芸能事務所にお邪魔する時
幸いなことに、バイト先となるボヌールは我が家から自転車で行ける範囲にあった。
ここで「幸い」としているのは、今日中に出すようにと姉さんに言われて置きながら、書類の用意にかなり時間がかかったからである。
何分、俺は履歴書なんて物を書くのは初めてだ。
そのせいか、姉さんの残したマニュアルに従って書くだけで、それなりの時間を消費してしまった。
遅れて昼食も摂ったので、その時間も追加されている。
あくまでバイト用のそれである上に紹介状があるのだから──要するにコネだ──多少書き間違っていようが問題は無いと思っていたが、それはそれである。
あまりにも変な履歴書を提出して受け取り手に苦笑いされるのも、少々精神的にキツイ。
「姉さんも、もうちょっと細かく教えてほしかったな……」
そうぼやきながら自転車を引っ張り出した時刻は、なんやかんやで午後三時過ぎだったと思う。
地図アプリで検索してボヌールに辿り着いたのは、それから三十分後だった。
「でっか……」
自転車を停めながら、最初に出た言葉はそれだった。
お上りさんのようで格好悪いと思いながらも、首がそれを見上げるのを止められない。
気が付いた時には、「おおー」と歓声のような声まで口から漏れていた。
「これが、『ボヌール』か……」
俺の目の前にあるのは、我が姉が働く芸能事務所。
身内の居る職場ということで一応写真で見たことはあったのだが、実際に訪れたのは初めてである。
履歴書を出しに行く前に、俺はその建物の威容に感嘆してしまった。
簡潔に説明すれば、目の前にあるのは白を基調とした色が良く映える大きな自社ビルである。
周囲の建物と比較しても、頭一つ分大きい。
色も相まって、さながら城のようだ。
ビルの正面脇に設置されているのは、大きく「ボヌール」と書かれた石碑のようなオブジェ。
近くの壁にはアイドルたちの笑顔が眩しいポスターも多数貼られ、如何にも「芸能事務所」という感じになっている。
加えてビルの背後には、小さめの体育館のような建物まで付随していた。
何のために、と一瞬思ったが、すぐに以前姉さんに雑談で聞いていたことを思い出す。
確か、事務所主催のライブを行うためのミニライブ会場が付属しているのだったか。
まあ要するに、初めて見たボヌールのビルは、ちょっと驚くくらいに大きな建物だった。
流石に都心ではなく郊外寄りの立地ではあるが、それでも、都内にこれだけの敷地の建物を建てている時点で──下世話な話だが──ボヌールの資金力の大きさが分かる。
芸能事務所って儲けているんだなあ、と俺は呆けたように考えた。
……尤もその儲けているはずの芸能事務所が、清掃業者を新たに呼ぶのをケチって俺のようなバイトを雇っているのだから、何だか変な感じもするが。
或いはもしかすると、そのあたりを細かくケチるからこそ儲かっているのかもしれない。
「……って、見ている場合じゃないな、自転車停めないと」
四月になり、真冬よりはかなり日が長くなったとは言え、あまりうかうかしていると日が沈む。
流石に日が暮れてから履歴書と紹介状を持ってこられても、向こうも迷惑だろう。
そう考えた俺は急いで駐輪場を探して──駐車場と一緒に、ビルの地下にあった──自転車を置き、書類を抱えて事務所の入り口に駆け寄った。
結論から言えば、そこからの動きは実にスムーズな物だった。
まず、変に広い受付に緊張しながら話を持ちかけると、委細承知したという感じで「STAFF ONLY」と明記された扉の奥に案内される。
その扉を通り抜けると、すぐに「事務A」というプレートがかけられた職員室みたいな部屋に誘導された。
そこに辿り着いてからはさらに流動的というか、凄まじい速度だった。
俺の前にバイトの件を知っているという人が代わる代わる現れ、手慣れた手つきで処理をしてくれるというか。
流されるままに挨拶や書類の清書をしていると、いつの間にか俺はその職員室染みた部屋で事務員らしい人に履歴書を提出していた。
どうやらバイト雇用に至るための最終段階らしいが、受付に話しかけてから二十分も経っていない。
その履歴書も提出した瞬間に「ハイ、OKです」と言われたので、思案する時間というのはゼロだった。
恐らく、姉さんから話が通っているが故の対応なのだろうが────それでも、見ているこっちがそんな感じで大丈夫なのか、と心配したくなるほどのスピード感だった。
ついさっき姉さんのことを即断即決の人と呼んだばかりだが、ここではあの姉さんの思考スピードでもやや遅いくらいかもしれない。
とにかく、全ての手続きが「爆速」だった。
しかし「爆速」の手続きに慣れているであろう社員さんたちはともかく、俺は普通の学生だ。
素早くその対応に適応出来るはずもなく、俺はずっと急変する状況に溺れていた。
正直なところ履歴書を提出した瞬間すら、何をチェックされているのか分かっていなかったくらいである。
だから俺は全ての書類を提出した後、事情を知っているらしい事務の女性の前で呆然と突っ立っていた。
ここからどう動けば良いのか、全く分からなかったのである。
すると目の前でパソコンを弄っていた事務の人が、こちらの方を向いて声をかけてくれた。
「はい、これで掃除バイトの登録は大丈夫です……ですので、カードキーと名札、それと掃除用のジャージをまず渡しておきますね。今度事務所に入る時は、このカードキーで関係者用入口から入ってください。事務所内にいる時は、常にこの名札を首から下げておくようにお願いします」
