<Back Stage>煙の器・前編
月野羽衣のライブが、大盛況の内に終わった次の日。
松原夏美は、つまらなそうな表情で数枚の書類を見つめていた。
時刻としては昼過ぎ、場所としてはボヌールの執務室でのことになる。
出勤以降ずっとこの部屋に籠っている彼女は、どことなく脱力したような仕草を見せつつも、その書類を読み進めた。
やがて、全て読み終えたのだろうか。
ふう、と彼女は一つ息を吐き、それから書類をパサリと机に置いた。
それから、小さな声で誰にも聞かれない独り言を呟く。
「わざわざ昼に訪ねてきて、書類だけ渡して逃げるように帰って行ったから、何かと思えば……中々の話を持ってきたな、玲」
ここには居ない弟の顔を────玲のことを思い返しながら、夏美はフッと笑った。
玲本人は出来るだけ感情を隠したような顔をしているつもりのようだったが、夏美としては一目見るだけで事情を察していた。
ああ、何か一人では対処出来ない話に気がついて相談しに来たのだな、と。
そんなことを思い出しながら、今一度、夏美は書類に横目で視線をやる。
ここに書かれてある内容を分かりやすく言えば、とあるアイドルの行動に対する告発文になるだろうか。
もっと具体的に言えば、月野羽衣のライブ会場に向かった松原玲が経験した「日常の謎」にまつわる話である。
アイドル三人を巻き込んで、月野羽衣が実は喫煙をしていたという真相を解き明かした、推理小説染みた記録。
記録の中では、自分が一度迷子になったことから謎を解いた経緯まで、一見不必要に思える部分も含めて詳しく書いてある。
物事が案外と重大だったので、どこからどこまで知らせればいいのか分からなかったのだろう。
文章全体から「まさかこんなことになるなんて思わなかった」という本音が透けて見えた。
わざわざプリントアウトして渡したのは、直接話すと誰かに聞かれるかもしれないという不安故か。
だからこそ、印刷した情報を姉に手渡しするという実にアナログな手段に頼った。
「実際のところ、そこまでする必要は無かったと思うが……まあ、ありがたい配慮だな。あまり人に聞かせるような話では無いし、外に漏れたらコトだ」
口にだして確認しながら、軽く夏美は苦笑する。
この辺りが分かっているからこそ、玲も真相を秘匿せず自分に伝えに来たのだろう。
以前のように、彼の胸に秘めておけばいい話ではないからだ。
玲に任せたタブレットの一件とは違い、今回の一件はアイドル以外の人間──例えば設備に煙草の臭いが染みついてしまった会場スタッフ──に迷惑が掛かっている。
天沢茜の一件は揉み消したところで誰かが滅茶苦茶困る訳では無かったが、今回はそうではない。
このレベルの話になると玲としても、流石に庇うとかそういうレベルの話ではないと思ったのだろう。
「まあ、だからこそ私も動かなければならないんだけどな……プロデューサー補佐として。それ以前に、ボヌールの人間として」
はあ、とまた大きく息を吐く。
夏美はスマートフォンを取り出し、ある場所に電話を掛けた。
平日ということもあってか、数回のコール音の後に相手が出る。
「もしもし……はい、ご無沙汰しております。ボヌールの松原です。先日はどうも……いえいえ、その件ではありません。少々、お聞きしたいことがありまして。不躾ながら、そちらの鍵の管理の話なのですが」
社交辞令を幾つか交わしてから、二、三個の質問を行う。
全て、予め内容を練っておいた問いだ。
こちらの準備が良かった影響か、相手の答えも的確だった。
お陰で、短い応答でも十分な情報が手に入る。
「はい、ありがとうございました。処分はこちらの方で……はい、分かっています、火消しはしておきますから……それでは、また」
そこまで言ってから、通話を打ち切った。
するとそれに合わせたようにして、コンコンコン、と執務室のドアがノックされた。
「入り給え」
軽く言うと、ぎい、と音を立てて扉が明けられる。
そこから見えてくるのは見知った顔────月野羽衣のマネージャーである渋沢の顔だった。
夏美の関わるグラジオラスプロジェクトとはまた違ったジャンルの仕事をしている人物だが、流石に同僚ではあるので顔と立場くらいは互いに知っている。
その彼は、当惑した表情で声をかけてきた。
「……お邪魔します。何か、御用でしょうか」
「ん、まあな……」
軽くそう言って、夏美は軽く手招きするような仕草をする。
すると、渋沢は怪訝そうな顔をしながら近寄ってきた。
恐らく、自分が何故呼び出されたのか未だに分かっていないのだろう。
