足跡を辿ってみる時
現場に立ち入ってから俺たちがしたことは、実にシンプルだった。
俺と天沢は屋内を、鏡と長澤が関係者用入口近くの外を──班分けは何となくで決まった──適当に見て回る。
それで何か気になった物があれば報告しよう、となったのである。
別に、何か明確な痕跡があることを期待していたわけではない。
それでも何か一つ、「前回俺が来た時に見た光景」との差異や「初めてこの場所を見る彼女たちの目から見ておかしい物」があれば、それだけでも考察の材料になると思ったのだ。
そう言う目論見の元、適当に様子を伺ってみたのである。
しかし────。
「廊下を見る限り、特に変な痕跡は無かったな……」
「そうね……」
相変わらず汚い──見たところどこにも水道が無い。そのせいで掃除が十分にされていないのだろう──廊下を歩き回ってから、俺と天沢はそんなことを言い合う。
そして同時に苦笑した。
意気込んだ割に情け無い結果だが、仕方が無いだろう。
それなりに根気よく探したつもりなのだが、笑ってしまうくらいにこの場所には何もなかったのだから。
「せめて足跡とかがはっきりしていたら、月野羽衣がここに来たことの証明自体は出来たんだけどな……」
「最初に松原君がここを歩いていたって言うのが、変な風に効いてきた形ね」
そう言って、天沢はもう一度こちらに苦笑を向ける。
何となく決まりが悪く、俺はバリボリと後頭部を掻いた。
実際、彼女の言葉は正しい。
俺の足跡が廊下に既に残っているというのが、この状況をややこしくさせてしまっているのである。
ここを確認して分かったことの一つとは、それだった。
最初に俺がここに来て迷子になっていた時、俺はこの廊下に足跡を残してしまっている。
外がぬかるんでいたので、必然的に靴底が汚れていたのだ。
だからここの床にはその時点から、見つめると痕跡が分かってしまうくらいには足跡が残っている。
加えて俺は迷子になって道を探してたので、同じところを何回も行き来しており、その分足跡もぐちゃぐちゃになってしまっていた。
場所によっては、ただの黒い染みに見えるレベルだ。
何が言いたいかと言えば、その後に来たのであろう月野羽衣の足跡も、俺の足跡に紛れてしまってよく分からないということである。
仮に月野羽衣がここに来た時点で、床が綺麗な状態だったのなら、彼女の足跡はくっきりと床に残ったことだろう。
どの部屋に入ったかとか、どこで佇んでいたかとかいう行動まで読み取れたかもしれない。
もしかすると一つの証拠となった可能性もある。
しかし俺の足跡が全てを上書きしている──月野羽衣の方が後から来たのだから、下書きと言った方が正しいか──以上、それは不可能だった。
足跡を付けた張本人である俺ですら、もう床を見ても汚れがたくさんあるとしか認識できない。
だからこそ、俺と天沢が廊下を見て回っても特に収穫が無かったのである。
俺のせいという訳でも無いのだろうが、これは何となくばつが悪かった。
それを気にして微妙な表情を浮かべると、天沢が続けてこんなことを言う。
「まあ、足跡はともかく……外の地面に転んだ跡が無かったことは、純粋に収穫でしょう?あれで少なくとも、月野先輩がここで転んだ訳じゃないってことは分かったんだから」
慰めという訳でも無いのだろうが、その口調は心なし優しかった。
口調を抜きにしても間違いのない事実だったので、俺は頷いておく。
彼女の言う「転んだ跡が無かった」というのは、ここに入ってすぐに確認したことだった。
俺たちは一番最初に、地面の様子を見ておいたのである。
この辺りの地面に、月野羽衣の肘の跡は残っていないかと。
これは、鏡が言っていた可能性を受けての調査だった。
話の中で出ていた「月野羽衣は建物から出ようとした瞬間に転び、左腕だけ地面に衝突させたのではないか」という仮説である。
仮にあの仮説が正しかったのなら、その痕跡は地面のどこかに残っているはずだった。
手が汚れていない以上肘などから地面に衝突しているはずであり、そうであれば地面が抉れないはずが無い。
特に「建物と外の境界で転ぶ」というのは、入り口近くでしか有り得ない現象なのだから。
だからこそ俺たちが足を踏み入れて地面を乱してしまう前に、すぐに調べたのである。
足跡以外に、何か人が転んだような箇所は無いか、と。
その結果が「痕跡は全く無かった」という確認だったのだ。
