは彼女の方だろうから。
──レッスン、もう終わったのか?でも……。
そう思いながら、俺は声の主を見つめる前に、レッスン室の方に横目で視線をやった。
そちらからは依然として「ワンツー、ワンツー」という声が聞こえていたし、ダンス用の音楽も鳴りやんでいなかったのだ。
レッスンが終わっているのなら、こんな音が聞こえるはずがない。
──やっぱり、まだやっているよな?普通に踊っているし……一人だけ、抜けてきたのか?
先程と同じく踊り続けている──しかしよく見れば、踊っているメンバーの数が一人減っている──アイドルたちの様子を、何とか確認。
それからようやく、俺は眼前の声の主に視線を戻した。
まず、普通に真ん前を見るつもりで水平に。
その次に、やや斜め下に視線を動かした。
他意はない。
そうする必要があるくらい、相手の身長が小さかったのだ。
すぐに視界に収まったのは、中学生くらいの小柄な少女の姿。
レッスンの影響なのか、はあはあと息を荒げ、かなり汗をかいている。
華奢な体をジャージで包んでいる様子は、練習中のスポーツ選手か何かのようだった。
しかしスポーツ選手と言い切るには、彼女が容姿に華がありすぎる。
一本にまとめられたポニーテールや、ぱっちりとした大きな瞳、そしてやせ型の体型など、彼女の構成する全てに「華」は現れていた。
どれもが均整で、バランスが取れている。
疲労困憊しているのであろう今ですら、なお美しいと言い切れる程に容姿が整っているのだ。
なるほど確かに、彼女はアイドルらしい。
頭の中の妙に冷静な部分が、そんな判断を下していた。
……ただし彼女の美しい容姿も、今は瞳に湛えられた「疑念」と「恐怖」のせいで台無しだったが。
「……あの、本当に、誰ですか?」
俺が混乱やら観察やらのために押し黙っている内に、彼女は先程よりも随分と小さな声で問いかけてくる。
彼女の顔は非常に青ざめていて──これは先ほどの練習の影響も多分にあるだろうが──今にも叫び出しそうだった。
練習から帰ってきたら見知らぬ男子高生がロッカーを弄っているというこの状況が、本当に怖かったのだろう。
「え、ええと、それは……」
あまりにも彼女が真剣に怖がっている物だから、何となく俺の方も緊張してしまう。
しかし俺の方から事情を説明しないと何も始まらないので、何とか気合を振り絞った。
年下相手ではあるが、立場上敬語である。
「いやその、俺は……掃除のバイトの者です。聞いてません?明日から掃除に来るんですけど」
「掃除?」
「はい、ここのレッスン場の掃除……ちょっと、その掃除用具を探していたら、間違って変なロッカーを開けちゃって。その、貴女のだったんですね、すいません」
そう言って、軽く頭を下げる。
一応、丁寧に振舞ったつもりではあった、
だがそれでも、目の前の彼女の疑念が解けていないことは、顔を見ずとも何となく分かった。
仕方が無いことだろう。
自分で言うのも何だが、今のは相当怪しい言い訳だ。
信じるには証拠が足りない。
それを察したが故に、俺は頭を上げるとすぐ、先程事務の篠原さんから貰った名札とカードキーを取り出した。
それらを抱えて、素早く彼女の方に見せつける。
俺が何分も説明するよりも、これを見せた方が早い。
「ほら、名札とカードキー……松原玲って、書いてあるでしょう?顔写真も……」
「……ですね」
俺の要請に応じてふらふらと歩いてきた彼女──ダンスの疲労が残っているのだろう、足取りが危うい──はその名前を確認して、ふんふんと頷いてくれる。
そしてふと、何かに思い至ったかのような顔をしてこう聞いた。
「松原って、もしかして松原プロデューサー補の……?」
「あ、それですそれ。姉が関係者なので、バイトとして雇ってもらったというか」
厳密にはやや事情が違うのだが、そんな細かいところを言っても仕方が無いので押し切ってみる。
途端に「なんだ……」という声が響き、少女が肩の力を抜いたのが分かった。
どうやら、姉さんの力で信じてもらえたらしい。
普段経験しないような力みをしていたのか、ガクッと脱力しながら少女が息を吐く。
そして彼女は、律儀にもペコリと頭を下げてきた。
「すいません、変に疑ったりして……」
「あ、いえいえ。俺も悪いですから」
「いえ、私の方も何というか、冷静に考えてなかったというか……」
レッスンで疲れすぎて、トレーナーからストップかけられたくらいですし、と彼女は苦笑する。
それを聞いて、俺は彼女がここに戻ってきた経緯を察した。
何気に、彼女が一人だけダンスレッスンから外れた理由が不明だったのだが、理由は単純に「体力の限界」だったらしい。
休憩がてら水でも飲もうと思ってロッカーに向かったら、俺が既にいたという流れか。
「えーと、じゃあ、何というか、どうぞ?」
そんなに疲れているのなら、俺との会話で体力を消耗させるのも申し訳ない。