「どうしたんですか、松原さん?何か、鳳プロデューサーの指示でもあったんですか?……誰か、グラジオラス内でマネージャーが足りないとか?」
「いや、そういう話じゃない。そもそもこれは、私の個人的な判断だ。色々と話したいことがあったからな」
そう言って、夏美は身振りで手近にあった椅子を勧めた。
この執務室は本来夏美専用ではなく、夏美の上司にあたる鳳プロデューサーや他のプロデューサー補佐も使う部屋である。
しかし今は夏美以外は出払っているので、椅子には事欠かなかった。
「長い話になるかもしれない。座った方が良いだろう」
「はあ、どうも……」
困惑した顔のまま、渋沢はそこに座る。
その顔を見つめながら、夏美は出来るだけ静かに手に持った書類を彼に渡した。
決して、彼に叩きつけるような動きにはならないように注意して。
「……何ですか?これ」
「私の弟が送ってきた物で……まあ、報告書みたいな物だ。一度、読んでみてくれ」
詳しい経緯は端折り、夏美はただそれだけを指示する。
断られるかとも思ったのだが、渋沢は怪訝な顔をしながらもそれに従うことにしたようだった。
文句も言わず、彼は渡された書類に目を通していく。
──こう言うところは、やけに素直だな……。
彼の様子を見ながら、夏美はぼんやりとそう思う。
尤も彼の場合、素直というよりも何かを断るのが下手なだけかもしれないが。
……そんなことを考えているうちに、渋沢は玲が書いたその書類を読破したようだった。
絵の具でも垂らしたかのように、凄まじい勢いで顔が青くなっていく。
最後の方に至っては、まるで何かに追い立てられるようにして内容を読み込んでいた。
やがて全てを読み終わった彼は、バサリと紙の束を机に置く。
そして、悲壮な顔でこちらを見上げた。
「……知りませんでした。まさか、羽衣が煙草を……」
「まあ、あくまでウチの弟が勝手に言っているだけだがね」
まるで大したことでは無いかのように、夏美は敢えて軽く返した。
右手をヒラヒラと振り、さも本気にしていないように。
だが、渋沢はこう返した。
「い、いえ。少なくとも倉庫内が煙草臭かったのは事実だそうですし、無視してはおけません……一先ず、本人に確認してきます」
そう言って、渋沢は中腰になる。
恐らく、すぐにでもこの部屋を出て行こうとしたのだろう。
だが、目の前に夏美が居ることを思い出したのだろう。
慌てたように、彼はその場で一礼をする。
年齢的には渋沢の方が上なのだが、補佐とは言えプロデュースに関わる夏美の方がボヌール内では微かに立場が上になる。
だからなのか、彼はおべっかを使うようにしてこんな言葉を付け足した。
「いやしかし、弟さんは凄いですね。マネージャーである私も気が付かなかったことを、こうも簡単に……さすがは松原さんが推薦するだけのことはある、というところですか」
決して本心では無いだろうに、褒め殺しのような言葉を並び立てる。
その様子があまりにも滑稽で、夏美は思わず鼻で笑った。
仕方ないだろう。
頓珍漢な発言に、真面目に答える方が難しい。
故に夏美は────虚飾に満ちた肯定に、正当性のある否定で返すことにした。
「……いや、私の目から見るに玲もまだまだ青い。月野羽衣のことはまあともかく、他の側面については、気が付けるだけの状況ではあったのに何も気が付けてはいなかった。点数をつけるなら、百点満点中六十五点と言ったところかな」
「またまた、御冗談を……」
「まさか、冗談ではないよ」
そう告げてから。
フッ、と夏美は己が表情から笑みを消した。
「現に玲は、月野羽衣に煙草を提供していた人物が君であることに、最後まで気が付けなかったのだから」
夏美が、渋沢にそう告げた瞬間。
それこそ冗談のように、渋沢の動きが完全に静止した。
「ハ、ハハハ……何を言っているのですか、松原さん。チーフマネージャーの私が、まさかそんなことをするはずが無いじゃないですか」
ようやく、という感じで渋沢が言葉を絞り出したのは、彼が押し黙ってから三分後の事である。
最早相手をするのも面倒くさかったが──彼のこの態度自体が、もう返事みたいなものだ──一応夏美は会話を続けた。
「へえ?じゃあ君は、羽衣はどうやって煙草を買っていたと思うんだい?まだ未成年なのに」
「それはほら、変装してコンビニで。或いは、カードの類を何とか手に入れて自販機で……」
「無理だな。リスクが大きすぎる」
しどろもどろになる渋沢を前に、夏美は冷静に疑問点を指摘する。
