物語が始まる時
唐突だが、物語の始まりにはある程度決まった種類があると思う。
例えば、自分が猫であることを紹介するもの。
或いは、昔々と舞台となる時代を紹介するもの。
物によっては、最終回の一場面を敢えて最初に持ってくるというタイプもある。
何故こんなにも種類があるのか。
その理由を辿っていけば、ストーリーの最初である「掴み」を目立たせるため、という尤もな理由が見つかることだろう。
そう、「掴み」と言う物はどんな作品においても大事だ。
これは物語だけの話ではない。
歌でも、ドラマでも、絵画でも。
最初の場面で見た人間を惹きつけさせることは、どのジャンルでも必要とされる。
そして俺の場合。
すなわち、普通の高校生である松原玲の場合。
その始まりを告げたのは────。
「お前、しばらくウチの事務所でバイトしろ。アイドルのマネージャーになれ」
「は?」
────我が姉による、理不尽な一言だった。
「えーと、聞き間違いかな?もう一回言ってもらえる?姉さん?」
念のため小指でぐりぐりと耳の穴を掃除しつつ、俺は姉さんの言葉を聞き返す。
動揺のあまり、普段はしないような変なイントネーションになってしまった。
こんな声を出したのは人生初だ。
余談だが、「聞き間違いかな?」などという言葉を人生で言ったのも、これが初めてだった。
アニメや漫画ではテンプレートな表現だが、そうそう現実では使わない言葉だろう、これ。
そしてそういったアニメや漫画の例にもれず、姉さんが放った言葉は極めてテンプレートなものだった。
「何だ、聞こえなかったのか?お前には、今日からウチの事務所で働いてもらおうと思う」
続けて「まあ、忙しくない時だけだがな」という言葉が響いた。
「……何で?いや、それ以前に……」
話の内容そのものより、その進め方に疑問がある。
いくら何でも、話に脈絡が無さ過ぎでは無いだろうか。
ついさっきまで、俺は姉さんと「昼食をどうするか」について話していたはずなのだが。
もしかすると姉さんは、今の状況を忘れてしまったのだろうか?
ふとそんなことが心配になった俺は、とりあえず現状の把握が出来ているのか確認したくなり、そこを問いかけた。
「えーと、姉さん、今日が何日で、どういう日だったのか、わかる?」
「……四月五日だが?お前の高校の入学式があった日だ。入学式が午前中に終わったからこそ、こうやって昼には一緒に家に帰っているんだろう?」
突然何だ、とでも言いたげな雰囲気で姉が言葉を返す。
それに対して、俺は神妙な顔で頷いた。
そうだ、ここは合っている。
俺は今日の午前中、頑張って受験勉強をした上で受かった高校の入学式に出席していた。
要は、今日は高校生活初日なのである。
そして目の前にいる姉さんもまた、俺の保護者として入学式に出席していたのだった。
仕事で何かと忙しい両親の代わりとして。
──よくよく考えれば、その時点でなんか変だったけど……。
そう思い返して、俺は視線を前にやる。
そこにいるのは十歳年上の俺の姉────今年で就職四年目となる松原夏美だ。
パリッとしたスーツで身を固め、細身かつ背の高い身体が良く映えるように立つその姿は、身内贔屓を抜きにしても中々格好いい。
実際、その見た目に違わずバリバリのキャリアウーマンなのだから、完璧だろう。
加えて彼女の就職先は、アイドルのプロデュースで有名な大手芸能事務所「ボヌール」。
確か、役職はプロデューサー補佐だったか。
若くしてその立ち位置まで上り詰めたという事実こそ、彼女の能力を証明している。
だからこそ、今日のこの状況は変だった。
入学式の最中は流石に学校の方に意識が向いていたためにおかしさを感じていなかったが、今は明白に感じ取れる。
というのも、若いなりに大きな仕事を任されているのか、我が姉は非常に忙しいのだ。
家に帰ってこない日があることなど、当たり前と言ってもいい。
先述したように両親も忙しいので、実質上俺の家は一人暮らしのようになっているくらいだ。
だから今日の入学式も、俺は普通に一人で行くつもりだった。
姉さんの仕事の忙しさからすると、来れるはずが無い。
しかし、何故か姉さんは入学式に出席した。
となると、それなりの理由があったと思うべきな訳で────。
俺は適当に状況を推理し、思いついた中で有り得そうな可能性を口に出してみる。
「……ええとつまり、姉さんは俺にバイトの紹介をするのが目的だったのか?だからそのついでに、入学式に出席していた、とか?」
「いつものことだが、聡いな。その通りだ。ほれ、履歴書と紹介書。あと、事務所のパンフレット」
