木を森に隠す時
適当な壁に背中を預けながら彼女たちに向き直る。
最初に目に入ったのは、この人は何を言い出すのだろう、という顔で俺を見つめる長澤だった。
それから、よく分からないがこの状況を楽しもう、という風に口元を上げる鏡。
最後に、既視感でも抱いているような表情を見せた天沢を目に留めた。
彼女たちを前にして、俺はゆっくりと口を開く。
一先ずは、月野羽衣の嘘についてだ。
「……もう皆分かっているだろうけど、月野羽衣さんが転んだって話は全て真実じゃない。本当に転んだならあんな泥の付き方はしないし、彼女の対応も不自然だ」
「月野先輩は嘘をついている、ということね?」
「だけど、どうして嘘なんか……」
頷きながら抑え直す天沢と、疑問を呈する長澤。
彼女たちに頷き返し、俺は仮説を並べていく。
「当然、何か嘘をつかなければならない事情があったということになる。彼女は何らかの理由で、あの泥について『転んだ』と言い張らなければならない必然性があった……では、その理由とは何か」
「そこが、あの水溜まりを見たら分かったの?」
「まあ、そう言うことになる。フリースに付いていた泥は、まず間違いなくあそこで付けられたものだろうし」
ただし、とそこで注釈をつける。
「正確に言えば泥については結果的についた物というか、副産物みたいな側面が大きい。実際のところ、本当に彼女が必要としていたのは水だろう」
「水?……水溜まりの水が必要だった、ということですか?」
はてな、という顔をする長澤。
本人は信じきれていないようだったが、正解だった。
「そうだ。彼女は絶対に、何が何でも水を必要としていたんだ。そして上着にそれを掛けなければならなかった……だって彼女の上着は、その時燃えていたんだから」
「燃えっ……?」
一気に話が飛び、三人とも推理の流れに付いていけないような顔をした。
しかし、俺の話は止まらない。
ここが推理の起点であり、同時に仮説の前提なのだ。
どうしたって、最初に飲み込んでもらわなければならない。
故に俺は三人の理解度を敢えて無視して、一息に全てを告げた。
「所詮は俺の妄想だけど……結論から言う。恐らく、彼女はここで密かに煙草を吸っていたんだ。だからこそ、フリースに引火してしまった。今回の一件は、全てそのせいで起こったんだよ」
そこで俺は、自分の寄りかかっている壁────倉庫の一室に繋がる扉をチラリと横目で覗き見た。
恐らくは喫煙現場だったのではないか、と思えるその場所を。
無論、見たからと言って何か分かるはずもない。
俺はすぐに視線を戻し────思いつくままに、推理を語っていった。
「君たちの反応からして、月野羽衣の喫煙については誰も知らなかったみたいだし、噂になったことも無いみたいだが……ここから先は『月野羽衣は喫煙をしている』という前提で話を進めてみようと思う。物証は無いけど、そう考えると話が矛盾なく繋がるから」
「一つの仮定の元で進めたシミュレーションみたいなもの、と思って欲しい」
「……何時から、彼女がそう言うことをしていたのかは分からない。まだ未成年だし、煙草の調達すら難しかったはずだけど。それでもどこかでやってみたくなって、喫煙を始めたんだと思う」
「それも多分、遊びでちょっとやっているとか、魔が差して手を出したとか、そういうレベルじゃない」
「言葉の響きは悪いけど────既に、中毒と言えるレベルになっているはずだ。少しでも間が空くと、我慢できなくなるほどのヘビースモーカー。それに、彼女はもうなっている」
「何で言い切れるかって?簡単だ……そうじゃないと、自分のライブ会場で煙草を吸い始めるはずが無いからだよ。我慢できなくなっているってことは、つまりそう言うことだろう?」
「だからさっきの過程に『月野羽衣はヘビースモーカーである』という前提も加えて、彼女の行動を時系列に並べてみようと思う」
「まず普段から喫煙の習慣があった彼女は、午前のライブが終わってから、休憩がてら煙草を吸いたいなと考えた」
「これが全ての始まりだ」
「俺は当然吸ったことがないから分からないけど、煙草をよく吸う人は、吸っていない時間が長くなるとイライラしたり、集中力が無くなったりするらしい」
「多分、午前のライブをこなした時点で彼女も我慢が出来なくなったんだろう」
「荷物に紛れ込ませる形で持ち込んでいた煙草を取り出して、夜のライブの最終確認が始まる前にどこかで吸って来よう、と考えた」
「しかし彼女の場合、吸いたいからと言ってじゃあその辺りの喫煙所で吸おう、とはならない」
