システムに触れる時
──何か、色々貼ってあるな。イベントでもしてたのか……?
俺の視線が向かったのは、漫画コーナーのすぐ隣にある空きスペースだ。
普段は自動販売機が立ち並び、買った本をすぐに読むことも出来る休憩所として利用されている場所なのだが、同時にここはサイン会などのイベントの舞台にもなる。
その場所が、何やらざわついていたのだ。
入店してすぐに気が付かなかったことから分かる通り、イベント真っ最中と言える程のざわつきではない。
寧ろイベントは既に終わったらしく、店員が何名か集まって段ボール箱を運んでいた。
その様子がちょっと目について、気になったというだけである。
──でも、何のイベントだったんだろう?知っている作家のサイン会とかだったなら、ちょっと惜しいことした感じもあるけど。
少しだけ気になって、俺はきょろきょろとイベントの看板が置かれているであろう場所を探す。
実際のところ、サイン会の整理券は当の昔に配り終わっているだろうから惜しくも何ともないのだが、野次馬根性がここでは強く出た。
妙に熱心に俺は看板を探し、やがてこれか、という物を見つける。
『アイドルが選ぶこの一冊フェア 百冊キャンペーン共同企画・E&Pサイン会』
──E&P……?
何のことだか分からず、俺はきょとんした顔を浮かべる。
一瞬、そんな作家居たっけ、とすら思ってしまった。
サイン会という文字列から、キャンペーンの対象となる本の著者がここに来たのかと誤解したのである。
無論、その勘違いはすぐに脳内で訂正されることになった。
このキャンペーンの対象となっている百冊はどれも古い作品であり、その作者たちは当然、大昔に亡くなっている。
いくら何でも、死人がサイン会を開くことは出来ないだろう。
つまり、このE&Pと言うのは────。
──表紙を飾っているアイドル、もしくはそのグループの名前ってことか。便乗って言ったら言葉は悪いけど、キャンペーンの一環でサイン会してたんだな、書店で……。
商魂たくましいと言うべきか、出版社と芸能事務所におけるwin-winの関係というべきか。
何にせよ、このキャンペーンはただ古い名作を売るだけでなく、本好きに対してアイドルの名を売るための活動も同時にやっていく方針らしい。
目の前のイベントスペースが未だに雑然としているところを見ると、少し前までそのアイドルがここに居たのだろうか。
──しっかし俺、何かとアイドルに縁があるな……ボヌールのバイトが休みなのに、別のアイドルのイベント場所に来ちゃったよ。
何となくおかしな気分になって、俺はそこで少し笑う。
縁があるというより、ここのところ一般人よりもアイドルとよく会う生活が続いたので、アイドルの存在に過敏になっているのかもしれない。
ちょっとしたアイドルの痕跡でも、変に気になるというか。
──まあでも、もう終わったアイドルのイベントについて考える必要は無いか。そもそもE&Pって名前のアイドルグループ、聞いたこと無いし……。
大体の事情を察したところで、俺はそう思考を切り返る。
ここでアイドル云々について考えていると、ボヌールに居る時のように「日常の謎」に巻き込まれそうだ。
折角の休みなのだし、もっとちゃんと休みたい。
そう考えた俺は、今度こそ視線を書店の奥に向けて、興味のある本がありそうな位置を確認する。
前来た時と変わって無いよな、と頷いて────。
「……あれ、松原君じゃないですか?」
────そこで不意に声が投げかけられて、俺は反射的に首を回すことになった。
とかく、スムーズに本選びが出来ない日である。
この一帯から移動しようとする度に、何か起きているような。
内心でちょっと愚痴を呟きながら、俺は声の主を見つめる。
そして若い男性だった相手の姿を見た瞬間、俺は「あっ」となった。
思い出すことがあったのである。
「森本さん……?あ、ええと、お久しぶりです」