鞄をゴソゴソと漁ったと思うと、ほい、とばかりに複数枚の書類が投げつけられる。
ぎゃあ、とやや大げさに驚きながらも受け取ると、姉がやや楽しそうに言葉を続けた。
「履歴書の書き方やら何やらはそこに書いてあるから、それに従って埋めておいてくれ。それで、今日中にウチの事務所にまで持ってきてくれたらいい。住所もそこに書いてある」
「いや、それ以前に、何でこんな急にバイトの紹介を?というか芸能事務所って、バイトとか雇ってるの……?」
あまりに急すぎる流れに困惑し、俺はとりあえず待ったをかける。
元々姉さんは即断即決の権化のような人だが、流石にここまで強引な人では無かった……はずだ、多分。
何はともあれ、この行動の理由を聞きたい。
姉さんが入学式に来てくれた理由は分かったが、それ以外の事情がさっぱりである。
だから矢継ぎ早に質問をしたのだが────間の悪いことに。
俺がその問いを発したのとほぼ同時に、姉さんのスマートフォンがピロピロと鳴りだし、俺の疑問は封殺されてしまった。
「はい、こちら松原……ええ、はい、午後から出社の予定ですが。……はい、凛音が風邪ですか。分かりました。では先方にはこちらから……。いつもの菓子折りで大丈夫ですね?……はい、直接行きます」
電話に出た姉さんはごちゃごちゃとした「大人の話」を繰り広げた後、素早くスマートフォンの画面表示を切る。
その上で、俺との話も彼女はいきなり打ち切った。
「じゃあ、そう言うことだ。私はこれから仕事に行く」
「え、いや、ちょっと」
「詳しいことは紹介状を見れば分かる。あとは頼んだ!」
止める暇も無かった。
あまりにも性急な対応に呆然としているうちに、姉さんは廊下を走り、急いだ様子で靴を履き出す。
そして、躊躇なく玄関から出て行った。
呆気にとられた俺は、その動きを止められない。
こういう状態になった姉さんを止めるというのは最早不可能に近いということを、俺は今までの姉弟関係から熟知していた。
彼女を止めるというのは、人が素手で台風に立ち向かおうとするような物だ。
結果、中途半端に虚空に手を伸ばしたまま、俺は固まっていた。
零れるものと言えば、情けない声だけである。
「姉さーん……」
そして、我が家のリビングには、まだ制服も着替えていない、呆然としたままの俺が残された────。
この状況で一つだけ救いがあったとすれば、それは我が姉が性急な人ではあっても、嘘をつくような人では無かったという点である。
彼女の言葉通り、詳しいことは紹介状を見れば分かったのだ。
「『アルバイト募集に関する懸念事項への対策上申及び人材紹介』……?」
バラバラに散らばったまま──投げつけられたのだから当然だが──の書類を呆然としたまま並べ直すこと、五分。
他の書類よりも小さな封筒を見つけ、俺は声を出した。
「これか?紹介って書いてあるし……」
封筒を逆さにして振ってみると、三つ折りにされた便箋くらいの大きさの紙が飛び出てくる。
開いてみると、見慣れた姉さんの字が書き連ねてあった。
どうやら、姉さんから誰かに向けて書いた手紙のようなものらしい。
しばらく、俺はそこに書いてあることを熟読する。
俺をこの事態に巻き込んだ張本人である姉さんが立ち去った以上、この紹介状だけが現状を説明してくれる唯一の希望である。
これを捨て置いてしまっては、今日の午後一杯を混乱したまま過ごさなくてはならない。
姉さんは仕事中、家からの連絡は基本無視するタイプなので、今から電話で事情を聞くことはまず出来ない。
何とか残された書類たちから状況を推理し、内実を把握するしかないのだ。
自然、俺の態度も真剣になった。
「ええと……『ご存じの通り、レッスン室の清掃環境に関しては複数のアイドルより苦情が寄せられています。その対応策に関しては、前々から話し合われていたことでした』……?」
姉さんよりも上の立場の人に宛てた文章であるのか、最初の方は仰々しい挨拶が並んでいたが、中盤には説明らしきものが並んでいた。
専門用語らしい意味不明の単語を飛ばしながら、その説明をよく読んでいく。
ある程度読み込むと、流石に事情が見えてきた。
姉さんの言う「バイト」というのは、概ね以下のような事情の産物らしい。
……曰く、姉さんの勤める芸能事務所「ボヌール」には、アイドルやダンサー、歌手のためのレッスン場が事務所内に用意されている。
ダンスや発声練習などの一通りのレッスンをこなせる、小さめの体育館が事務所内にあるのだ。
情報バレを恐れてとか、曲を受け取ってからすぐに練習したいからとか、色々と理由はあるらしいが、何にせよ豪勢な話である。