実際、少しでも考える頭があれば、そんな方法は取れないのだ。
何せ────。
「玲もそこに書いてあるだろう?月野羽衣は知名度が高く、顔も知られている。外で煙草に関わる行動をすること自体が、彼女にとってはリスキーなのだ、と」
この点が、様々な場面で月野羽衣の行動を縛るのである。
彼女は一般人程、気軽に動けないのだ。
そもそも店頭で煙草を購入する場合、身分証明書を見せるか明らかに二十歳以上だと分かる容姿でもない限り、すぐに売っては貰えない。
その両方を持っていない彼女が変装をしてコンビニに行ったところで、多分店員に「顔をよく見せてください。ちゃんと確認したいので」と言われるだけだろう。
しかし彼女が本当に煙草を買いたいのなら、顔を見せるわけにはいかない。
アイドルである彼女の場合、店員が自分の大ファンであるというのも十分にあり得る話だからだ。
だから顔を見せてしまうと、最悪その場でスキャンダル完成になってしまう。
店員と向かい合うこと自体が、リスキーなのだと言ってもいい。
まともな判断能力があれば、コンビニで煙草を買うような真似はしないだろう。
では、自販機はどうか。
こちらの場合はまず、近年の煙草自販機では必須となる識別用のICカードの存在が壁となる。
当たり前だが、成人しないとああいったカードは手に入らない。
仮にカードを誰かから貰ったとしても、やはり先程と同様の理由で人目がネックとなる。
SNSが隆盛を極めるこの時代、外の自販機でアイドルが煙草など買っていればそれだけでどこぞに書き込まれるリスクがあるからだ。
要するに昔ならともかく、現代ではアイドル本人が直接煙草を購入するというのは中々の無理難題なのである。
にも関わらず────月野羽衣は煙草を吸っていた。
「……つまり、何者かが煙草を購入して提供していた、ということだ。家族でも、恋人でも、同僚でもいい。誰か成人していて、普通に煙草が買える立場の人間から彼女は煙草をもらっていた」
「それは……断言できる、話なんですか?」
「そうじゃないと、ライブの休憩時間に吸いたくなるほどにまで煙草に依存しないだろう?吸いたいときに吸える環境でなければ、そこまでのヘビースモーカーにはなれないはずだ」
さらり、と夏美は根拠を述べた。
報告書を読んだ時点で、夏美が察していたことである。
玲の報告書を読む限り、月野羽衣の煙草に対する執着は大きい。
誰かにバレ得るライブ会場、しかも喫煙禁止の場所で我慢できずに煙草を吸っているのだから、相当なものだろう。
逆に言えばそんな状態になるくらいまで、普段の彼女は煙草をガンガン吸っているということだ。
一度実行するだけでもリスクが大きいはずの煙草の購入を何度もこなせていなければ、有り得ない状態である。
そうなるともう、本人が煙草を買っていたというより────誰か代わりに買ってくれる存在が居たのではないか、と考えた方が妥当だ。
彼女が望むまま、吸いたい時に煙草を提供する何者かが居たという仮説。
そんな人物が居たからこそ、彼女は安心してヘビースモーカーになれたのだ。
「……し、しかし、それなら、提供者は私とは限らないでしょう?家族から貰ったのかもしれませんし、或いは年上の恋人と交際でもしていて、その人物から貰った可能性も……」
「勿論、その可能性はある……私が煙草の提供役を君だと断定したのは、もっと別の証拠があったからだ」
そう言って、夏美は不意に報告書のある部分を指した。
玲がライブ会場に向かい、迷子になったことについて書かれた場面だ。
その記述の中に、夏美が言及したい部分が存在する。
「君も読んだ通り、会場に入った直後の玲は誤って倉庫の方に向かってしまった。月野羽衣が喫煙のために使ったという空間の方に、だ」
「そうなっていますね……それが?」
「玲が、ここに入った理由が問題なんだよ。よく読んで見給え。玲が関係者用入口を探していると『丁度、スタッフらしきスーツ姿の男性がその扉を開けて中に入ろうとしていた』と書かれてあるだろう?それに続く形で、玲はその扉を開けた」
普通なら、読み飛ばしても構わないくらいの短い記述。
恐らく書いた玲自身も大して重視はしていなかっただろう。
しかし全ての事情を考慮すると、この記述は実に奇妙だ。
何せその場所は、ライブ中ですら人が立ち入らないほどの非常に人気のない領域。
それこそ、月野羽衣が密かな喫煙場所に選ぶくらいに人が来ないのである。
では、このスタッフ風の男性というのは、そんな場所に、一体何のために立ち入ろうとしていたのか?