「いえいえ、こちらこそ。来店ありがとうございます、お客様」
変にかしこまった言い方で、彼は挨拶をしてくる。
たかが半年なのだから当たり前だが、その様子には────書店員のようなエプロンを身に着けて仕事に励む様子には変わりが無かった。
ようなも何も、実際にここの店員なのだから当たり前だが。
──ここに来るのが半年ぶりだから、この人に会うのも半年ぶりか……よく覚えていたな、森本さん。
そんなことを思いながら、俺は一応頭を下げる。
彼の名前は、森本聖也。
状況から分かる通り、ここで働く書店員だ。
そして同時に、俺としてはそれなりに長く仲良くさせてもらっている相手でもある。
この書店に何度も通ううちに自然と仲良くなったのだが、新刊の入荷予定を教えてもらったり、欲しい本を取り置いてもらったり──本当は駄目らしいのだが、特別にやってくれた──と何かに世話になっていたのだ。
「しかし、本当に久しぶりですね。高校生になると本なんて読まないのかな、とかちょっと話題にしてたんですよ」
運んでいたらしい段ボールを抱えながら、周囲の客を気にしてか、ヒソヒソ話の音量で森本さんは話しかけてくる。
そんな話をしてたのか、と俺は軽く呆れつつ、同じくらいの音量で返答をした。
「いや、バイトとかで忙しくなっちゃって……本自体は好きですよ、今でも」
「それは良かった……また、贔屓にしてくださいね」
そんなことを言いながら、彼は懐かしいなあ、とでも言いたげな顔でこちらを見る。
そして、雑談の雰囲気で話を続けた。
「半年くらい前、最後に松原君が来た時は、どんな本を買いに来てくれましたっけ……何か、頼まれた記憶がうっすらあるんですけど」
「あー……あれじゃないですか、『高瀬舟』。ここに探しに来たんじゃなかったでしたっけ」
そう言いながら、俺は当時の出来事を思い出す。
半年前、つまり俺が高校生になる直前の話だ。
教養が身に付く本を読もうかな、なんて向上心のあることを考えて、俺はここに「高瀬舟」という小説本を探しに来たことがあった。
葉兄ちゃんから、「古い小説だが、今読んでも考えさせられる」と勧められたからだったと思う。
著作権が既に切れている古典なので、ネットでも読もうと思えば読めるのだが、俺は現代っ子の割に昔からの習慣のせいで電子書籍にどうも慣れていない。
結果、紙の本を求めてここに来た、という流れだ。
その際、店内を探しても見つからなかったので、森本さんに位置を尋ねたのだろう。
普通なら店内の検索システムを使うのだけど、検索システムで古典の名作を検索してしまうと、その話を収録した全ての書籍が表示されてしまって地味に調べにくい。
だから、偶々出会った森本さんに頼んだのだったか。
……何でこんなに細かく覚えているかというと、この話にはオチがあって、結局は森本さんに探してもらっても見つからなかった、という結末を迎えたからである。
何でも銀砂書店の近くにある中学校に置いて、その本が読書感想文の課題図書になっていたらしく、珍しく全て買われていたのだ。
哀れ、俺の突発的な向上心は彼らの春休みの宿題の前に消え去ったのである。
「結局、他の本屋で探すのも面倒くさくなって、読みませんでしたしねえ……アレ」
「それはまた残念……では今日は、また別の本をお求めですか?」
相槌を打ちながら、彼はつい、と俺の居る特設コーナーに視線をやった。
今の俺がどんな本に興味があるのか、話題の種にでもしようとしたのだろう。
結果として彼は、意外そうな顔で感想を漏らすこととなった。
「……もしかして松原君、アイドルとかも好きなんですか?さっきからずっとそこに居ますけど」
「え?あ……いや、これは」
思わぬ指摘を喰らって、俺はつい狼狽える。
さっきまでの振る舞いについて、言われてみたら周囲からはそう見えそうだな、ということに今更ながら気が付いたのだ。