しかし紹介状が言うには、そのレッスン場が最近問題となっているらしかった。
当たり前のことだが、レッスン場と言う場所は使えば汚れる。
芸能人だってレッスンをこなせば汗をかくのだから、当然の話だ。
だからこそ、レッスン場は定期的に掃除をしなければならない。
そうせずに放置していると、思わぬところでそこを使った人が怪我をする──床に落ちていた汗を踏んで、滑って転ぶとか──可能性がある。
故にボヌールでは、清掃業者を雇って定期的にレッスン場の清掃を頼んでいた。
……しかし、レッスン場を使う芸能人と言うのはとにかく忙しい。
レッスンに使う時間も、決まっているとは言い難い。
予定が突然変わることもあるだろうし、元々入る予定の無かった時間に急遽練習を入れるようなこともある。
そのため、掃除が必要とされる時間帯というのは不規則になってしまう。
定期的に来ている清掃業者だけでは、手が届きにくいくらいに。
時期によっては掃除の方が遅れるというか、使用する芸能人──ボヌールの性質上、アイドルが多い──が連続して掃除をされていないレッスン場を使うこともあるようだ。
そのせいか、問題が起こった。
端的に言えば、レッスン場を使っているアイドルから「何これ、床が汚れてない?掃除されてないの?」と指摘されることが、特に最近になって増えたらしい。
業者との契約の都合上、一定のタイミングでしか清掃がなされないので、仕方が無いことではある。
だがアイドルの立場からすれば、切実な要望でもあった。
そりゃあアイドルだって、疲れるレッスンを汚い床でしたくはないだろう。
しかしだからと言って、清掃業者をレッスン場を使うアイドルの予定に合わせて一日中張り付かせるわけにもいかない。
経費が掛かりすぎる。
一番手っ取り早いのはアイドルか事務所の社員が自分たちで掃除することだが、それは流石に嫌がられたらしい。
ただでさえレッスンや仕事で疲れているのに、掃除まではしたくないのだろう。
そう言う事情により、結局────業者の手の届かない時間は、バイトでも雇って掃除をやらせようという方針になったそうだった。
紹介状によれば、その方がなんだかんだでコストも安く済むらしい。
「『しかし、あくまで掃除だけとは言え、芸能事務所の内部に入らせる以上、そのバイトは信頼のおける人物でなくてはなりません』……まあ、確かに」
紹介状の続きを読んで、俺は頷く。
全く知らない世界の話とは言え、何となく想像は出来た。
やることが掃除とはいえ、そのバイトは芸能事務所内に出入りするわけである。
仮にその人物に悪意があれば、アイドルの私物を盗むとか、レッスンの様子を盗撮するとか、そう言った犯罪も出来るだろう。
イメージが大事で、かつ過激なファンもいるであろうアイドルたちの近くに人を招く以上、そう言ったリスクが生まれてしまうのだ。
俺は姉さんが芸能事務所に勤めている割に、芸能界について詳しくないので──そもそも大してテレビを見ない──これ以上は想像できないが、多分他にも「内部の人間がやらかせること」は数多くあるはずだ。
信頼できる人間以外は雇えない、というのはよく分かる話だった。
「『さらに、不満を早期に抑えるためにも、バイトは手早く雇っておく必要があります。そこで、身内の信頼できる人間を雇い入れておきたいと思います。本人もバイトをする意欲があるようです』……ここか?姉さんの行動の理由は?」
どうやらこの辺りが核心らしいと踏んで、俺は何となく前のめりになった。
同時にその文章を読んだことで、過去の記憶を一つ思い出す。
「そう言えば、確かに春休み中『高校生になったらバイトの一つくらいやってみたいなー』とか言ったことがあったような……」
まだ入学手続きをしているくらいの時期の頃、これから通う高校がバイト禁止ではないと知った時にふと漏らした一言だ。
思い返せばあの言葉を言った時には、珍しく家に帰っていた姉さんも傍に居た気がする。
どうやら姉さんは、この辺りの記憶から俺をバイトさせようと思いついたようだ。
「可能だったらバイトをしてみるのも面白いな、くらいの意味だったんだけどな……覚えていたのか、姉さん」
げに恐ろしきは、姉さんの記憶力である。
言った本人すら忘れていた願望を、ここまで形にするとは。
俺は無意識に体をぶるりと震わせ、紹介状の方に視線を戻した。
「ええと、続きは……『弟の玲は人畜無害を絵にかいたような学生で、悪事を働く心配はありません。また特技として、たまに妙に鋭い謎解きのようなことをすることがあります。これは何かと役に立つでしょう』……何だこれ?」