「理由は二つ」
「彼女がまだ未成年である、というのが一つ」
「そして彼女はアイドルである、というのがもう一つだ」
「当然だけど、煙草を吸っていいのは二十歳からだ。まだ未成年の彼女は本来吸ってはいけないし、誰かに見つかるとややこしいことになる……というか、それ単体でスキャンダルになる恐れもあるだろう」
「それにアイドルである以上、彼女は結構顔が知られている。誰に見られるかも分からないのに、外で適当に煙草を吸うことは出来ない」
「しかし煙草を吸いたいのは事実で、我慢も出来ない」
「夜のライブも控えている以上、あまり遠くに行くことも出来ない……打ち合わせや最終確認も考えれば、会場の外に出て行くことは望ましくないということだ」
「少しでも人目を気にするのなら、二重三重の理由で煙草は吸えない訳だ」
「普通なら、ここまで条件が悪ければ喫煙を諦めるところだろう。せめて今日だけでも彼女が喫煙を我慢すれば、それで済む話なのだし」
「だけど……それでも、彼女が諦めなかったとしたら?」
「どうしても、どこかで煙草を吸っておきたかったとすれば?」
「そういう思考の果てに……会場内のどこかでこっそり吸おう、という考えに至ったのかもしれない。誰にも見つからないような場所で吸えばバレないだろう、と」
「そして、彼女はこの倉庫を選んだ」
「どうしてこの倉庫を知っていたのかは、正直分からない。今までここでライブをする中で見つけていたのか、誰かに教えてもらったことでもあったのか……」
「何にせよ、彼女はこの辺りはライブ中でも人が寄り付かないということを知っていた。誰にも知られずに何かをすることも出来る、と」
「喫煙時間自体は人に寄るけど、一服入れるだけなら大して時間もかからない。夜のライブの打ち合わせまでには吸い終わるはずだ、と踏んだんだ」
「だから、すぐに行動したんだと思う」
「衣装とかは脱いで、パッと見は普通の女性スタッフのようなジャージ姿になって……寒いから、フリースの上着も身に着けた」
「ああ、それともう一つ」
「香水も持って行ったんだと思う……吸った後の臭いを隠さなければならないから」
「鏡も言っていただろう?普段は香水をそう使用しないが、化粧用としての所持くらいはしているかも、と」
「その内の一つを、彼女は持って行ったはずだ」
「そうして煙草とライター、香水をポケットにでも抱えて彼女はここまで来た。ここまでは上手く行ったんだ」
「途中で、人が滅多に寄り付かないはずのその場所で人とすれ違ってしまう──迷子になっていた時の俺と会ったんだ──というハプニングはあったけど」
「首尾よく関係者用入口を開き、適当な倉庫の中に入り込んだ」
「そしてまあ、お望み通り一服したはずだけど……」
「ここでもう一つ、ハプニングが起こった」
「ライターの操作をミスったのか、火が残ったままの煙草の吸いさしでも零してしまったのか」
「具体的にどういう経緯かは分からないが……何かの拍子に、彼女が着ているフリースに煙草の火が引火してしまった」
「フリースは難燃素材でも無ければ結構燃えやすいって言うし、有り得ない話じゃないだろう」
「上着を脱いで喫煙をしていれば、防げた事故だったはずだけど……寒いし、この辺りは掃除もされていなくて汚いから、脱いだ上着をそこらに置くのを嫌がったんだろう」
「そう言う甘い判断から起きた、一種の事故だった訳だ」
「煙草の火は燃え移り、上着の左腕を焼いた」
「このままだと火傷する。当然、彼女はすぐに上着を脱いだことだろう」
「無論、脱いだからと言ってそれで終わりじゃない。消火できずに倉庫の中の物に燃え移りでもしたら、最悪火事だ」
「彼女はすぐに、その火を消火出来る物を探した」
「……そして、ここに入ってくる時に見た水溜まりを思い出した」
「水ならあそこにあるな、と」
「この倉庫、見た限り水道の類が無い。頼れる近場の水場というのは、必然的にあれになるんだ」
「水溜まりは外にあるから、人に見られるリスクはあるけど……四の五の言っていられる状況じゃない」
「慌てた彼女は、焼け続けるフリースを抱えて入口付近まで走った」
「そして水溜まりにフリースを浸し、何とか沈火した」
「この時、彼女はフリースの左腕部分だけを水に浸すようなやり方をしたんだろう。上着の首元の部分を掴んで左腕部分を水に叩きつける、みたいな」
「これにより一先ず、フリースの左腕部分だけが濡れた訳だ」
「それでようやく、火は収まった。元が煙草だし、そんな大炎上という感じでも無かったんだろう。泥水をかけるだけで事は済んだ」
