ネットカフェの恋人
「カップ麵に温玉を入れるとおいしいですよー」
ポッドのお湯を白い容器に注いでいると、背後から女の声がした。
大きめのぶかっとしたセーターを着て、レギンスを穿いた小柄な若い女が椅子に座っていた。
そこはネットカフェの飲食スペースだった。
台の上に給湯ポッド、電子レンジ、ドリンクバーの機械が置かれ、二人掛けの小さなテーブルが六卓、設置されていた。
女は一樹を見ながら、ピンクと黄色の二本の歯ブラシの柄を箸代わりにして麺をズルズル啜っている。
変わった女だなと思ったが、別に気にはならない。長期滞在型のネカフェには変人以外を探す方が難しい。
ほい、と女が小さな容器を差し出した。ラベルに「温泉たまご」と書かれていた。
「余ったからあげる。おいしいよ」
一樹は戸惑いながら、どうも、と受け取った。フタの上に温泉たまごをのせ、容器を両手で支え持ち、自分の個室に戻った。
1畳半ほどの空間にはリクライニングチェアが置かれ、テレビ台の上には水のペットボトルと消臭用の芳香剤が置かれていた。
一樹は椅子に腰を落とすと、フタをめくり、温玉を落とした。割り箸で崩すようにかき混ぜ、麵に絡めて食べた。
(うめえ……)
ネカフェにはキッチンがないので、自然と食事は弁当やインスタント食品が多くなるが、その日はいつものカップ麵がカルボナーラのように思えた。
翌日、また飲食コーナーに行くと、あの女が椅子に座り、歯ブラシで麵をズルズル啜っていた。
「昨日の卵、ありがとう。おいしかったよ」
一樹がお礼を言うと、女はうれしそうに笑った。
「カレーヌードルにとろけるチーズ、シーフードヌードルにケチャップ……なんてのもイケるよねー」
女がテーブルの上に置いてあったクマのぬいぐるみを抱き上げ、どうぞ、と席を勧めてきた。
向かいの椅子に腰を落とし、一樹は言った。
「俺、秋山です。秋山一樹」
女はそれには答えず、一樹の右手をじっと見つめている。つられて視線を下げると、鋭い声が飛んできた。
「動かないで――」
女が身を乗り出し、一樹の手の甲をかぽっと手のひらで覆い、立って、と言った。
わけがわからず一樹は腰を上げる。女は手を押し当てたまま言った。
「蚊、捕まえた。逃がしてあげるから、このまま外に出て」
いや、殺してくれよ、と思ったけれど、女は真剣だ。しかたなく一樹はネカフェの出入り口に向かった。
「どいてどいてー」
女が声で他の客たちをどかせ、一樹は連行される罪人のように手を引かれて店舗を出た。
店は雑居ビルの六階にあった。店の外にはエレベーターと階段しかなく、コンクリートに囲まれていた。
「このへんでいいんじゃないのか?」
「ここじゃ餌がないよ」
蚊の餌って人間じゃないかと思ったが、一樹は黙っていた。
階段を上がっていく女に付いていく。屋上に通じるドアの前で立ち止まる。
「開けて。ここのドア、鍵が壊れてるの」
片手の空いている一樹がノブを回し、ドアを開けた。外は暗く、冬の冷たい夜気が首筋を撫でる。
屋上に出ると、女が手を開けた。一樹の手にとまっていた蚊が、ふわふわと力なく宙に舞い上がる。
「こんな寒い季節に蚊なんて珍しいな」
一樹がそう言うと、女が白い息を吐いた。
「たぶん、何も食べてなくて弱ってたんだよ」
「……血ぐらい吸わせてやればよかったかな?」
一樹がつぶやくと、女がにこっと笑った。
「私、ユウナ。よろしくね」
その日から一樹はネカフェでユウナと顔を合わせればしゃべるようになった。
彼女はキャバ嬢だった。このネカフェで暮らしてもう六ヶ月になるという。26歳だというが、童顔なので年齢よりも若く見えた。
人なつっこいユウナは、どこか抜けたようなキャラも含め、ネカフェ難民たちのみなから可愛がられていた。
その日、二人は飲食用のスペースで食事をとっていた。いつものように歯ブラシでカップ麵を食べるユウナに一樹が訊ねた。
「……なんでいつも歯ブラシで食べてんの?」
「昔、施設にいた頃、よくお箸を隠されたり、捨てられてたりして、これで食べる癖がついちゃった……」
えへへ、と照れたように笑う。
「ほら、私ってトロいでしょ? 小学校でも中学校でも、すぐイジメられるんだよね」
多少はわかる。話し方もスローだし、よくつっかえる。理解力が弱いというのか、たまに話がかみ合わないときもある。