何せ俺は入店以降ずっと、アイドルが表紙の本を大量に置いているコーナーの前に居座り、そのまま全く動いていないのである。
森本さんの目には、俺がどのアイドルが表紙になっている本を買うか迷っているように見えたのかもしれない。
これで誤解されるというのもアレなので、俺は慌てて手を振った。
「別に、そういう訳じゃなくて……つい、気になったというか」
「あれ、じゃあ興味はない感じですか?」
「それは……」
アイドルに全く興味が無いというとそれはそれで嘘になるので、つい言葉に詰まってしまう。
興味が無いどころか、毎日のように会っている立場だ。
グラジオラスと凛音さん以外のアイドルには詳しくないが、関わっている以上、興味が無いとは言えないだろう。
「まあ、そこそこには……」
自然、俺の解答はそんなところに収まる。
しかし、それが不味かった。
どうにもこの歯切れの悪さを、森本さんは「本当はファンだけど、大声で肯定しづらいので控えめに申告している」という風に解釈したらしい。
本気のファン特有の、引っ込み思案が発動しているのだと。
そのせいか彼は突然、「そんなに気を遣わなくてもいいのに」とでも言いたげな嫌に優しい顔を浮かべ、更にコソコソと話を繋げた。
「……因みにですけど、さっきあそこでサイン会をしていたアイドルなんですけどね。E&Pっていう、二人組の女性アイドルなんですが」
「……はあ」
「実はまだ控室に居て、帰って無いんですよ。だから近くで待っていたら、出てくるところで会えるかもしれません。彼女たちが松原君の推しかどうかは知りませんけど、サインくらいは貰えるかもしれませんよ……一応、参考までに」
「いや、その……」
「では、俺はこれで!」
言いたいことだけ勝手に言うと、森本さんはそこでスチャッと姿勢を正し、段ボールを抱えて去っていく。
彼の顔は不必要なまでに「俺は知らない振りをしておいてあげるけど、上手くやりな!いやあ、良いことしたなあ」とでも言いたげなものになっていて、少し俺はイラっとした。
同時に、彼がこういう感じの人だったことを思い出す。
──変に勘違いが多くて、善意が空回りしやすいタイプなんだよな……俺が好きそうな本を取り置いてくれた時も、全く興味の無い本を確保していて……そうだそうだ、ああいう人だった。
懐かしいような、歯がゆいような。
何とも言えない気分に浸りつつ、俺はようやく特設コーナーを離れる。
面倒くさいので、誤解はもう訂正しなかった。
……そこからの俺の行動は、久しぶりに本屋に来た人間のテンプレートをなぞったと思う。
最初に、単行本の新刊コーナーと平積みをざっと確認。
次に、文庫本の新刊も見てみる。
それが終わったら、覚えている限りのシリーズ物のタイトルを漁り、続刊が出ていないかチェック。
出版されていた場合は念のためにチェックして、本当に未所持なのか発行日から確かめる。
これを漫画本と雑誌関連でも繰り返した。
概ね買う本を決めたら、後は本当に適当にぶらつく。
読んだことも無い雑誌をパラパラして見たり、興味も無いのに俳句やら詩集やらも見てみたり。
実際に買うことは無くても、やはり長いことちゃんと来ていなかったのが良かったのか、店内を歩くこと自体が結構楽しかった。
──ああ、穏やかで良いなあ……そうだよな、休みの日ってこういう感じだよな、普通。
エッセイ本の棚をボーっと見つめながら、俺はしみじみとそんなことまで考えた。
この半年、学校の休みの日と言えばアイドルに呼び出されたり、茉奈に呼び出されたり、姉さんに呼び出されたり、警察に呼び出されたりで気の休まる時が無かった。
終いには、本当に何もない日でさえ「まさか、電話とか来ないよな……」と戦々恐々としていたのである。
そんな俺に訪れた、本屋を回るだけの休日。
何故だろう、平穏無事に過ごしているだけなのに、意味も無く涙が出てきそうになる。