「しかし……そのせいで、彼女は問題をもう一つ抱えることになった」
「問題というとアレだけど、基本は単純な話だ」
「消火したせいで手元に残った物……燃え残った、焦げ跡のあるフリース」
「それを抱えたまま、月野羽衣は途方に暮れただろう」
「実際このフリースは、意外と扱いが難しい」
「当たり前だけど、そんな上着をまた着る訳にはいかない。誰かに見られたら絶対、『あれ、腕の部分焦げてますけど、どうしたんですか』って言われる」
「これが別の汚れなら……それこそ泥で汚れているとか、水で濡れているとかだったら、まだ言い訳も出来る」
「だが焦げ跡の場合は、そうはいかない」
「普通に休憩している分には自然に発生する汚れじゃないしな、焦げ跡って。どこかで火遊びでもしていたのかっていう話になる」
「いやそれどころか、勘の良い人なら焦げ跡を見るだけで、『もしかして喫煙しているんじゃないか』と思いついてもおかしくはない」
「焦げ跡がつくってことは、ライターみたいな火種を持っていたということ。そしてライターを持ち歩く理由なんてそう多くないんだから……実際俺は、そうやって今の推理に辿りついている」
「何が言いたいかって言うと……彼女からすれば、その焦げ跡がついたフリースは、絶対に誰にも見られてはいけない、ということだ。見られるだけで喫煙がバレかねないんだから」
「しかも──さっきポスターが貼ってあったけど──この会場、喫煙禁止だしな」
「ただでさえ未成年なのに、そんな場所で喫煙をしていたことがバレるっていうのはアイドルにとって大きな傷になり得る」
「つまり……夜のライブの最終確認が始まる前に、誰にもバレずにフリースを処分しておかないといけない。これからも、彼女が身綺麗なアイドルでいたいのなら」
「しかしいざ処分するとしても、これが中々難しい」
「一番良いのは、フリースをどこかに捨てることだが……さっきも言ったように、これからのライブがあるって言うのに会場からそう離れる訳にはいかない。つまり、会場外に捨てに行くこと自体が不可能に近い」
「捨てるだけなら会場内のごみ箱に突っ込んでおく手もあるが、これも本人の心理としてはやりたくないだろう。誰かが拾ってしまうかもしれないし」
「もし拾い主がここのスタッフなら、『あれ、このフリース、見たことあるな。もしかすると、月野さんのじゃないかな?届けてあげようか。あれ、でも焦げ跡があるな……』という流れになる可能性もあるし」
「本人の安心のためにも、出来れば処分は自分の手でやりたいだろう。そこらで捨てるというのは気分的にやりにくい」
「そういう訳で……彼女は一旦控室に戻り、フリースを自分の荷物にでも紛れ込ませて密かに持って帰ろう、という結論に至ったんじゃないかと思う」
「これはリスキーだけど、確実な手法だ。一度荷物として抱え込んでしまえば、外から漁るような人間はそうそう居ない。実際、彼女はそれを利用して煙草を持ち込んだんだろうから」
「ただこの持って帰るという手法も、中々面倒であるのも事実だ」
「この倉庫周辺はともかく、控室の方は人通りも多い。誰にも見られずに控室へ辿り着くのは不可能と言っても良いだろう」
「人通りがあるということは、そのフリースの焦げ跡も誰かに見られる可能性が高くなってしまうということ」
「人に見られないように上着を抱きかかえて持ち運んだとしても、すれ違いざまに『どうしたんですか?』と問われる可能性は残る」
「上着を隠すために控室にまで運びたいが、そのこと自体が喫煙発覚のリスクを増やしてしまう訳だ」
「だから……彼女は」
「この問題を何とか誤魔化そうとした、彼女は」
「もしフリースについて質問されても、疑われないような細工をしよう、と思ったんだろう」
「仮に見咎められても、焦げ跡に注目がいかないようにする細工」
「それが、焦げ跡の上から泥をわざわざ付着させて目立たなくする、という細工だ」
「さっきも言ったけど……上着が泥で汚れているとか、水で濡れているとかだったら、まだ言い訳も出来る。だけど、焦げ跡はそうもいかない」
「逆に言えば、ただ単に上着が泥で汚れているだけなら、見つかったにしてもまだ言い訳することが可能だ」
「だったら、焦げ跡が分からないくらいに別の汚れを上からつけてしまえば、それで問題解決だ。仮に上着について質問する人が居たにしても、普通は汚れをそう細かくは観察はしないだろうから」
「木は森に隠せとよく言うが……焦げ跡は泥に隠せということになるのかな、こういうのは」