六年前から知恵を貰う時
自分の想像に自分で怖がりながら、俺は話を区切った。
「……一応、リストから分かったのはこれまでですね。三人が三人とも、怪しいと言えば怪しい。誰でも『タロス』にはなれそうです」
「かもねー……なら一度、ホテルに戻ろっか」
駐車場の看板をチラリと見ながら、凛音さんはそう提案する。
ずっと停車したまま話をしていたが、いい加減駐車料金が気になったのかもしれない。
そのことを理解しながら、俺はあることに気が付いて少し同意を躊躇う。
「場所を変えるのは同意、ですが……」
「あれ、何か問題アリ?」
「いや単純に……もう時間が遅いので。どのタイミングで帰ろうかな、と」
車内の時計をチラリと見れば、いつの間にか時刻は午後九時近くになっていた。
普段なら、いい加減家に帰っておかないといけない時間である。
例の如く、仕事で母さんは家に居ないので──それが分かっているからこそ、俺もここまで遅い時間に外出しているのだ──どれだけ帰りが遅くなろうが特に問題は無いのだが、それでも帰宅を気にするのは必然だった。
故に、凛音さんのホテルに戻ろうという提案をどうしようと思ったのだ。
徹夜には慣れていないし、どのタイミングで寝ようか、と悩んで。
……だが悩む俺とは対照的に、隣で凛音さんはキョトンとした顔を浮かべていた。
心の底から、何を言っているのか分からないという顔をしている。
「え?……玲君、何で帰る時刻を心配しているの?」
「そりゃあ、だって……」
「玲君、今日は私と一緒にあのホテルに泊まるんでしょ?私、そう思って二人分の予約をしてるんだけど」
「……は!?」
唐突にとんでもない情報が提供され、俺は我ながら気合の入った「は!?」を繰り出す。
いや本当に、寝耳に水だった。
「いや……え?ホテル……俺の名前で予約したんですか?」
「ううん。ああいうのは代表名だけで良いから。私が代表で、連れが一人いるってことで二人分。ちゃんと、二人分のお金も払ってるしね」
「え、でも、そんな……いつから?」
「最初からだよ。だってそうじゃないと、ホテルのルームサービスが玲君の分まで届く訳ないじゃん?普通、予約人数を超えた注文が来たら注意されちゃうよ」
動揺を隠せない俺を前に、凛音さんは淡々と理屈を展開する。
場の雰囲気にそぐわず、彼女が持ち出す根拠は余りにも尤もな物だった。
そのせいで俺の理性は、感情を置き去りにして深々と納得してしまう。
そうだ、確かにあれはおかしかった。
先述したように今日の夕方、俺は凛音さんが宿泊しているホテルの一室で、ルームサービスを利用させてもらっている。
凛音さんが奢るというので、ご相伴にあやかった形だ。
だが今思えば、あの注文が普通に受理され、料理を持ってきてくれたホテルマンたちも特に俺の存在を注意しなかった時点で気が付くべきだったのだ。
ホテル側が俺の存在を許容していること────すなわち、二人分の料金が元から支払われているという事実に。
本来、ホテルは予約人数以上の数の人間が一室に泊まることを許容しない。
いや何なら、例え宿泊者の知り合いでも、宿泊もしない人間が部屋に立ち入ること自体を嫌がる場合だってあるだろう。
これは当然の話で、例えば二人用の部屋で実は五人も宿泊していました、なんてことを許していたら、その分ホテルの儲けが減ってしまうからである。
勿論、ちょっと部屋の借り手に会いに来たとか、荷物を届けに来た程度なら注意はされないだろうが、それでも宿泊もしない人間がルームサービスまで使い始めたら、如何にスイートルームとは言え断られるだろう。
ホテル側からすれば、泊まりもしない人物のために料理を作ってやる義理は無いからだ。
恐らく、ホテル備え付けのレストランで食べて欲しい、などと注意されるんじゃないだろうか。
だからこそ、仮に凛音さんが一人であの部屋を借りていたなら、俺と凛音さんが二人で夕食を取るというあの光景は有り得ないのである。
茉奈の謎が解けて浮かれていたのと、あのスイートルームが馬鹿でかくて何人用か分からなかったこと、そして流石に遠慮して寝室のベッドの数を見に行かなかったせいで、今の今まで察していなかった。
凛音さんは最初から、俺を泊めるためにあの部屋に連れて行ったのである。
それを見越して、二人分の部屋を予約していたのだ。
「…………いやいやいやいやいや、でも問題があるでしょう、これ!?マスコミ撒きはどうしたんですか!?滅茶苦茶問題になりそうですけど!?」
「えー?いいじゃない。一人でおっきな部屋泊まっても寂しいしさ、玲君と一緒に居る方が楽しいじゃん?」
「俺は全く楽しくないんですって。そもそも、大丈夫なんですか、その……未成年をホテルの一室に連れ込むって」
「玲君……何かするの?」
「しませんよ!」
