木から板へと移る時
窓の一画に存在した扉を開け、ずい、とベランダに出て行く。
途端に雨が降り始めた時に特有の、あの湿った空気と臭いが俺の肌を打った。
横風に煽られたのか、水滴が幾つか額にぶつかる。
どうやら雨の勢いは強くなってきているらしい。
まだ梅雨入りはしていないのだが、この様子だとそろそろかもしれなかった。
月野羽衣のライブ前日に降った雨以降は晴れが続いていたのだが、これからは注意しておかなければならないらしい。
──雨の様子自体はどうでもよくて、重要なのは木だけど……。
俺は可能な限り濡れないようには努力しつつ、ベランダから様子を伺えるその木を視界に入れる。
最初にやることとして、素早くスマートフォンを取り出した。
一先ず、この木の名前を知りたかったのである。
「確か、前にアプリで入れたことがあったはず……植物図鑑の奴」
ブツブツそう言いながら、画面を弄ること数分。
ようやく俺はお目当てのアプリを起動させた。
起動したのは、植物をカメラで映すだけでその名前を教えてくれるというアプリだ。
葉っぱやら花の画像を映すだけで、すぐに「セイヨウタンポポです」とか「ソメイヨシノです」とか言う風に鑑定してくれる優れ物である。
精度自体はそこまで高くないらしいが、日常的に見る草花の類であればそうそう間違えないという評判だった。
かなり前だが、俺も興味本位でこのアプリを使ったことがあった。
その時は何度か使用しただけで飽きてしまったのだが────変なところで、これが役に立ちそうである。
「……葉っぱをカメラで映して決定、だったか?」
そう言いつつ、俺は記憶を頼りにアプリを操作する。
目の前のある大木、そして枝から生えている変な形の葉っぱ──広げたTシャツみたいな形だった──をカメラで捉え、決定。
ちゃんと分かるかなという不安はあったが、結果から言えば杞憂だった。
すぐに、画面の中央に植物名が映し出される。
見つめてみると、そこには大きく「ユリノキ」と書かれてあった。
「ユリノキ……百合の木?え、百合なのか、この木?百合って、こんなに大きかったっけ?」
まさかと思い、俺は何度か画面をタップする。
混乱のあまり、普通に「ユリノキ」と打ち込んで検索までした。
「……あ、なんだ。『ユリノキ』って名前の木があるのか。北アメリカ原産だが、日本でもよくみられる落葉高木……間違いないな」
植物について明るくないせいで、妙な誤解をしてしまった。
そのことを何となく恥ずかしく思いつつ、俺は検索を続け────。
「……何してるの?」
「うおうっ!?」
そこで突然に俺の右肩に誰かの手が乗せられたものだから、再び驚いてしまった。
例の「予測できないビックリが怖い」という性格が前面に出てしまう。
恐怖を解消すべく慌てて声の方向を振り返ると、そこにあるのは最早見慣れた感じすらある鏡の顔だった。
控室で待っているのも暇なので、濡れるのも厭わずにこちらに来たらしい。
俺の動きを避けるようにして姿勢を正した彼女は、不思議そうな顔で問いかけてくる。
「ユリノキって、この木のこと?……この木を調べて、どうする感じ?」
「いや……それは、まあ」
驚いたのと距離が近いのとで、変に動揺してしまった。
辛うじて呼吸を整え、俺は自分の考えを説明する。
「もしかして何だけど……今回の一件、噂話も心霊写真も、この木の性質に関連しているんじゃないかな、と思って。だから調べているんだ」
「性質?」
キョトンとした顔で鏡がこちらを見たことが分かった。
それに頷きを返しつつ、俺は説明してみる。
「『幽霊の手形』について、どういう経緯で付着したかは分からないけど粉状の汚れかもしれない、みたいなことを言っただろう?そして撮影現場から少し離れているとは言え、この学校にはこんな大きな木がある。だったら……関連があるんじゃないか、と思って」
「関連?……この木がその汚れの元ってこと?」
「そういうことだ」
一つ頷いてから、俺はさらりと仮説を述べる。
「話としては単純だ。これが木だって言うのなら……時期によっては出すだろ?花粉を」
あっ、と鏡が声を漏らしたのが分かった。
そして、やや興奮した様子で話を続けてくる。
「つまり……あの『幽霊の手形』の正体は、何かの拍子に風で飛んできた花粉の塊だったかもしれないってこと?空中から飛んできたから、突然汚れてしまった、みたいな?」
