疑問と納得を反芻する時
納得した半分というのは、言うまでもなく泥の件についてである。
彼女にぶつかってしまった時、何故か俺の体に泥が付いてしまったのはあの上着のせいだったらしい。
見たところ、あのフリースの左腕の部分だけがかなり泥で汚れているというか、ぐちゃぐちゃになってしまっている。
あれにぶつかったなら泥の一滴や二滴、付着してしまうだろう。
そう言う意味で、俺は先ほどの出来事は妥当な事象だった。
────しかし、一方で。
俺の心のもう半分は、疑問を感じ取っている。
何故疑問に思ったのかと問われると、その説明は少々ややこしい。
何というか、言語化しにくい感覚だった。
平たく言えば……「違和感があったから」という説明が一番近いのだろうか。
月野羽衣の姿を見た時に、何かおかしいと感じたのだ。
彼女の言っていることと、俺の目の前に見えている彼女の姿。
その二つは微妙に一致していないのではないか────?
冷静に考えてみれば、取るに足らないような思い付き。
少なくとも、必死になって考えるようなことではない。
しかしどういう訳か、この日の俺はその矛盾が妙に気になった。
頭の片隅でじっくりと考え込んでしまう。
何か、この疑問を見過ごしてはいけないという予感でもあったのか。
この前のタブレットの一件から、こういうことが増えた。
バイトの中で出会った小さな謎について、ついつい真剣に考えこんでしまうという奇妙な癖。
今もまた、それが発動している。
「じゃあ、私、そろそろ行くね?この上着も捨てないといけないし、そろそろ夜の部の最終確認があるから……」
「あ、はい、呼び止めて、すみませんでした!」
そんなことを考えているうちに、目の前で鏡と月野羽衣の会話が終わった。
呼び止める間もなく、月野羽衣は今度こそ歩き去って行く。
一度は鏡相手に掲示していた上着を、もう一度胸元にしっかりと抱え込んで。
一応綺麗な左手を振ってはいたが、その動きは妙に素早かった。
キツめの香水の匂いだけを残して、彼女の姿は消えていく。
──何か、敵から逃げているみたいな走り方だな。失礼だけど……。
有名アイドルと別れた際の感想としてはアレだが、俺は月野羽衣の背中を見ながらそう考える。
既に違和感について考え込んでしまっていたことが、俺にそんな印象を抱かせてしまったのだろうか。
俺は彼女が立ち去ってからも、俺はついつい考え込む。
自分でも変なことをしているという自覚はあったが、どうしてもその思考は止まらなかった。
そうやって思考を進める様子は、傍から見ていてもおかしな物だったのだろう。
不意に、俺の隣から長澤が声をかけてきた。
「……どうかしましたか?その、何か、考え込んでいるみたいですけど……」
「え?……ああ、それは、その」
やや心配そうな様子で、長澤がこちらを見つめてくる。
突然押し黙ってしまった俺を見て、体調でも悪いのかと不安になったらしい。
真っすぐな彼女の心配に狼狽えた俺が口ごもっていると、助け舟を出すようにして天沢がこんなことを言った。
「もしかして……松原君、謎解きしているの?前みたいに……」
──……ストレートに来たな。
あまりにも直接的なその声に、俺は少しのけぞってしまう。
唯一俺の推理を聞いたことがあるからか、天沢の質問は正鵠を射ていた。
俺の様子を見て、前回の謎解きの事を思い出したらしい。
だが真実を言われている以上、そうそう否定も出来はしない。
自然、俺は彼女の言葉を肯定することになる。
「まあ、そんな感じ……あの月野羽衣って人の様子を見ていたら、ちょっと気になることがあって。それで、考えていたんだ」
補足説明を入れると、眼前の二人はそれぞれ対照的な反応を示した。
天沢はやっぱり、とでも言いたげな納得顔。
長澤は何ですかそれ、とでも言いたげな困惑顔。
正反対の反応に、俺は少し苦笑してしまう。
そしてどう説明しようか、と思いあぐねた。
するとそこへ、月野羽衣への見送りを終えた鏡が会話に乱入してきた。
「ん?何々?どうかした?」
「あ、奏さん。今、松原さんが、月野先輩について気になることがあるって言ってて……」
「何か、今のやり取りで違和感があったらしいの。松原君、こう言うことについて凄く鋭いから、話を聞こうかなと思ってて……」
「ふーん?そんな特技あるの?」
何やら過剰な紹介と共に、二人が鏡に状況を説明してくれる。
止める間もなく、鏡もまた興味深そうな顔をこちらに向けることとなった。
とりあえず、俺の抱いた違和感とは何か聞きたいらしい。
──あれ、これ、三人全員に言った方が良い流れか?
