幽霊と出会う時
「大体、そういう経緯だったと思う……何か質問は?」
微かな後ろめたさも抱えつつ、俺は鏡相手にそんなことを言う。
白々しくならないように、出来る限りの注意をしながら。
俺のそんな努力を察している訳では無いだろうが、鏡は少し難しい顔をしているようだった。
ちょっとだけ納得がいっていない、とでも言うような。
その不満が零れ落ちたように、小さく彼女は口を開く。
そして、こんなことを言った。
「……もし真相がそうだったなら、何で桜さんは、手を洗わなかったんだろう。せっかくのトイレ休憩なのに」
──不味い……気づいたか?
一瞬、背筋がヒヤリとする。
なまじ彼女の疑問が正鵠を射ているだけに、危機感が煽られた。
実際、鏡がこの推理に納得がいっていないのは──変な言い方になるが──実に正しい感覚だ。
さっき俺が語った推理というのは、実のところ欠陥品である。
当然と言えば当然だろう。
真実の内の重要な部分を隠し、適当に一部を捏造して述べたのだから。
不満が生まれるのも当たり前である。
しかし、予想に反して彼女はそれ以降のことは言ってこなかった。
少なくとも、何か不満を告げるようなことは。
それは多分、鏡としても俺に引け目があったのだろう。
自分の方からわざわざ呼びつけて推理を頼んだ、ということに。
この辺りには、彼女の性格が出ている気がする。
だからだろう。
彼女は最終的には、細かい不満を押しつぶすようにしてこちらに笑顔を向けた。
「……ありがとう、松原君!すっごい面白かった」
「そりゃあどうも……」
「撮影が終わったら、桜さんにも聞いてみよっかなー。そうしたら、答え合わせも出来るかもしれないし。……本当にありがとう、松原君。松原君のお陰で、スッキリできた!」
そんなことを言って、彼女はうんうんと頷いた。
それを見て、俺は大人だなと思う。
どうも彼女は、この歳で「おべっか」という物を覚えているらしい。
アイドルという職業は、そんなことまで必要とされるのだろうか。
それを考えると、どうも俺は物悲しい気分になった。
自分がそれを言わせてしまっているという自覚がある分、猶更。
しかしそれを押し殺して、俺は一つだけ注意点を付け足しておく。
「どういたしまして……まあただ、この話を人に触れ回るようなことはするなよ?一応、撮影上のトラブルの話なんだし」
ある意味ここは、今回の推理の一番重要な点だった。
キチンと言い含めておかなくてはならない。
酒井さんの心得にも当てはまることなのだから。
「まさか、言わないって!いくら私が噂好きでも、身内の噂を触れ回る程じゃないしー」
俺の言葉を受けた鏡は、そう言ってにへらっと笑った。
「じゃあ、これで推理は終わりかー……あれ、そう言えば松原君、帰りどうするの?」
「帰り?」
「うん。だってほら、松原君、自転車でここに来ちゃったじゃん?だけど今、雨降ってるし」
ああなるほど、と発言の意図を察した俺は頷く。
確かに自転車で来た以上、俺が帰りに困るのは必然だった。
自転車の存在が枷になるのは勿論、まだ晴れている時に来てしまったので、こう言う時に必要な物が揃っていない。
「そう言えば、傘もレインコートも持ってきてないな……」
「あちゃー……折り畳み傘とかも、無し?」
「ああ、本当に雨の事とかは気にしていなかったし。そもそも折り畳み傘は持ってないし」
そう告げると、微かに鏡が申し訳なさそうな顔をした。
彼女の申し出を引き受けた結果、俺が帰りにくい状況になったことを気にしているのかもしれない。
「んー、でもスタッフさんはまだ仕事中で忙しいし……このためにわざわざ傘を買うのも勿体ないだろうし……」
そんな思いが作用してか、頼んでもいないのに鏡は俺の目の前で何やらブツブツと考え始める。
何かしら世話を焼きたいと思ったのか。
その気持ちは少し嬉しかったが、彼女の手を借りることでもないので、俺は一つ提案をする。
「そう心配しなくても、俺は普通に雨が止むまで待つよ……見た感じ、ちょっと雨も弱まってきているみたいだし」