非常に、気になるところである。
「いや、それは……普通に、何か使う機材があっただけかもしれないじゃないですか」
「もしそうなら、迷子になって倉庫の近くをうろつきまわっていた玲がその人物と出会っていたはずだ。同じ場所をうろついているんだから、出くわさないとおかしい。しかし実際には、そんなことにはなっていないだろう?」
玲がその場で出会ったのは、地味な姿をした月野羽衣だけである。
だからこそ、玲は彼女に控室までの道を聞いたのだ。
他に聞く相手が居なかったから。
流れを追う限り、玲が見たはずのスタッフは姿を突然消している。
これは、つまり────。
「これは私の妄想だが……恐らくその『スタッフ風の男性』は、倉庫の方に入った瞬間にどこかの部屋に隠れたのだろう。だからこそ、玲は彼に会わなかったんだ。何せ、向こうが隠れているんだからね」
「隠れるって……一体、何故?」
「それは勿論、後からやってくる月野羽衣に、煙草を提供するためさ。つまり彼は煙草やライターを隠し持ったまま、月野羽衣に先立って待っていたんだ……だからこそ、見られる訳にはいかなかった」
状況的に、そうとしか考えられない。
この場所には「スタッフ風の男性→松原玲→月野羽衣」の順番で人間が現れているが、イレギュラーである玲を除けば、残り二人は立て続けに倉庫を訪れている。
素直に考えれば、二人はそこで出会うつもりだったという推理が成立する。
人気のない場所に三人連続で迷子が出たと考えるよりも、最初からそこで待ち合わせをする気だったと考えた方が自然だからだ。
そして、その後に月野羽衣が喫煙をしている以上。
最早「スタッフ風の男性=煙草の提供役」としか考えられないのである。
少なくとも、無関係とは思えない。
「そしてそう考えると、その『スタッフ風の男性』の正体は大体絞り込める」
軽く断言してから、夏美は指折り条件を提示する。
「条件としては、ライブ会場でも自由に動き回れること。さらに、羽衣と会う時間を打ち合わせられるくらいの親しい存在であること。しかも、喫煙の秘密を共有するくらい信頼されているということだ……仮に、羽衣の家族や恋人が提供役だった場合、この条件を満たせるかな?」
「……だから、私だと?」
「その通り。スタッフ証を持っている君なら自由にそのような場所でも出入りできるし、羽衣の休憩時間を知った上で予め倉庫に潜んで置ける。今までのライブでそこを訪れているから、人気のない場所の目星くらい付けられる」
言い終わってから、一区切りついたという雰囲気で夏美は息を吐く。
それから、こんなことを呟いた。
「……何ならそう仮定した上で、昨日の君たちの行動を全て推理して語ってみようか?この期に及んでも君が自白しないのなら、だがね」
挑発するように、眼前の渋沢に問いかける。
返事は────無かった。
ならば、仕方が無い。
いよいよ謎解きに本腰を入れた夏美は、コン、と指で机を叩いた。
彼女の仮説の始まりを、そして目の前の男の終わりを告げるように。
「さて────」