ネカフェに住むようになった経緯を訊ねると、ユウナは答えた。
「8歳の頃、お母さんに施設に預けられたの……最初は顔を見にきてくれてたけど、だんだん来なくなって……」
18歳になり、施設から追い出され、それからは水商売を転々としてきたという。
「クーちゃんとはその頃からの付き合い」
ユウナは視線を自分の膝上に向けた。彼女はクマのぬいぐるをいつも肌身はなさず抱いていた。
「秋山君はナニしてる人?」
「日雇いの仕事だよ……解体作業とか、梱包や仕分け作業とか、工事現場の交通整理とか……ま、その日見つかった仕事をやる感じ」
「ふーん、家族は?」
「子供の頃、両親が離婚して……母親が再婚したんだけど、新しい父親と折り合いが悪くて家を出た」
母親が再婚相手の子供を生み、家に自分の居場所がないように思えた。
高校を卒業後に就職した会社はブラック企業で、数年は耐えたが、身体と心を壊し、かといって今さら実家にも戻れず、ネカフェ暮らしを始めた。
「へー、大変だったねー」
心のこもってない言い方だと思ったのか、ユウナがあわてて言い直す。
「ごめんねー、感情がこもってなくて、私、苦手なんだよね……人の話に共感とか……深刻な話のときも笑っちゃったり……それでよく怒られるんだけど……」
「気にしないでいいよ」
一樹はふっと笑った。
他人の身の上話など、重く受け止められても困る。境遇という意味ではユウナの方がはるかに過酷だ。
なのに、彼女はからっといつも明るい。過酷なネカフェ暮らしの中、一樹はそんなユウナの存在に救われる思いがした。
◇
その日、一樹が日雇いの仕事からネカフェに戻ってくると、レジの前でユウナが財布を手にあたふたとしていた。
「ええと、料金は2361円だから……」
財布を覗き込みながら首をかしげる。カウンターの向こうで若い男性の店員が言った。
「それは税抜き価格です。税込みは2597円です」
「税抜き……」
つぶやいたきり、ユウナは目を宙にさまよわせる。
見かねた一樹が割って入った。「ちょっと財布貸して」とユウナの長財布を取り、100円玉を3枚、カウンターのトレーに置く。
その後、二人は雑居ビルの屋上に上がった。そこは街のネオンの喧噪とは無縁で、頭上には冬の夜空が広がっていた。
「さっきはありがとう……私、馬鹿だから計算とか、すごく苦手なんだよね……」
てへへ、と困ったように頭をかく。
小銭を出すとき、財布に「身体障害者手帳」と書かれたカードが見えた。恐らく軽度の知的障害があるのではないか。
それとなく訊ねると、ユウナがうなずいた。
「知らない人から見たら、あんまりわからないみたいで……だからすごく怒られるの……」
相手は健常者だと思っているから、ユウナの仕事のミスや理解力の遅さに腹を立てるのだろう。
「……別に今のままでいいよ……」
独白するように一樹はつぶやいた。
他人を蹴落とすことを考える人間ばかりの世の中で、蚊一匹を殺すのをためらう優しいコがいてもいい。
「……ありがとう……」
ユウナが恥ずかしそうに顔をうつむかせた。一樹が小さな肩を引き寄せると、ユウナは安心したように一樹の肩に頭を預けた。
◇
一樹は大きなレジ袋を手にネカフェの通路を歩いていた。中には日雇いの現場でもらった大量のカップ麵が詰まっていた。
「ユウナ、いるか?」
個室のドアをノックするが、返事はない。ドアが少し開いていたのでノブを引いた。
誰もいなかった。代わりにリクライニングチェアに例のクマのぬいぐるみが置いてあった。背中のファスナーが開いていた。
(!…………)
隙間から分厚い札束がのぞいていた。
人の気配がして振り返る。トイレにでも行っていたのか、ユウナが戻ってきた。とっさに一樹はカップ麵の詰まったレジ袋を差し出す。
「これ、今日行った現場でもらったんだ。やるよ」
「えー! こんなにいいの?」
「ああ、自分のぶんはもう取ったから」
一樹はレジ袋を押しつけるように手渡し、そそくさとその場を離れた。先ほど見た札束の映像が脳裏に残っていた。恐らくキャバで稼いだ金だろう。
(あの金があれば……)
このネカフェを出て、家を借りることができる。まともな仕事に就き、このみじめな暮らしから脱出できる。
だが、彼女はいつもあのぬいぐるみを肌身離さず持ち、キャバに出勤するときも持っていく。さっきはたまたま置いていったに過ぎない。