そう言いながら、俺は教室の窓を見つめた。
この発言は苦し紛れの嘘では無い。
現実に窓からうかがえる雨の勢いは、いつの間にか随分と弱々しくなっている。
恐らくもう一時間もしない内に、雨は止むのではないだろうか。
ある種のにわか雨というか、小規模な降水だったらしい。
俺はこの手の天気の変化に詳しくは無いのだが──従兄弟がこういうのに詳しかったが、俺は彼ほど勘が鋭くない──恐らくこの推測は間違いない。
雲の色も随分と薄くなって太陽の光がわずかにさしているくらいなのだから、誰でも出来る判断だろう。
「……それに自転車のことを考えると、多少無理をしてでも待った方が良いしな」
「自転車?」
「ああ。だってほら、ここ、女子高だし。仮に自転車を置いて徒歩で家に帰ったら、女子高の真ん中に俺の自転車が置きっ放しになるだろ?」
「あっ、そっか。確かにそれは、ちょっと取りに行きづらいかも。松原君、男だから」
もう一つ理由を挙げてみると、こちらは具体性があった分理解されやすかったらしく、鏡が納得した顔をする。
何となく、自転車を取りに行く際に発生するであろう気まずさが分かってくれたのだろうか。
「そういう訳だから、俺はもうちょっとここで雨宿りさせてもらう……鏡はまあ、普通に俺に構わずに帰っていいだろう。撮影の方も、もう終わったんだから」
話をまとめるように、俺はそんなことを言う。
そして会話を打ち切るべく、最後にこんな頼み事をした。
「ただ、鏡。報酬代わりと言っては何だが……」
そう前置きしてから、俺はあることを彼女に頼む。
俺が頭を下げる様子を、鏡は不思議そうに見つめていた────。
そして、多少その場でうだうだしていた──一人で帰るのも少し忍びなかったらしい──鏡が帰ってから、約三十分間。
俺は誰もいない控室に居座り、ボーッとしていた。
考えることといえば、ぼんやりとした思考。
それは例えば自転車の件は良い言い訳になったな、という回想だったり。
或いは鏡に聞かせる話でも無いしな、という再確認だったりした。
ああ、それと。
もう少し雨が降っていてほしい、という願望も抱いていたかもしれない。
何故、そんなことを願ったかと言うと。
それは多分、鏡のために、なのだろう。
尤も鏡の方は、俺がそんなことを願っているとは露ほども知らないだろうが。
──それでも、もうちょっと降った方が良いよな。チョークの粉が洗い流されるまで……。
暇に任せて、俺はそんなことを考える。
すると、その瞬間。
ガラリ、と教室の扉が開いた。
それにつられて、俺はようやくそちらを見つめる。
見る前から正体の分かっている人影を、確かめるために。
「……あれ、貴方は……」
「初めまして、ですかね……酒井桜さん」
人影に対して、ペコリと頭を下げた。
今までに何度も会っているが、もしかすると向こうは俺のことを殆ど忘れているかもしれないので、とりあえずそう言っておく。
ただのバイトのことなど、覚えていなくてもおかしくはないだろう。
だが実際のところ、ここまでの気遣いは流石に不要だったらしい。
彼女は俺の顔を見た瞬間、記憶を検索するようにパチパチと瞳を開閉させた。
「貴方は確か、松原プロデューサー補の弟さんの……ええと、玲君?奏が前に、推理力が凄いとか何とか話してた……」
──おお、意外と細かいところまで伝わっている。
何となく意外に思いながら、俺は「それです、ちょっと前に彼女たちと知り合って……」と補足説明を入れていく。
どうやら前回の一件以降、鏡はあの場に居なかったメンバーに対しても俺のことを話していたらしい。
既にグラジオラスメンバーの中では、俺に関する情報は共有されているということか。
「因みに、酒井さん……撮影、終わったんですか?」
軽く自己紹介をしたところで、俺はそう問いかける。
かなり唐突な質問だったが、すぐに返答が来た。
「ええ、もう終わった。外で撮れる分と、あと校舎の入口の部分を写した撮影が今終わって、お昼休憩に入ったところ。雨のせいで、昼食も摂らずにぶっ続けでしていたから」
話を聞いて納得する。