「そうだ。花粉くらい軽い物なら、服を脱ぐ過程ですぐに剥がれ落ちたとしてもそう不思議じゃない……だから果たしてそんなことが有り得るか、調べておこうと思って」
そう言いながら、もう一度俺は画面を見た。
今言った俺の考え──今までの仮説に倣い、「花粉説」とでも呼んでおこう──はかなり無理矢理ながら、一応は筋が通っている。
このユリノキが今の時期に滅茶苦茶な量の花粉を出すなら、有り得なくもない話だ。
酒井さんの服にだけ汚れが付いていたのだって、風の流れがそうだったと言えば一応説明可能だろう。
果たしてあんなにピンポイントに付着するのか、という疑問はこの際無視する。
後は、本当にこの木がそんな性質を持つのか。
その点を調べるためにも、「ユリノキ」について検索する必要があったのである。
別に花粉でなくたっていい。
春先には皮が剥がれて凄く粉をふくとか、そんな特徴があれば今の推理は成立するのだ。
故にタッタッタ、と俺は手早く調べてみる。
……しかし当然というか、何というか。
すぐに俺は、落胆した声を漏らすことになった。
「ダメだな……少なくともネットで見る限りでは、花粉が滅茶苦茶出るとか、そういう情報は無い」
「あれ、そうなの?」
「ああ。強いて言えば開花時期が五月から六月らしいから、丁度今頃に花が咲くらしいが……まだ咲いていないよな、見るからに」
「確かに……」
そう言いながら、俺と鏡は眼前にまで伸びてきている枝を見つめた。
ネット情報だが、ユリノキの花というのはあまり目立たない物らしい。
しかしそれでも開花したのなら、枝先や葉の間にちゃんと花が見えるそうだ。
だがこんな近くに来てまで観察しているというに、目の前のユリノキの枝には葉っぱしかなかった。
ベランダに備え付けられていた手すりに両手を預け、目一杯体を乗り出して木の隅々まで観察しても、花は存在しないようである。
全ての枝を観察した訳では無いが、他の枝も見える限りは同じ様子だった。
この状態で「写真に写りこむ程の花粉が空から飛んできた」は流石に無理があるだろう。
必然的に、花粉説は有り得ないという結論にならざるを得ないようだった。
この木を見た時には説明がつくかもと思ったのだが、無理筋だったらしい。
そのことが少し悔しく、俺はみっともなくぼやいてしまう。
「惜しいな……もし花粉説が正しかったら、噂話の方も一緒に謎が解けたんだけど」
「え、そうなの?そんなに全てを説明できるの、花粉って?」
もう一度驚いたようにして、鏡がこちらを見た。
それを見て、俺は考えたことを全て明かすことにした。
仮説が崩れた今となっては、解説しても大した意味は無いのだが。
「全て説明できるって程じゃないが、花粉を軸に考えればそれっぽい話は思いつくんだ。だって仮にこの木から花粉がそんなに飛び散るのなら……当然、この教室にも花粉は飛んでくることになるだろう?」
「確かに……位置的に、そうなるかな。窓を開ける時だってあるだろうし」
「だったら、噂話の中にあった『この木に近寄ると病気になる』とかいうのは説明がつく。そんなに花粉が飛び散っている場所なら、どうしても発症してしまうものなんだし」
「花粉が飛び散っているなら、なってしまう病気……」
一度口の中で確認してから、鏡はそれって、と声に出した。
「……つまり松原君は、この木に近寄ると病気になるっていうのは、花粉症のことじゃないかって考えたんだ?それなら、説明が出来ると思って」
「その通り。この木はスギとかじゃ無いけど、花粉の発生源と近ければ一定数は発症する病気だろうし……それで生徒が咳き込んだり休んだりする様子を見ていたなら、変な噂が生まれてもおかしくはない。まあ花粉説が崩れた以上、この仮説も捨てないといけないんだけど」
そう言って、俺は苦笑いを浮かべる。
思いついた瞬間は意外といけるのではないかと思ったこの仮説なのだが、実際に調べた今となっては「捕らぬ狸の皮算用」となってしまった。
二つの謎を関連付けて考えるというのは我ながら面白い考えだった気もするのだが、こう行き詰っては仕方が無い。
どうやら「幽霊の手形」の正体も、この木に関する噂の真相も、もっと別の視点で考えなければならないようである。
──一つの謎解きで二つの謎を解こうっていうのは、虫が良すぎたか。
花粉説にやや執着を残しながらも、俺は未だに手すりを握っていた両手を離して室内に戻ろうとした。