一応、転んだ後に地面を整え直したという可能性もあるが、転んだばかりの人間がそんな丁寧なことをするだろうか。
会場内でも地面が舗装されていないエリアはここくらいらしいので、他の場所で転んだという可能性はまず有り得ない。
天沢の言う通り、それを確認することで彼女が本当に転んだ可能性を減らすことは出来たのだ。
まあ、それ以外のことはまだ全く分かっていないのだが。
そのことに軽い徒労感を抱き、俺は話の方向性を変えてみる。
「これで一応、廊下とかは全部回ってみたけど……倉庫の中も全部見てみるか?仮に月野羽衣さんが室内に入ったのなら、何をしたか分かるかもしれないし」
そう言って、俺は近くの扉の方を見る。
今までは室内を一々見ていなかったのだが、そちらも調べた方が良いかと思ったのだ。
しかしそこで何度目かの鋭い指摘が天沢から入る。
「でも、倉庫だけでも広いし、結構部屋の数が多いから……全部見たところで、分かるものなの?」
少し消極的な意見ではあった。
だが聞いた瞬間、確かにと思ってしまう。
というかよく考えてみれば、倉庫の中の様子など最初に来た時にも俺は見ていない。
つまり比較対象が無いので、仮に何かおかしなものがあっても、俺たちはそれがおかしいかどうかすら分からない可能性がある。
元々どんな室内なのかすら、分かっていないのだから。
──だったら、最初に来た時に見た廊下の様子はともかく、室内は調べるだけ無駄か……。
そんなことを思って、俺はやや勿体ない心境で近くの扉を見る。
見かけ上全ての扉は閉じられていたが、幾つかガチャガチャやってみたところ、鍵が掛かっていない扉が複数あったのだ。
だから、中の様子を見るぐらいは出来るのだが────。
──……あれ?
そこで、不意に。
ほんの一瞬。
一瞬だけ、そこで俺の動きが止まる。
そして同時に、「何か変だ」と思った。
今、ほんの少しだけ。
俺の記憶と目の前の風景に、齟齬が生まれた気がする。
僅かな差であるが、無視してはいけないような重要な話。
明確に、最初に来た時とは異なる光景。
もっと言ってしまえば────間違いなくここに月野羽衣が来たという決定的な証拠。
そんなものが、目の前にあるような気がする。
──……そう、扉だ。扉の状態がおかしい……?
忙しなく動いていた足を止め、俺はその場で考え込む。
隣に居る天沢は流石に驚いたと思うのだが、何かを察してくれたのか特に何も言わなかった。
考えに集中していい、ということなのだろうか。
その配慮は感謝すべきものだった。
彼女が与えてくれた時間のお陰で、俺は確かに。
最初に来た時の風景を思い出したのだから。
──そうだ、おかしい……最初に俺がここに来た時、倉庫の室内には碌に立ち入ってない。扉だって特に弄っていない。なのに今、全ての扉が見かけだけでも閉じられているっていうのは……。
頭の中で、ようやく違和感が形を成す。
その驚きから、俺はすぐに声を出そうとした。
今の発見を、天沢に伝えたくて。
……しかし、残念ながら。
そこでいきなり長澤と鏡の声が響いてきたので、俺がそれを口に出すのは中断された。
「松原さーん、もしかしてこれ、関係ありますー?」
「茜も来てー!菜月が何か、面白いの見つけたみたいー!」
ライブとライブの合間ということで外は結構静かであり、その分二人の声が大きく響く。
聞こえた瞬間に、俺と天沢は同時に入口の方向を見つめた。
「今の、菜月と奏……?」
「……行ってみようか」
図らずも俺の発言にかぶさるような形となったが、口ぶりからすると何やら見つかったらしい。
俺は天沢と一瞬顔を見合わせ、それから声の方向に向かって走っていった。
鏡と長澤が佇んでいたのは、入り口近くの水溜まりの傍だった。
こちらの顔を見て、こっちこっち、と言うように手招きをしている。
そこまで走って行くのも待っていられず、俺は走りながら声をかけた。
「……長澤、何か見つけたのか?」
「はい、その、関係ないかもしれないですけど……」
足を止めた俺がそちらを見つめてみると、やや恥ずかしそうに、或いは不安そうに長澤は顔を逸らす。
彼女としても、滅茶苦茶自信がある発見では無いらしい。
しかしそれでも伝えたいと思ったのか、恐る恐る地面の方を指さした。
「あの、ここに水溜まりがありますよね」
「あるな。俺が最初に来た時も、存在していたものだ」
「ええ、そうだと思います。それで、水溜まりの縁のところを調べたんですけど……何かこう、ここ、色が変じゃないですか?」
──色?