三人の視線を受けて、俺は少し驚く。
あくまで俺個人の疑問だったのに、一瞬で話が大きくなってしまった。
そのことに俺は多少怯えに近い感情を抱いたが、ここまで来るともう話さないという選択肢は許されないような雰囲気がある。
鏡など、元々のゴシップ好きの性格も相まってか瞳をキラキラと輝かせながらこちらを見ていた。
図らずも、グラジオラスの三人が俺の話を聞くような雰囲気になる。
突然の流れに困惑しつつも、結局俺は他の人の邪魔にならないように廊下の端に寄っていった。
そしてぞろぞろと付いてきた彼女たちを前に、俺は一先ず事情を説明する。
「実はさっき、俺は月野羽衣さんとバッタリ出会っていたんだけど……」
月野羽衣とのファーストコンタクトに関する説明は、そう長くはかからなかった。
俺が彼女と話した時間というのは、そう長い時間でも無い。
サクッと説明を終わらせ──鏡には「松原君と月野先輩、漫画みたいな出会い方してない?」とからかわれたが──いよいよ、俺が感じていた「矛盾」に言及した。
「その上で俺はさっき、月野羽衣さんにまた出会った訳だが……あの人、鏡との会話の中で『転んじゃったから上着が泥で汚れた』みたいなことを言っていただろ?」
「そうだね。実際、腕の部分が泥まみれだったし」
「そこの部分が、既におかしいんじゃないかと思って……だってほら、普通泥の上で転んだら腕だけじゃなく、足の方も汚れないか?」
最初に疑問に思ったのが、そこだった。
何というか、汚れが足りないのだ。
月野羽衣の格好は、転んだという割には綺麗過ぎたのである。
俺が見た限り、泥が付いてしまったという上着の左腕部分は結構派手な汚れ方をしていた。
泥がベッタリくっついてしまって、生地が見えないくらいだ。
ちょっとよろけて地面と接触してしまったとか、そういうレベルではない。
つまり彼女の転び方は、結構派手な物だったはずなのである。
そうでなければ、ああいう汚れ方はしない。
腕ごと泥に突っ込むような、酷い転び方だったはずだ。
だからこそ────何故彼女の体は、大して汚れていないのかという疑問が湧く。
そんなに派手に転んだというのなら、腰やら足やらはもっと汚れていてもよさそうなのに。
上着を脱いでジャージ姿になった彼女は、普通に清潔な様子だった。
詰まるところ、アンバランスなのだ。
派手に転んだという風な話をしているのに、汚れているのは上着の一部、ピンポイントの箇所のみ。
ああいう器用な転び方というのを、人間は出来るのだろうか。
「えー、でもさー。そこはほら、丁度建物の中と外の境目になるようなところで転んだんじゃない?それだったら、下半身だけ汚れないってこともあるでしょ?」
俺の話を聞いた鏡が、そこで口を挟む。
上手い具合に目の前にある関係者用出入口を、彼女はビシッと指さした。
「例えばああいう扉を通ろうとしてさ、今まさに外に出るって瞬間に転んじゃったら……体の大部分はまだ室内にあるから殆ど汚れなくて、上半身の方だけ外の地面に衝突、とか言うのも有り得るんじゃない?」
「あ、確かにそれなら、左腕だけピンポイントで汚れるのも有り得るかも……」
割と鋭いことを言う鏡の意見に合わせて、納得したように長澤が相槌を打つ。
実際、一理ある意見だった。
その考えに従うと、それはそれで引っ掛かる点があるという点を除けばだが。
鏡には悪いが、俺はその矛盾をすぐに指摘する。
「確かに、それだと説明はつくけど……その場合、手はどうなる?」
「手?」
「ああ。普通はさ、転びそうになった時って咄嗟に手を前に突き出すだろう?受け身を取るというか……カバーするために」
そう言いながら、俺は実際に両掌を前に突き出すようなジェスチャーをする。
話を聞いている三人も俺の真似をしてか、おもむろに両手を前に突き出すポーズを取り、この場は一気にハンドパワーの講習会みたいな絵面になった。
どことなくシュールな印象を抱きながら、俺は解説を重ねる。
「人間が転んだ時、最初に地面に触れるのは大体本人の両手だ。それなのにあの人、手が綺麗過ぎたなと思って。あの人の手、特に汚れていないみたいだったから」
「……そう言えば、そうね。最後に手を振っていたけど、普通に綺麗だったもの」