よく分からない姉さんからの評価に、思わずツッコミを入れる。
確かに俺は物凄い不良という訳でもないし、犯罪行為をしたこともないが、それでも「人畜無害」と言われると変に引っかかるのは何故だろう。
それと、二文目の特技は謎解きで云々というのは、間違いなく言い過ぎである。
過剰評価と言っても良い。
確かに俺は、小説で言えば推理物が、本全般で言えばパズルや謎解きのものが好きだ。
昔、従兄弟から勧められた──推理小説が好きな従兄弟が居るのだ──ことから長じた趣味なので、そこは嘘ではない。
謎解きシーンに至る前に、作中の探偵に頼らずに独自に真相を推理したことだってある。
だがそれらは、特技と言えるほどのものではなかった。
せいぜいが、趣味の範疇だろう。
そもそも、その推理だって大して当たったことも無い。
例えるならこの紹介は、「テレビで野球を見ていることが多いから、野球が得意です」と自己紹介するようなものである。
はっきり言って、脈絡がない。
そもそも、掃除のバイトに行くという時に謎解きの特技がどう役に立つというのか。
……そんな的外れな評価を読んだせいか、俺は何となく紹介状を読むこと自体馬鹿らしくなり、後半は読み飛ばしてしまった。
履歴書やら申込書やらを抱えたまま、うーむ、と唸る。
「なんか変な紹介になっているけど……さて、どうしよう、これ?」
姉さんの言葉を思い出しながら、俺は考え込んでみる。
思い悩むことは、一つ。
単純に、行くか行かないか、ということだ。
姉さんにここまで紹介されておいてなんだが────正直なところ、俺はこの話を断ってもいいと思う。
そもそも、本人の意志の外でいつの間にか決まっていた話だ。
いくら何でも、話が急すぎる。
今の時期は、まだ学校も始まったばかりだ。
明日の予定すら怪しいこの時期にバイトを入れるのは、正直どうなんだという気もする。
少なくとも、入学式にする話では無いだろう。
もっと言えば、俺は今のところお金に困っているわけでも無い。
この芸能事務所がいくら困っていようが、俺がバイトをしなければならない事情は特に無い訳だ。
姉さんだって俺が本気で嫌がれば、流石に別のバイトを探すだろう。
故に、普通に後で断ればいいだけの話ではあるのだが────。
「だけど、時給めっちゃ良いな、ここ」
下世話ではあるが、俺はそこに惹かれた。
紹介状の末尾に給与やら待遇やらが書いてあったのだが、恐ろしいことに時給が千五百円を超えている。
高校生でも出来る掃除バイトの給料としては、かなりの物だろう。
しかも紹介状から察する限り、難しい仕事などは存在せず、やることは基本掃除だけである。
仕事先が芸能事務所である以上、あまり難しいことはそもそも任せられないのだろう。
一般人であるバイトに、そんな重要なところを見せる訳にもいかないからだ。
要するに、レッスン室を掃除するだけで時給千五百円超え。
ちょっとびっくりするぐらい、旨い話だ。
お金に滅茶苦茶困っているわけでも無いが、それでも無いよりはあった方が良いのがお金と言う物である。
恐らくこれを断ってしまえば、後でこれ以上に旨い話に出会うことは無いだろう。
話が唐突だったので、反射的に拒否反応の方が強く出てきてしまったが……。
もしかするとこれは、他の人からすると物凄く羨ましがられるような話なのかもしれなかった。
この辺りの事情が総合的に考慮され、俺の頭の中で天秤が揺れた。
受けるか、受けないか。
リスクとリターンが左右に振れまくって────。
「……まあ、楽しそうだし、やってもいいかな」
最終的に、天秤はそちらに傾いた。
金欲と好奇心。
この二つがそろえば、人間そうそう頼み事を断らない生き物である。
判子ってどこにあったかなと呟きながら、俺はまず履歴書を書き始めた。
────この時の俺は知らない。
俺のバイト内容は、決して事務所の掃除だけでなく。
この事務所に発生した小さな謎たちを、解決に導くことであるということに。
そう言う意味でも、姉さんは嘘をつく人では無かった。
だって彼女は、はっきりと口にしていたのだから。
しばらく、掃除のバイトをしてくれではなく。
しばらく、アイドルのマネージャーになれと。
後から思えば、こういう言い回しをしている時点で察するべきだった。
姉さんは最初からバイトという名目を利用して、俺に掃除以外のことを色々とやらせる気だったのだ、と。
そしてこの後、俺は姉さんの思惑に上手い具合に嵌り。
とあるアイドルグループの活躍に、望む望まないに関わらず影響していくことになるのだが。
それはもう少し、未来の話だ。