そう言われても、目に映るのは茶褐色のぬかるんだ地面だけである。
だが長澤はその大きな両瞳で「もっとよく見てください」と訴えていた。
故に、俺はちょっと汚いと思いながらも地面に顔を近づけて凝視し────程なく、発見をする。
「二色あるな……?」
意図せず、声を出してしまう。
するとすぐに、長澤から反応があった。
「で、ですよね?その、乾いたのと、湿ったのが混ざっているというか……」
「言われて見れば、確かにそうかも……?ちょっとこう、乱れてるかな?」
「そうです。泥が一面的じゃない、みたいな……」
鏡の相槌に合わせて、割と頑張って長澤が説明をしてくれる。
少し分かりにくい言い方だったが、確かにそうとしか言えない状態だった。
端的に言えば、俺たちが見つめている水溜まりの縁が少しだけ掘り返されているのである。
勿論一見して気が付かなかったくらいなので、そう深い掘り方ではない。
地面の表面だけザザッと弄った、という感じだ。
小さな変化だが、その行為のせいで表面の乾いた泥とその奥に潜んでいる湿ったままの地面が混在している。
これによって、地面が二色あるように見えるのだ。
微妙な痕跡だが、確かに重要な痕跡でもある。
他の地面の様子がそんな物になっていない以上、自然にこんな跡が出来るはずもない。
この跡は人力で作られたとしか考えられないのだ。
俺が最初に来た時は、水溜まりに足を踏み入れないように気を付けて歩いた。
当然、こんな跡は作っていない。
つまりこれは俺の後に来た、月野羽衣によって付けられたものであるはずなのだ。
どういう理由なのかは、まだ分からないが。
──しかし、こんな微妙な変化によく気づいたな……。
痕跡について観察しながら、俺はまずそんなことを思う。
同時に、長澤の方を横目で見た。
割と、観察力が高いタイプの子なのだろうか。
そう言えば知り合った頃にレッスン室で会った時も、俺の存在に真っ先に気が付いてお辞儀をしてくれたなあ、と変なことを思い出す。
尤も、そんなことは今はどうでもよくて。
すぐに、俺たちはこの痕跡の考察に移った。
口火を切ったのは鏡である。
「だけど、これはまたどうして……水溜まりの近くを、誰かが弄ったてこと?」
「というよりも……何かを使って、地面の表面を拭ったんじゃないかしら。こう、何度も水溜まりの縁を往復させる感じで」
疑問を呈する鏡の前で、天沢が足を使って実際にその動きをやってみた。
水溜まりから離れた場所で、右足を回すように往復させ、近くの地面を拭うように動かす。
すると確かに、薙ぎ払われた表面と奥の土が混在して見えた。
「確かに、そんな感じの跡だな。つまり彼女は……わざわざ上着を手に持って、この地面に擦り付けたのか?」
彼女たちの様子を見ながら、俺はそう言ってみる。
我ながら訳の分からないことを言っているとは思っていたが、流れ的にそうとしか考えられないのだから仕方が無い。
過程はともかく、最終的に彼女の上着にピンポイントで泥が付着している様子を俺たちは目撃している。
加えて先程確認した通り、ここには人が転んだ痕跡はない。
そうなると、彼女が上着の左腕部分を持ってここの泥を意図的に付着させたとしか考えられないのだ。
「そうだとすると、確かに左腕の部分にだけ汚れは付くでしょうけど……」
「でも、一体何のために?何で、泥を上塗りしないといけないの?」
俺の言葉を受けて、天沢と鏡が疑問を呈する。
それに後押しされるようにして、長澤がもう一つ気になることを言った。
「月野先輩がわざと上着を泥で汚したにしても……その、何故ここだったんですかね?」
「へ?どういうこと?」
長澤の言っていることがよく分からなかったのか、鏡が問い直す。
それを受けて長澤は少し恥ずかしそうな顔をしたが、ちゃんと説明してくれた。
「その、何故月野先輩が上着を泥で汚したかったのかは知りませんけど……それをするだけなら、どこでもいいはずじゃないですか。入り口の近くでも、もっと遠くでも、この辺りの地面なら泥はどこにでもあるんですから」
「そう言えばそうだね、この辺りならどこでも舗装されてないんだし」
「はい、だから……どうしてわざわざ水溜まりの近くだったんだろうって思って……水溜まりの水で濡れそうな場所に近づかなくても、上着を泥で汚すこと自体は出来るのに。何でだろう、と」
──……確かにそうだな。何か、水溜まりの近くじゃなければダメな理由でもあったのか?