強いて言えば、エッセイ本の棚に凛音さんの書いた本──ゴーストライターの作品かもしれないが──がチラチラ映るのが気になるが、些細なことだろう。
──まあでも、欲しい本は大体ここで揃ったから、一先ず買っておくかな……その後は読むのに集中するか、映画でも見に行くか……。
のんびりとそう考えつつ、やがて俺は欲しい本を摘まんでいくことにする。
流石に、休日を銀砂書店だけに費やすのもどうか、と思ったのだ。
ここらで買って置いて、後の予定は外に出てから考えよう。
かるーくそう決断した俺は、厳選した文芸本を抱えてレジに近づいていった。
そしてレジスターの前に辿り着いたところで、おや、と思う。
「あ……どうも、森本さん」
「おお、松原君。また会いましたね」
少し驚いたような顔をしながら、森本さんが会釈をする。
先程別れた彼だが、どうやらレジの業務を引き継いだらしい。
レジに来るまで気が付かなかったが、彼にレジ打ちを頼む形になった。
「お買い上げありがとうございます……ええと、紙カバー無し、袋も無しでしたか?」
「はい、鞄持っているので……覚えていたんですね」
「アハハ、常連さんですから……」
昔馴染みの良さを利用して、スッスッと会話が進む。
森本さんも委細承知した、という雰囲気で俺から本を受け取った。
そしてすぐさまバーコードを通す────ことは無く、ササっと本を開いて、そこから何かしら取り出し始めた。
彼が取り出しているのは、二つ。
一つは書店に置かれている本の大半に挟み込まれている紙のスリップ、所謂「短冊」。
そしてもう一つは、本の真ん中あたりに挟み込まれている磁気カードだ。
抜き取られていく磁気カードを見ながら、俺はこの店の仕組みを思い出す。
長らく来ていなかったせいで、少し忘れていた。
そう言えば、この店にはこんなシステムがあった。
簡単に言えば、万引き対策の一つである。
書店内の全ての本には、この磁気カードが挟み込まれているのだ。
より厳密に言うと、レジを通していない本の全て、ということになるか。
このカードを挟んだまま、本を抱えて店の外に出ようとすると、物凄い警報音が鳴る。
店の出入り口のところにセンサーがあって、それがレジを通していないカードに反応するのだ。
結果として、レジを通さずに本を持ち出そうとする者────すなわち、万引き犯はその場で確保される。
加えて、この店の本は原則として全て、ビニールカバーで包装がされている。
中身の確認は、別に見本用の本が置かれてあるのでそれを読め、というスタンスだ。
つまり、このカードを客側が取り除くことは出来ず、万引き対策として機能する形になる。
勿論、俺は普通に本を買っているので、そんな警報システムのお世話になる気はない。
だからこそ、こうしてレジでカードを抜いてもらっている訳だ。
「……ちゃんと抜いてくださいね、それ。間違ってカードを抜き忘れて、そのまま外に出たせいで警報音が鳴ったら、生きた心地しませんし」
そこまで考えたところで、俺はちょっと森本さん相手に軽口を挟む。
そういうことがあったら嫌だな、と昔会話したのを思い出したのだ。
向こうもそれを回想したのか、苦笑を浮かべる。
「あの音は、店員の私たちも聞きたいとは思いませんよ。聞くたびに心臓がバクバクしますから……」
「ああ、店員さんもそうなんですね」
「勿論です。出来ればこっちだって、警察への通報やら親への電話やら、気が重くなることはしたくないので……」
人の良いことを言いながら、彼は短冊とカードを全ての本から抜き取り、ようやく一冊の目の本のバーコードを読み取る。
そして、ピッと認証音が響いたのに合わせて、次の本を手に取ろうとした瞬間。
俺の頭の半分くらいが、「次はどこに行こっかな」で埋められていた、ちょうどその時。
ビーッ!!!という、耳を突き刺すような警報音が店の中に響き渡った。