俺は素早くロッカーの前から移動し、壁際に体を寄せた。
「あ、すいません、わざわざ……」
「いえいえ……こちらこそ」
互いに「悪いことをした」という意識があるせいか、二人して妙に低姿勢になってしまう。
向こうが異様に礼儀正しいというか、律儀に一つ一つ言及してくるのも原因の一つだろうが。
しかし、この雰囲気はどうにも気まずい。
これ以上話すことも無いのだし、出来るだけさっさと去ろうと俺は心に決めた。
ただ、その前に────。
「あの、申し訳ないんですけど、掃除用具のロッカーがどれか、知りません?」
「あ、それならこっちの……」
結論から言えば、そんな酷く事務的なやり取りがこの日の彼女との最後の会話になった。
アイドルらしき人と会話するという、人生初の体験だった訳だが────状況が状況だったせいか、特に感じるものは無かった。
時間は飛んで、その日の夜。
ボヌールから家に戻り、夕食にありついた時。
何とはなしに俺は、食卓でその日の出来事を語っていた。
と言うのも珍しく夕食時に家に帰ってきた姉さんに、「今日はどうだった?」と聞かれたのである。
手続きの方は特に話すことも無いので、俺は自然とロッカーの一件について話していた。
「……こんな感じだったよ、初日は。あのアイドルの子には、悪いことをしちゃったけど」
淡々と話した後、俺は話の終わりを告げるためにお茶を口に含む。
ついでに、出来合いの唐揚げも一つ摘まんだ。
俺の様子を見た姉さんは小さく苦笑いを浮かべ、自分もお茶のコップを手に取る。
「……やはり玲は、こう、短い時間でも色々と良い体験をしているな。お前が動くと、何かとドタバタが起きている」
「それ、良い体験か……?」
しみじみと意味不明な感想を漏らす姉を前に、俺は口を尖らせた。
俺があのアイドルに慌てて弁明をする羽目になったのは、姉さんが掃除バイトの件について十分な告知をしていなかったから、という側面もある。
それを幸運と呼べるかどうかは微妙というか、寧ろ姉さんのミスじゃないだろうか。
そう思ってジト目で姉さんの方を見てみると、向こうもそのことは分かっていたのか、即座に視線を逸らされる。
さらに話題まで逸らそうと思ったのか、姉さんはそこで別の話題を振ってきた。
「因みに……そのお前が出会った子っていうのは、どんな名前の子だったんだ?」
「いや、名前は聞いてないけど」
「だったら、特徴」
多少は興味があるのか、何故か詳細に聞いてくる。
釣られた俺は、出会った時のことを回想した。
「えーと、かなり小柄で……身長は百四十センチ後半くらいかな。それで、髪型はポニーテール……ああ、だけどあれは単に踊るのに邪魔だからくくっているだけか?途中でレッスンにストップをかけられたとか言っていたから、あまり体力はないのかも」
適当に思いつくままに特徴を述べていくと、姉さんはふんふんと首肯。
やがて、ポツリと言葉を漏らした。
「今日レッスンすると言っていたグループは『グラジオラス』だから……その子は多分、菜月だな」
「菜月?」
「ああ、『グラジオラス』メンバー、長澤菜月……中学二年生だ」
年齢を聞いて、まず年下だったんだ、と思った。
今年中学二年生になったということは、俺よりも二歳年下になる。
「その『グラジオラス』っていうのが……あそこで踊ってた、ボヌールに所属しているアイドルグループの名前?」
「ああ、去年デビューした五人組のユニットだ。私が関わっている仕事の一つでもある。……まあぶっちゃけた話、今はあまり売れていないが」
冷静に、姉さんはまあまあ残酷な説明をする。
だが確かに、俺は「グラジオラス」というアイドルの名前を聞いたことが無い。
アイドルにそこまで興味のない俺が知らないのはまあともかく、実際に仕事で関わっている姉さんがこうも断言する以上、本当に売れていないのだろうと分かるだけだ。
恐らく「グラジオラス」は、知る人ぞ知るというレベルですらなく、限りなく無名に近いグループなのだろう。
それよりも今の言葉には、少し気になることがあった。
「……五人?」
「ああ、そうだ。……どうかしたか?」
「いや、今日俺が見たメンバーの数は、四人だったように見えたからさ」
まさか、あのトレーナー風の年嵩の女性が五人目のメンバーなのか、なんて考える。
もしこの考えが当たっていれば、中々ユニークな構成のアイドルグループだが────返ってきたのはもっと常識的な答えだった。
「それは単純に、レッスンを休んでいた子がいたんだろう。全員の予定が合う訳でも無いから、そういうこともある」
「あ、それもそうか」
「ただ、『グラジオラス』の場合は、ちょっと事情が特殊だからな。ダンスレッスンで休みとなると……休んでいたのは、多分、茜だろう」
お前と同じ高校一年生の子なんだがな、と言葉が付け加えられる。
それを聞いて、また新しい名前が出てきたな、と思った。