「あ、はい」
別に叱られているわけではないのだが、迅速な仕事の流れに圧倒された俺はひたすら頭を下げておく。
それを萎縮していると受け取ったのか、目の前にいる事務員──「篠原」と名札に書かれた、若い女性だった──は少し口調をゆっくりにしてくれた。
「基本的には、午後に来て掃除をしてくれるだけで大丈夫です。丁度貴方に頼んでいる時間帯が、レッスン室がよく使われる時間帯の少し前ですから。時間いっぱい使って、丁寧に掃除してください」
「ええと……少し前、とは?」
「あそこのレッスン場を使うアイドル、学生が多いんですよ。そして彼女たちは昼間、普通に学校に通っています。そうなるとメンバーが揃ってのレッスンの時間は、どうしても学校が終わった夕方くらいになるでしょう?」
反射的に質問をしてみると、丁寧な解答が返ってくる。
俺の理解力を考慮したのか、噛んで含めるように説明してくれた。
話の内容も妥当な物だったので、俺はなるほど、と頷いておく。
確かに、高校生や中学生のアイドルが多いというのなら、アイドルたちの自由時間は放課後に絞られる。
各々が通う学校から事務所に向かうまでにもそれなりに時間がかかるので、レッスンのために全員が揃う時刻というのは、どうしても夕方以降になる訳だ。
その夕方が来るまでにレッスン室の掃除を済ませておいて欲しいというのが、俺のバイト内容になるらしかった。
「あ、じゃあ、俺は自分の高校の授業が終わったら、すぐにここのレッスン室に行って掃除をしておくと良いんですね?レッスン室に、学校帰りのアイドルが来る前あたりに」
「そうなりますね……その時間帯にレッスン室を使うアイドルからの不満が、特に多いので。まあ、時間は週ごとに調整しますが……因みに、部活の都合などは?」
「あ、いえ、それは別に。元々入る気なかったですし……」
そもそも俺は大して興味のある部活動自体が無く、このバイトの存在がなくとも帰宅部で通すつもりだった。
だからこそ、春休みに「バイトをするのもいいかなあ」とか言っていたのである。
仮にどうしても入りたい部活があれば、この話を受けてなどいない。
時間的に、俺は放課後を丸々掃除に費やすことになる──俺の放課後の自由時間はほぼ無い──が別に構わなかった。
「そうですか。では、今日は既にレッスン室を使っている子たちが居ますので、掃除の方は結構です。バイトは明日からということで……」
「あ、はい……今日は、既に使っているんですね。まだ夕方には早いですけど」
「ええ。アイドルの子たちが通う学校も、今日は入学式や始業式だけで、午後の授業が無かったそうですから」
ごく当たり前の理由に、俺は納得する。
確かに──姉さんの言動のせいで早くも忘れかけているが──今日は四月の初め、入学式があった日だった。
俺自身、午前中はそれに出ていたのである。
学生が多いというアイドルたちだって、今日の予定は俺と大して変わりが無いだろう。
入学式や始業式の時期なんて、どこの学校でも同じくらいだ。
結果としてアイドルたちも学校が早く終わっていて、その分、レッスンが午後の早い時間から始まったという流れらしい。
「今からだとレッスンの終わりまで待つのも長くなってしまいますし、今日の掃除は無しで大丈夫、という訳です……ああでも」
「……でも?」
「一回、レッスン場を見ておきますか?場所の確認と、掃除用具の位置を一応見ておくくらいは」
篠原というその事務の人は、そう言うと同時に予め用意していたらしい紙をほい、と軽く渡してくる。
慌てて受け取ってみると、それは事務所内の見取り図のような物が書かれてある紙だった。
見るからに、「見学者にでも渡すために作成しました」という雰囲気の用紙。
「レッスン室はそこに書かれてある通り、三階の片隅です。一人で行けますか?」
「あ、大丈夫です」
最悪、分からなかったらまたここに戻って位置を聞けばいい。
俺は受け取った地図とその前に貰ったキーや名札を胸に抱え、礼儀として一礼する。
しかし俺が礼をした時には、篠原さんはもう自分の仕事に戻り、視線をパソコンに戻していた。
微かに俺の方に手を振り、それで話が終わる。
──こう言うところも「爆速」だなあ……。
もしかすると失礼な対応をされたと思ってもいい場面だったのかもしれないが、そんな感想よりも先に感嘆が強く出た。
色んな意味で忙しい人たちだなあ、とだけ思う。
こういう風に忙しそうにしている人の仕事をそうそう邪魔してはいけないというのは、まだ学生の俺でも何となく分かった。
だから俺は適当に会釈しながら、すぐにその場を立ち去ることにする。
そこからの俺は、ようやく「爆速」から解放されたので、普通に自分のペースで事務所内をテクテクと歩いた。
地図を見ながらキョロキョロとレッスン室を探して、慣れない建物の中で何とかその部屋に辿り着いたのである。
ごく当たり前の活動なのだが、先程までの「爆速」と比較すると妙に鈍く思えてくるから不思議だった。
まあ何にせよ、俺はレッスン室にまで着いた。
すぐにそこの扉に手をかけ、言われた通りに掃除用具の確認をするべくグイッと押す。
その瞬間────。
「はい、ワンツー、ワンツー、ワンツー!そこで、ターン!」
俺の耳朶を打ったのは、そんな快活な声だった。
決して大きな声ではない。
しかし、言葉を発した人物は間違いなく声を張り慣れているだろうと即座に分かる、そんな声量。
──ダンスを教える、トレーナーの声か?