長澤の疑問を受けて、俺は考え込む。
彼女の疑問はかなり鋭いものだった。
やはり彼女は、この手の思考力が高いように思える。
アイドルとして大成せずとも、刑事になれるのではないだろうか。
彼女の言葉を聞くだけで、自分の思考が加速される感覚があった。
──しかし、水溜まりか……水、水……。
長澤の意見を咀嚼しながら、水、水、と何度も口の中で発音する。
何か、思いつきそうな感覚があったのだ。
だからこそ何度もその言葉を繰り返して、それから────俺はふと、こんなことを思いつく。
──待てよ、もし……水溜まりじゃないと駄目だったと考えたらどうなる?彼女は泥よりも先に、水が必要だったんだとしたら……?
それは本来なら、くだらない思い付きだった。
水溜まりの水なんて、必要とする人はそうそう居ないだろう。
考えること自体、馬鹿げている。
しかしそれを言うなら、話の主題となっているこの泥だって普通ならわざわざ必要とするような物じゃない。
ならばこの仮説だって、考えること自体はそうおかしくは無いだろう。
月野羽衣が何が何でも水溜まりの水を必要としていた、と考えても。
そうだ。
何らかの理由で、月野羽衣はどうしても水が必要だった。
そして水を手に入れた結果、上着が泥で汚れた。
左腕部分に限局して。
もし、そうだとしたら。
そんなことが有り得る状況というのは。
何が何でも、水を必要になるような。
そんな、服に絡む緊急的な事態と言えば────。
「ああ、そうか……そういうことか」
不意に、俺の頭の中に、ある光景が浮かんだ。
その状況なら確かに水が必要になるよな、という情景。
泥水だろうが地面に擦り付けようが、躊躇ってはいけない緊急事態。
そんな細かい点はお構いなしだろう、というシチュエーション。
「だから、わざわざこの場所に……水溜まりの傍に来てまで……なるほど、泥が必要になったのはその後か?」
つい、呟いてしまう。
その言葉に連想されて頭に浮かぶのは、今までに見てきた証拠たち。
そして、それらを繋ぐことの出来るとある仮説だった。
地味な恰好で、密かにこんな場所にまで来ていた月野羽衣。
彼女が立ち去った後、乱れた様子を見せている目の前の水溜り。
汚れたいんだか汚れたくないんだが分からない、あのフリースの持ち方。
普段は使用していないという、大量の香水。
ここに呼ばれる前に、俺が見つけていた扉の特徴。
彼女が、何の目的のためにどの部屋を使っていたのかを示す決定的な証拠。
それらを頭の中でまとめてしまえば、これらの光景はある種必然の物となる。
一度分かってしまえば、今まで何故分からなかったのか理解できないくらいだ。
ああ、そうだ、そういうことだ。
よくよく考えれば、ありふれた話だ。
何なら、少し古い話と言ってもいいかもしれない。
これをアイドル特有の問題と言ってしまえば、語弊があるだろうが。
ただし、後一つだけ。
この仮説を補強するために、聞いておくべきことがある。
別に聞かなくても推理が出来ない訳ではないが、聞いておいた方が無難というか。
そう思いつつ、俺は口を開く。
「……なあ、鏡」
「……どうしたの、松原君?」
鏡は、俺の様子が唐突に変わったことを察していたらしい。
少し強張った声で、返事をする。
変に怖がらせて申し訳ないなと思いつつ、俺は続きの問いを述べた。
「今まで聞いていなかったんだけどさ……月野羽衣さんって、何歳?」
「……今年で、十九歳だけど。それがどうかした?」
だろうな、と思った。
中学生からアイドルをしていて、マネージャーが五年間付き添ってどうのこうのと言っていたのだから、そのくらいの歳になる。
そしてこの情報が、最後のピースだった。
頭の中で俺はその情報を十分に咀嚼し────それから、声を発した。
「……分かったと思う。月野羽衣さんがああいう変なことを言っていた理由」
そう言った瞬間、以前に俺の推理を聞いたことがある天沢はともかく、鏡と長澤が驚いたように肩を揺らしたのが分かった。
それを尻目に、俺はもう一言口にする。
「だけど、ここじゃ言えない……だから、一度倉庫の元に戻ろう。一応、他の人が聞けないような場所に」
そう告げて、俺は真っ先に倉庫の方に戻っていく。
丁度、俺と天沢が先程立ち止まっていた場所にまで向かって。
三人がついてきたことを確認してから、前回と同様に始まりの言葉を告げた。
「さて────」