そこまで興味があったわけではないが、何となく聞き返す。
「何で、休みがその人だと分かるんだ?その人、滅茶苦茶ダンスが下手で、別の練習場で練習しているとか?」
「いや、逆だ。茜は──天沢茜という名前なんだが──新人アイドルとは思えないくらいダンスが上手い子だ。それこそ、今すぐダンサーに転向してもやっていけるだろう」
「へえ……」
それは凄いな、とシンプルに驚く。
売れていないグループだというから、アイドルとしての技量がまだ無いメンバーたちの姿を想像していたのだが、どうやらそう言う訳でも無いらしい。
姉さんは基本、過剰に人を褒めたりお世辞を言ったりするタイプでは無い。
その彼女が上手いと褒めた以上、本当にその天沢茜という人は物凄くダンスが上手いのだろう。
「じゃあ、何で休みに?」
「本人もダンスが好きらしくてな。少し前から、オーバートレーニング気味の状態になっているんだ。しかも本人の自覚が薄くて、未だにちょっと時間があると勝手に自主練してしまうというか……だから、怪我を防ぐためにも練習量を意図的に抑えている。以前も、怪我をしたことがあったしな」
──オーバートレーニングって、確か練習のし過ぎで体を壊すような状態だったよな……凄い熱意だな、その人。
事情を聞いて、俺は何時間か振りに呆れと感嘆が混じった感情を抱く。
その天沢茜という人のダンスには、他の四人とは区別しなくてはならないくらいの熱意と技量があるようだ。
そのせいでオーバートレーニングになっているのだから、手放しには褒められることではないのだが、それでも次元の違うレベルのやる気があること自体は疑いようが無いだろう。
こうやって話を聞くと、その人のダンスも見てみたかった気分になるから不思議である。
「……じゃあ、他のメンバーは、ダンスはそこまで出来ない感じ?」
「茜レベルは無理だろうな。勿論、各々他の特長があるが。例えば、菜月は歌が上手い」
「ふーん……」
そう言えば、あの長澤菜月というアイドルは凄く綺麗な声をしていたな、と今更ながら思い出す。
しかし具体的にどんな声だったか思い返す前に、食事を終えた姉さんがカシャン、と食器をまとめ始めたために、俺の思考はそこで中断された。
「……まあそんな風に、それぞれ才能がある子の集まりだ。彼女たちが満足できる練習をするためにも、バイト、頑張ってくれ」
「ああ、分かってるよ」
アイドルたちがどれほど努力しているかは、今日のダンスレッスンだけでもよく見ている。
顔色が紫になるほど、必死に踊り続ける彼女たちの姿。
あれを見た以上は、掃除を適当にやっとこう、とは中々思えなかった。
姉さんも俺の心情を察してくれたのか、一つ頷いて立ち上がり、すぐに食器を洗い場に持って行こうとする。
だが歩き出そうとしたその瞬間、何か言い忘れがあったことに気が付いたらしい。
姉さんは動きに急ブレーキをかけ、付け足すようにこう言った。
「……ああ、それと一つ。もし、掃除中にアイドルたちの忘れ物を見つけたら、すぐに事務に報告してくれ。特に、タブレットの類は即刻だ……良いか?」
「……それ、重要なのか?」
昼間にロッカーで見たタブレット端末を回想しながら、そう聞き返す。
ああいう物が置き去られていた場合の注意事項らしかったが、こうも言い含める程なのか。
すると姉さんは、「勿論重要だ」と言い切った。
「まだ聞いていなかったかもしれないが、ウチのアイドルたちには業務連絡などのために、一人一人にタブレット端末の類を渡している。まあ、今時珍しい話でもないが」
「いや、十分豪勢な話だと思うけど」
「……重要なのは、そのタブレットには新曲や未公開情報のデータも入っているということだ。だからこそ、管理も厳重にせざるを得ない」
話を聞いて、ああ、と納得する。
聞いてみれば、当たり前の事情だった。
「……要は、情報漏洩を防ぎたい、と?」
「その通り。事務所内では『タブレットをどこかに置き忘れていくようなアイドルがいたら、呼び出してみっちり説教』なんてルールがあるくらいだからな。例えばグラジオラスのメンバーが置き忘れをしたら、私が二時間は説教だ」
そう聞いて、うへえ、と慄いてしまった。
怒った姉さんの怖さを知っている弟としては、その説教の苛烈さが容易に想像出来てしまう。
無論、この時代に情報端末をどこかに置き忘れてしまうことが大きなリスクとなることも、理解は出来る。
しかし姉さんの説教を知っているせいで、俺の中では叱られる側の不憫さの方が印象として勝った。
──もし、バイト中に忘れ物を見つけたら……姉さんには報告せずに、アイドルの子たちに直接返した方が良いかもな。ルール的には駄目なんだろうけど、あれだけ練習してさらに怒られるって言うのも、何か可哀想な気もするし。
だからなのだろうか。
会話の最後に、俺はそんなことを考えた。