反射的に耳を触りながら、前方の空間を見つめる。
廊下から来た俺が扉を開いた先は、複数のロッカーが立ち並ぶ準備室めいた場所になっていた。
そしてその奥には、ここから連続する形で広がる体育館風のフロアが見えた。
要は準備室を緩衝材にする形で、奥の方にレッスン室が配置されている訳だ。
その奥のフロアから、実に明瞭な音が聞こえる。
──五人、居るな……踊っている?
何となく、俺は奥の様子を伺ってしまう。
耳に響く音楽とダンダンという床の震える音に耐えながら、だが。
視界に最初に映ったのは、三十代くらいの元気よく動き回る女性。
それと、彼女を囲むようにして踊っている四人の少女。
少女たちの年齢は、全員中高生くらいだろうか。
──全員アイドルって感じでも無いし……まあ、普通に考えて、一人のトレーナーが四人のアイドルを教えているのか。
一瞬で関係性を把握する。
推理するまでもない。
年嵩の女性が明らかに四人の少女に対するお手本を見せているようだった、という理由がまず一つ。
そしてそれ以上に、お手本の女性と少女たちは、見るからに元気の度合いが違っていた。
簡潔に言えば、四人の少女の方が明らかに死にそうな顔をしているのである。
練習のし過ぎなのか、体力の問題なのかは分からないが、どちらにせよ瀕死だった。
ここで言う「死にそう」というのは、決して単なる比喩ではない。
アイドルの女性にこういう例えをするのもアレだが、はっきり言ってしまえば、その四人は末期の病人のような顔をしていた。
酷い言い方に思えるかもしれないが、率直な感想である。
彼女たちの顔色は赤を通り越して紫に近く、膝は一歩床に付けるたびにガクガクと細かく震えているのだから、そういう印象になるのも仕方がないだろう。
ダンスの方も、トレーナー風の女性よりも少女たちの方が明確に下手だった。
俺はダンスの経験なんて無い一切素人なので、ダンス技術の巧拙なんてものは見分けられないのだが────逆に言えば、そんな素人でも見てはっきりと分かる程、技術に差がある。
疲労も影響しているのだろうが、四人の少女たちの動きにはキレがなく、ジャンジャカと鳴っている曲のスピードに付いていけていなかった。
──新人アイドルを、ダンスのプロがしごいているって感じなのかな……。
先程の「レッスン室を使っているのは学生アイドルが多い」という話と合わせて、最終的にそんな理解に辿り着く。
まさかあの年齢で、ベテランアイドルということも無いだろう。
アイドルたちの立ち位置としては、まだまだ新人であるはずだ。
要するに俺は、図らずも新人アイドルが決死の覚悟で努力している場面に出くわしているようだった。
恐らくはファンの前では決して見せないのであろう、苦悩の場面に。
──そりゃあ、あれだけ踊っていたら床も汚れるよなあ……。
呆れと納得を同時に感じながら、そうも考える。
実を言うと、姉さんの手紙を見た段階では「そんな、緊急でバイトを雇わないといけないくらい掃除が要るのか?」とも思っていたのだが、こうして実際に見ると印象も変わってきた。
確かに、このレッスン室には頻繁な掃除が必要なようだ。
一回のレッスンでああなるのであれば、連続で練習があれば床など汚れ放題だろう。
仮にあの状態から床の汚れのせいで転んだら、悲惨な怪我をしてしまいかねない。
「そう言う意味では地味に大事な仕事だな、これ……」
依然として踊り続けるアイドルたちの姿を見ながら、ポツリと呟く。
まさか、バイト初日にここまで自分の仕事の重要性を理解できるとは思わなかった。
「まあ、理解したところでやることが変わるわけでも無いけどさ……掃除用具、確認してから帰るか」
また、独り言を言う。
ダンス用の音楽とトレーナーの指示が鳴り響き、誰かに聞かれるという心配がないせいか、独り言が増えていた。
言葉通りに、俺は周囲の様子を伺うことにする。
状況的には、この準備室に並んでいるロッカーのどれかが掃除用具入れだろうから、その中身を見て置けばいいだろう。
何か掃除用具が足りなかったら、明日までに買って置いてもらわないといけない。
そんなことを考えながら、俺はとりあえず適当なロッカーを開けてみた。