先程の別れの場面を思い返すように、天沢が頷く。
そう、あの時……彼女の手を見た瞬間、俺の疑問点は増えたのだ。
あんなに泥が付着してしまうようなぬかるんだ地面で転んだ割に、この人の手は全く汚れていないな、と。
「肘から地面に突っ込んだとか、フリースの袖が余っていて掌が隠れる形になったとか、色々手が汚れない可能性は考えられるが……」
「でも確かに、そう言われると変な気もしますね。普通ならまず、手から汚れそうなものですけど」
「もっと細かく言えば、上着であるフリースの下に着ていたはずのジャージが殆ど汚れていないっていうのも引っ掛かるしな」
長澤の呟きにそう返すと、彼女は「ジャージ?」と首を捻る。
後ろの方に居た彼女の視点からでは、月野羽衣の様子はよく見えなかったらしい。
自然、俺が説明をすることになった。
「彼女が見せていたあのフリース、見た感じそこまで分厚そうな生地じゃなかっただろう?寧ろ、割と生地自体は薄めというか」
「まあ確かに、そんな感じでしたけど……」
「だからもしフリースを着たまま転んだというのなら、下に着ていたジャージにも、ちょっとは泥水が染み込んでいても良いはずなんだ。泥って水っぽいし、多少変色するくらいは……」
しかしそんな変色の跡も、下に着ていたジャージには無かった。
ジャージの生地は淡い青だったので、元々の色に隠れているということは有り得ない。
泥水が染み込めば、すぐに分かるはずなのだ。
「そう聞くと変に思えるけど……じゃあ、これならどう?実は月野先輩はここに来るまでに、手やジャージをトイレとかで洗ってきていた」
「洗っていた、か……」
「そう。もう完全に駄目になってしまったフリースは捨て置いて、目につく汚れは取っておいた。だからああいう風な姿になった、というなら説明が付かない?」
話にのめりこんできたらしい天沢が、そこで新たな可能性を提示してくる。
これまた、中々鋭い意見というか、妥当な仮説だった。
しかし────。
「確かに、そうかもしれない……だけどその場合は、彼女の上着の持ち方が気になる」
「持ち方?……何か、変だった?」
「ああ。あの人、汚れた上着を、こう……抱きかかえるみたいに持っていなかったか?」
先程の両手を突き出すのと同じく、俺は実際に服を抱きかかえる姿を再現してみる。
この点についても、見た瞬間に引っ掛かっていたのである。
そのくらい、明らかに変だったのだ。
汚れて泥が付着したままの服をあんな風に持つ、というのは。
俺の言葉を受けて疑問に感じたのか、話を聞いた鏡が確かに、という感じの顔をする。
「そっか……普通汚れた服を運ぶなら、自分の体からは離して持つもんね。それこそ、ゴミでもつまむみたいに。つまり、わざわざ途中でトイレとか寄って、服や手を綺麗にしていたのなら……」
「猶更、泥が付いたままの上着が自分の体に触れないよう、気を付けるだろう?せめて泥の付着している面は折り畳んで直に触れないようにするとか、そういう配慮をするはずだ。自分のためにも、周囲のためにも……少なくとも、抱きかかえるような運び方はしない」
しかし、実際にはそんな配慮はされていなかった。
彼女とぶつかった際、俺の体に泥が付着したのがその証拠である。
あそこで俺に泥が付着したということはつまり、上着の泥が付着した部位は外部に露出していたということなのだから。
つまり月野羽衣は上着を持つにあたって、泥の付着した面を露にしたまま胸元に抱きかかえるという、汚れたいんだか汚れたくないんだかよく分からない行動を取っているのである。
既にトイレにでも寄って自分の手や服を既に綺麗にしていたというのなら、有り得そうにない仕草だ。
矛盾というか、意味不明というか。
仮に時間などの都合で焦っていたにしても、行動の意図が読めない。
「……何だか、不思議な感じですね。ただ単に上着の一部が泥で汚れているというだけの話なのに、意外と妥当な説明がつかないというか」
「逆に言えば、月野先輩がそのくらい筋の通っていない行動をしているということにもなるけど。少なくとも普通に転んだだけでは、ああいう汚れ方は有り得ないみたいだし」