雨が降り始めてからそれなりの時間が経つのに、やけに人が帰ってこないなと思っていたのだが、まだ残りの撮影があったらしい。
集中力が続くうちに一気に撮ろう、という流れになっていたのか。
「……それで、貴方が何故ここに?何か、用事で呼ばれたの?」
何となくの現状確認を終わってから、酒井桜はふとそんなことを聞く。
今更ながら疑問に思ったらしい。
まあ、当然だろう。
今まで撮影に尽力していた彼女としては、何故俺がここに居るのかすらよく分かっていないはずだ。
だから、素早く説明に移る。
「ちょっと、鏡に呼ばれたんです。それで、相談を受けたというか」
「相談?」
「ええ、撮影の最中にちょっと不思議なことが起きたということで……酒井さんにも、関係があることです」
話し方については少し迷ったが、相手が年上でもあるので敬語で通すことにする。
結果として割と格式張った態度になったが、これは仕方がない。
俺は相手の返事も聞かずに話を続けた。
「鏡が言うには、撮影中に心霊写真が撮れてしまったということで……この写真なんですけど」
そう言って、俺は手元のスマートフォンをポチポチやる。
先程、鏡との別れ際にした頼み事。
すなわち、「例の心霊写真を俺のスマートフォンに送ってくれないか」という依頼。
快く、鏡は俺にその写真を送ってくれた。
所詮はボツになった写真ということもあってか、外部に漏らしてはならない、みたいな規定は無かったらしい。
だからこそ俺はそれを画面上に映し出し、彼女に提示する。
「これです。貴女を撮った写真の一つ……覚えてますか?」
「ええ、奏が幽霊だとか何とか騒いでいた……」
酒井さんはすぐに「そういえば」とでも言いたげな顔をする。
どうやら、覚えがあるようだった。
鏡が騒いでいたのが効いたのか、或いは別の理由か。
何にせよ、話がスムーズに進んだのは良かった。
細かい説明をしなくても済む。
「これのことを、鏡は『幽霊の手形』と言っていましたがね……これの正体が何なのか調べるために、俺はここに呼ばれたんです」
「調べる?……正体が何かってこと?」
「まあ、そんな感じです。推理してみてほしい、との話でした」
「……貴方、いつも人に呼び出されてそんなことをしているの?」
いよいよ理解出来ないという感じの顔で、酒井さんがそんなことを言う。
言われてみればそれは確かにと思い、俺は苦笑を返した。
基本、俺は普通の高校生のはずなのだが。
一体どうしてこんな謎解きまでしているのだろうか、本当に。
「その辺りの事情は全て、姉さんの策略だという結論になりそうですが……それはそれとして、実はこの件について酒井さんに少し言いたいことがあるんです。だから、不躾ながらここで待っていました」
「言いたいこと?」
「はい。実は俺たち、さっきまでこの写真について詳しく調べていて……その正体を突き止めたんです。だから、酒井さんにもそれを話しておこうと思って」
軽く、そう告げた瞬間────。
酒井さんの肩が、微かに震えた。
彼女の美麗な顔にも、明らかな波紋が作られる。
彼女に相対していたからこそはっきりわかったものの、実際にはかなり微細な変化でもあった。
普通なら、見逃してしまうくらいの小さな波紋。
細かすぎて、表情を形容する上手い例えも出てこない。
それでも無理に説明するなら。
怖がっている、というのが一番近いだろうか。
──怖がらせるために言いに来たんじゃない。さっさと、結論の方を言って置くか。
そう思って、俺はすぐに言葉を足す。
「大丈夫ですよ、酒井さん。……本当に『幽霊の手形』を作ってしまったのは鏡であることも、貴女がそれに気が付いていながら気が付いていない振りをしてあげたことも、鏡には言っていませんから」
……先に、弁明しておく。
この発言は、決して酒井さんを怖がらせるための物では無かった。
ただ、安心させるための物だった。
しかし、残念ながら逆効果だったらしい。
俺がそれを告げた瞬間、酒井さんの表情は目に見えて凍りついた。
それこそ────幽霊にでも出会ったかのように。