これ以上調べたところで大した収穫はなさそうだったし、何より雨の勢いが強くなってきたのだ。
このままでは風邪をひいてしまう。
手も雨で汚れちゃったな、と考えながら、俺は無意識に両手を見つめる。
感触だけでも既に分かっていたが、そこには水滴やら手すりの汚れやらが付着した両掌があり、思わずうんざりとした気分に────なる前に、俺は自分の掌に視線が吸い寄せられた。
そして思わず、声を出す。
「これ……『幽霊の手形』?」
無意識下で発する声にしては、少々芝居がかった発言だった。
しかし、仕方が無いだろう。
それと似たような物を、先程まで散々見ていたのだから。
この時の俺の視界に映った物について、簡単に説明するならば。
それは掌全体に細かくまぶされた、白い粉状の物質だった。
掌の真ん中を中心として、小麦粉でも振りかけられたように掌全体が粉っぽくなっている。
多少の濃淡はあれど、その粉は掌全体に広がっていた。
雨のせいで多少は流れた部分や解けて消えた部分もあったが、それだけでは消えてしまわない程度には付着している。
──だけど、いつの間にこんなものが手に……。
一瞬、疑問に思う。
しかし、その疑問はすぐに解決した。
俺はさっき、このユリノキの様子を見るために手すりを握り締めた。
それ以外の物は特に触ってはいない。
必然的に、この粉は手すりを介して付着した物ということになる。
そうでなければ説明がつかない。
そこまで考えて、俺はすぐに視線を下に下げた。
先程まで木の方ばかりに注目していたため、このベランダそのものの様子は観察していなかった。
手すりだってそこにあるから掴んでいただけで、凝視してなどいない。
だが、一旦よく見てみると────。
「……この手すり、結構汚れているな」
「え?……あ、本当だ」
色々と考えていた俺を興味深そうに眺めていた鏡が、言葉に釣られて手すりを見つめる。
そして、これまた意図せずという感じで声を漏らした。
「何か、全体的に汚れてる……?上から粉を撒かれたみたい」
捻りのない表現だったが、同時に的確な言葉だった。
実際、ここの手すりは鏡の言葉のままの状況になっている。
手すり本体が黒色をしているので、その汚れはよく目立っていた。
満遍なく、俺の掌についているのと同質の粉が撒かれている。
夜空に浮かぶ星のようと言えば綺麗過ぎる例えだが、黒い手すりが白い粉をふいている様子は、その例えで間違いがない。
もしかすると塗装が剥げ落ちてそう見えているのかと思って、軽く綺麗な方の指でなぞってみたのだが、ちゃんとその部分だけ粉が拭い取れた。
やはり塗装の剥げではなく、何かの粉が上から撒かれているようだった。
「何なんだ、これ……?塗装は黒色なんだから、手すり自体から生まれた汚れってわけじゃないだろうし……いやそもそも、この粉はどういう物質なんだ?」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いてみる。
何から何まで不思議で、俺はじっとその手すりや自分の手を見つめた。
花粉説は先程消えたばかりだし、これの正体は一体────。
「うーん、見た感じの印象は……チョークの粉とか?」
そこで不意に、鏡が面白いことを言った。
俺はすぐにそちらを見つめ、真剣に問いかける。
「チョーク?」
「うん。だってほら、ここ学校なんだし、そこにも黒板があるんだから。ギリギリ有り得なくもないかなー、と思って」
そう言いながら、鏡は教室内部を指さした。
未だに無人のその控え室は、机と椅子、そして黒板だけが存在している。
黒板の下の方には、いくつかのチョークも置かれてあった。
鏡が示しているのは、あのチョークたちのようだ。
「でも仮にチョークの粉だったとしても、何でこんなところにあるのかは不思議だよね……場所的に離れすぎてるし、そもそも心霊写真とどう関係があるのかも分かんないし……」
そう言って、彼女は肩をすくめる。
自分でも、やや突飛な話だと思ったのだろうか。
しかし、彼女のその様子の対極を行くようにして。
俺は自分の頭の中で何かが閃いたことを知覚した。
──チョークの粉、チョークの粉……黒板、か。そう言えば、あの教室……。
それを閃いた瞬間、俺は教室の調査を決意した。
ただしその目的は、何かがあることを確認するためにではない。
そこに何も無いことを確認するために、だった。