俺の怒声で、高級車の内部がビリビリと震える。
フロントガラスには悪いことをしたが、本心だったのだから仕方なかった。
この時ばかりは、推理に協力させるために機嫌を損ねたくないとか、そう言うことも忘れてしまう。
実際、この人にそう言うことを期待するなど、想像するだに恐ろしい。
恐らくだが、僅かでもそんなことをした瞬間、俺は全ての証拠を握られて首輪を嵌められるだろう。
あのスイートルームに、百を超える隠しカメラや盗聴器が仕込まれていたとしても、俺は一切驚かない。
そして一度でも隙を見せれば、後の顛末は容易に想像出来る。
最悪、かつての積野大二のように使い捨ての駒としていいように利用されるんじゃないだろうか。
この人は、そう言う人だ────そう言うことが出来る人だ。
故に、物事の後先を考えるならば、この人にそれを求めてはいけない。
間違いなく、それを起点に一生を台無しにされる。
その辺りのことを頭の中で反芻した後、俺は端的に感想を述べる。
「貴女と一緒の部屋に泊まるというのは、単純に……」
「……単純に?」
純粋に、不思議そうな凛音さんの表情。
それを見据えながら、一息に告げる。
「単純に……生理的に嫌悪感があります。だから無理です」
強く拒絶しておかないと分かってくれないと思って、ありとあらゆる感情が込められた返答をする。
途端に、凛音さんが明白にショックを受けた顔をした。
これが漫画だったなら、背景に「ガーン!」とか書かれていそうな表情である。
「そんなあ……ホント?」
「本当です。無理なものは無理です」
「ええー……」
俺の意図は正しく伝わったらしく、凛音さんは分かりやすく眉を下げた。
彼女にしては珍しく、本心から残念がっているような仕草である。
そのせいか、彼女は次にもうちょっと理屈っぽいことを述べた。
「……でもほら、私たちが一緒に泊まった方が、話は早くない?だって玲君、明日は茉奈ちゃんの行方も探すんでしょ?」
「まあ、そうですね。昼に送ったメールに返信がくれば、すぐに会いに行けるはずですし」
「だったら、私が早くに車を出した方がさっさとその場所に行けるだろうし……玲君を今から家に帰して、また合流してその場所へ、とかやるよりはさー……」
最初から同じ部屋に泊まっておいて、同時に車を出して目的地に向かった方が話が早い、ということらしい。
確かに言われてみればそうなので、俺は少し黙った。
するとそのことに勇気づけられたのか、凛音さんは目を輝かせてハンドルをガシッと握る。
「玲君、納得したね?納得、した感じだよね?……うん!」
「や、ちょ……」
「なら、もう行こう?ここで揉めている時間の方が、勿体ないし。『タロス』だって、次にいつ事件を起こすか分からないんだから!ここはやっぱり焦るべきでしょ!」
いや、貴女が推理の時は焦るなって言ったんですよ────そう言いたかったが、俺は終ぞそれを口に出来なかった。
何故かと言えば、簡単な話。
それを言おうとした瞬間、凛音さんがとんでもない勢いでアクセルを踏んだからである。
途端、夜の映玖市にグオン、という怪物の鳴き声みたいなエンジン音が響き渡った。
同時に、絶対に自動車メーカーが想定していないであろうレベルのGが俺の体にかかる。
自然、俺の口からは悲鳴にならない悲鳴が零れた。
それでも俺は本能でシートベルトを掴み、それを体の前面に辛うじて通す。
一連の動きが終わった時には、車体は狭い駐車場を飛び出し、信号を三つほど吹っ飛ばして車道を爆走していたのだった────。
──そうだった……この人、とんでもないスピードを出すんだった……。
そんな感想を絞り出したのは、目的地となるホテルに辿り着いてからである。
今日の午後に体験したことでありながら、その後にも色々あったので、このスピード狂については頭から消えてしまっていた。
ボヌール会館に行くまでの道のりでは、流石に常識的な速度で走ってくれたので、暴走はアレ一回で終わりだと思っていたのである。
何にせよ、事実は三つ。
一つは、俺たちを載せた車が、どんなマップアプリでも算出されないであろう程の短時間でホテルに辿り着いたということ。
もう一つは、そのスピードに耐えるために俺は助手席で生命力を削りまくり、到着した時点では完全に青息吐息の状態だったこと。
そして最後の一つは、車から降りた時点で碌に動けなくなってしまったことである。
これが凛音さんの計画なのだ、と気が付いたのはその状態になってからだった。
改めてとんでもないことをする人だな、と俺は完全にグロッキーになりながら運転席の凛音さんを睨みつける。
しかし彼女は素知らぬ顔で車を停め、何事も無かったように、アイスを詰めていたクーラーボックスを抱えて立ち上がった。