そこまでの説明を理解してか、ある種の感心を含んだ言い方で天沢と長澤がそんな感想を漏らす。
どうやらここまでの説明で、俺とほぼ同じ疑念を抱いてくれたらしかった。
「でも実際、月野先輩の上着が腕だけピンポイントで汚れて、月野先輩自身はほぼ汚れていなかったのも事実なんだよね……本当に転んだ場合はああいう汚れにならないとすれば、どうなるの、この場合?」
一方、鏡の方は、そんな疑問を口にする。
彼女の方も、真相が気になったようだった。
どういう状況なら、あんな汚れ方も有り得るのか、と。
真剣に考える彼女の顔を見た俺は────ふと「一番有り得ない可能性」を言ってみようか、という気分になる。
先程から、ある仮説を思いついてはいたのだ。
ただ、非現実的すぎるので言わなかっただけで。
それを彼女たちに急かされた気がしたのか、俺はすぐに口に出した。
「それは、まあ……わざと、ということになるな」
「わざと?」
「ああ。要するに、実際には転んでなんかいないんだ。あの汚れは転んで付いた物じゃない……それを何らかの理由で、『転んだ』ということにして誤魔化しているということだ」
それを告げた瞬間、三人が三人とも当惑した表情を浮かべた。
さらに反射的にか、鏡がこう問いかけてくる。
「でも……何で、そんなことをする必要があるの?どうして、わざわざ私たちに嘘を……」
──そこなんだよな……。
問われておいて何だが、俺は鏡の言葉に深く納得して頷いてしまう。
そのくらい、彼女の疑問は尤もだった。
俺たちが話しあっているこの謎は、どうやってやったかについては大して問題では無い。
フリースを脱いでから腕の部分を地面に叩きつけたら、それだけでああいう汚れ方は作ることが出来る。
問題となるのは、動機の方だ。
何故、そんなことをしたのか。
それに至るまでの経緯はどんなものか。
どうして、その理由を「転んだ」として誤魔化したのか。
抱きかかえるような持ち方を────まるで、上着を隠すかのような持ち方をしていたのは、何故か。
この辺りの動機がさっぱり分からない。
正直、現状ではお手上げである。
勿論、適当な妥協で手打ちにすることも出来る。
左腕だけ汚れたのは、脱いだフリースの左腕部分を水溜りにでも落としたからかもしれない。
俺たちに「転んだ」などと言っていたのは、単純に急いでいて説明を省略しただけかもしれない。
あの抱きかかえるような持ち方だって、実は本人なりに体が汚れない工夫をしていた可能性はある。
他にも色々と、動機はでっちあげられることだろう。
しかし正直、それらの理由は俺の中では全くしっくりこなかった。
如何にも適当にそれっぽいのを考えました、という感じがしてしまう。
もっとこう、何か明確な理由があるような気がするのだ。
そう思ってしまうくらい、彼女の行動は怪しい。
ここに来る前、あの狭い通路で出会った事だって今考えるとおかしかった。
何の用があって、ライブの主役であるアイドルがあんなところを歩いていたのか。
その理由だって、まだ分かっていない。
だからこそ、俺は考え込んでいたのだ。
何か彼女の行動に、納得のいく説明は出来ないのだろうか、と。
……こうして、答えは出ていないが俺が感じていた大体の疑問は説明し終わった。
俺が語れること、知っていることというのはここまでである。
──そうなると、次は……彼女たちの番、か?
いつの間にか真剣にこの謎について考えてくれている三人を前に、俺はそんなことを考える。
そして、その思い付きに従うままに口を開いた。
「……なあ、三人とも」
「ん?何々?」
「何か質問?」
「どうしました?」
鏡、天沢、長澤の順に反応がある。
そんな彼女たちを見て、俺は一つ頼みごとをした。
俺が知る由もなく、彼女たちはきっと知っているであろうことについて。
「よければ、で良いんだけど……三人の目から見て、今日の月野羽衣さんにおかしな点は無かったか教えてくれないか?午前中にあったって言う、ライブの話でもいい。この謎を解くには、そういう情報も必要……な気がする」
そう言って、俺は軽く頭を下げる。
するとその瞬間から、月野羽衣の午前中の様子について三人が脳内で反芻し始めてくれたのが分かった。