「玲君、もう一人で家に帰る気力ないよね?だからとりあえず、このホテルに泊まらない?介抱してあげるよ?」
「……凛音さん、マッチポンプって言葉、知ってます?」
「さあ、何だったっけ?」
いけしゃあしゃあとそんなことを言いながら、凛音さんはカードキーをさらりと取り出してホテルのエントランスへと向かって行く。
彼女の言葉に抗う気力を失ってしまった俺は、フラフラとそれについていった。
悔しがるべきは、彼女がこういうことをやらかすことに気が付けずに車に乗ってしまった俺の浅はかさである。
そういうことが出来る人だと、断言した矢先だったというのに。
散々後悔しながら、俺は千鳥足でエントランスの奥まで進んでいく。
「……あれ、全部上まで行っちゃってる」
そのまま一直線にエレベーターが並ぶ場所まで向かうと、凛音さんがあらら、という感じの声を出した。
釣られて顔を上げると、確かに目の前に並んだエレベーターたちは、四基全てが別の階に向かってしまっている。
凛音さんがボタンを押して呼び出しをかけたが、この分だと一階まで戻ってくるのにそれなりの時間がかかりそうだ。
ならちょっと休むか、と思って、俺は近くにあった椅子に音もなく座る。
今はとにかく、揺れない床の上で少しでも休みたい。
流石は高級ホテルということもあってか、エレベーターの到着を待つこのスペースには椅子が何脚も用意されてあった。
それを幸いに、俺は深く深く椅子へと沈み込む。
何だかんだで午後一杯を全力で駆け抜けてしまい、色々と限界なのかもしれない。
「……部屋に戻ったら、飲み物でも頼む?何か食べたいものがあるとかなら私が頼むから、遠慮なく言ってね?」
エレベーターを待つための数分すら立っていられない俺の疲労度を察したのか、凛音さんはそこで優しい言葉をかけてくれる。
彼女が全ての元凶であることを棚上げすれば、涙が出そうなくらい嬉しい提案だった。
声色からすると一応本気で心配もしてくれているようだったが、それでも優しく対応出来る程の余裕も無いので、俺は事務的に会話を返す。
「……食べたい物は、特にありません。お腹空いてませんし、今も耳の奥がぐらぐらするので……」
「でも、デザートの一つくらい食べない?昼の様子からして、そこまで果物とか嫌いじゃないでしょ?」
「まあ、そうですが……」
そう言われて、俺はつらつらと自分が食べたいものを考えてみる。
仮に今、何か食べるとすれば、それは────。
「……このホテル、頼んだらスイカって持ってきてくれるんですかね?」
「スイカ?……玲君、好きなの?」
「大好きって程じゃないんですけど……」
好きかどうかというより、習慣と言った方が正しいかもしれない。
夏休みの殆どを茉奈の家で過ごしていた頃、毎日のように商品にならない傷物スイカを食べていたので、スイカを食べると何だか安心するのである。
一種のルーティンと化している、というか。
今のように、まだ暑いのに体力を浪費してしまった時は猶更だった。
──でも、スイカか……そう言えば、前にグラジオラスメンバーにも話したな。スイカに関するエピソード。
ルームサービスにあったっけ、と一々調べてくれる凛音さんを見ながら、俺はそんなことを連想する。
確か、茉奈がこちらにやって来たその日の出来事だ。
昔話をせがまれるままに、スイカが爆発したという話をして────。
──……爆発、か。そう言えば、あの時も……。
その瞬間だ。
丁度その瞬間、カチャリ、と俺の中で小さな音がした。
まるで、鍵を回したかのような音が。
勿論これらは比喩だが、本当に俺はそのような感覚があった。
今まで鍵は刺さっていても、終ぞ回転しなかった扉。
それがふとした瞬間に、開き切ったかのように。
「ゴメン、玲君。フルーツ盛り合わせっていうのはあるけど、スイカ単品は無いみたい。まあ流石に、旬は過ぎちゃっているしねー……」
「……凛音さん」
調べた結果を報告してくれる凛音さんの言葉を遮りながら、俺はスクッと立ち上がる。
途端に足が疲労で痛んだが、気にならなかった。
今はもう、この仮説を検証したいということしか頭にない。
「部屋に戻ったら、一つ、話したいことがあります。良いですか?」
「話したいこと?……え、何、心変わりでもした?」
「違います、分かったんです」
ヒュウ、と疲労のせいで掠れた声を放つ。
そして、真正面から彼女の顔を見ながら断言した。
「『タロス』の正体も、どういう手段を使っているのかも……そして、何故茉奈が騙されなくてはならなかったのかも。それらが全て、分かりました」
言い切ると同時に、チン、とエレベーターの扉から音が鳴る。
程なくして、「どちらに向かわれますか?」という電子音声が響いた。
──それは勿論、真相へ。
内心、そんなことを思っていた。