考えた末、一樹は言った。
「ユウナ、今度のクリスマスイブ、何か予定あるか?」
「仕事が入ってるけど……」
「終わったら一緒に外で飯でも食べないか? たまにはカップ麵以外のもんを食おうぜ」
「え?……イブだよ。私なんかでいいの?」
「ユウナと行きたいんだ。ここで待ち合わせて行くのも味気ないから、××公園のベンチで待ち合わせな」
一樹は近くの公園の場所と時間を伝えた後、こう付け加えた。
「いちおうデートだから、ぬいぐるみとか持ってくんなよ」
「……うん、わかった」
デートと聞いて、ユウナの顔が赤くなった。
そしてクリスマスイブを迎えた。夕方、ユウナがキャバに出勤するのを見届けると、一樹は彼女のブースに入った。
ぬいぐるみの背中のファスナーを開け、中に入っていた100万円の札束を取り出し、ジャケットのポケットに押し込んだ。
カウンターで精算を済ませ、必要最小限の貴重品や私物をデイパックに詰め込み、ネカフェを立ち去った。
建物の外に出ると、はらはらと雪が舞い落ちていた。
一樹は夜空を見上げ、白い息を吐くと、ジャケットのフードを目深に被り、雑踏の人混みに消えていった。
◇
それから1年後――
平日の午後、スーツ姿の一樹は先輩社員に連れられ、街中を歩いていた。曇り空の下、冷たく乾いた空気が冬を感じさせる。
公園の前で先輩が足を止める。
「少し休んでいくか」
小銭を渡され、一樹は近くの自販機で缶コーヒーを二つ買い、先輩が座っているベンチに戻った。
缶コーヒーを受け取った先輩は、プルタブを引き、喉に流し込む。
「あー、疲れたー。煙草吸いてーなー」
「別にいいんじゃないですか。誰もいないし」
仕事は不動産会社の営業だった。ユウナから盗んだ金で部屋を借り、住所不定から抜けだし、就職活動をしてありついた仕事だ。
「秋山、あのオーナー、絶対落とせるぞ」
「でも一階に飲食店が入るのを嫌がってませんでしたか?」
「低層階には飲食店とかネカフェが入った方がいいんだよ。しっかり害虫対策をしてもらえれば、かえってビル全体の害虫被害を減らせるしな」
ネカフェという言葉で不意に思い出した。この公園は1年前のクリスマスイブの夜、ユウナと待ち合わせをした公園だ。今の今まですっかり忘れていた。
「あー、やっぱり吸うわ」
よほど我慢できなかったのか、先輩がスーツのポケットから煙草の箱を取り出し、ライターに指を掛けた。
その目が不意に前方に向けられる。
汚い格好をした女がふらふらと近づいてきた。日焼けした浅黒い肌、顔を覆う髪はベタベタに固まり、元は白と思しきドレスは黒ずんでいた。
ちっと舌打ちして、ライターから指を離す。
「……ホームレスか。多いんだよな、この公園」
一樹が目を細める。その薄汚れたホームレスの女にどこか見覚えがあった。手にボロボロのクマのぬいぐるみを抱いている。
(ユウナ?……)
一樹はとっさに顔を伏せた。間違いない。容貌は変わっていたがユウナだ。
(まずい……)
隣には先輩もいる。彼女の金を盗んで逃げた自分の過去がバレる。
(うかつだった……あのネカフェの近くには立ち寄らないようにしていたのに……)
恐らく彼女は貯めていた金をすべて失い、ネカフェを追い出され、いつからかホームレスに転落したのだろう。
女はベンチの横を通り過ぎようとしたが、一樹のそばで不意に足を止めた。
(そのまま行ってくれ! 俺に気づかないでくれ……)
一樹は目を伏せ、祈るような気持ちで缶コーヒーを両手で握りしめた。鼓動が耳の奥でドクンドクンと響く。
(!…………)
缶コーヒーを握る一樹の右手に、日焼けして黒ずんだ手が重ねられ、青年はおびえた目を怖々と持ち上げた。
「蚊――逃がしてあげるね」
トロンとした目で女がそう言うと、包むようにした両手を頭上で広げた。蚊がふわふわと宙に舞っていく。
(俺だと気づいていない?……)
満足げにそれを見届けた後、ユウナはよたよたした足取りで去っていく。
「気持ち悪ぃ女だなー。秋山、ちゃんと手、洗っておけよ」
先輩が吐き捨てるように言い、煙草にライターで火をつけて口に咥えた。
のろのろと一樹がベンチから腰を上げ、隣にいる先輩がけげんそうな目を向ける。
数メートル先を、黒ずんだドレスの背中が歩いている。
住む場所を失い、この一年、どれだけの苦労をしてきたのか。半ば精神に異常をきたしたような顔がそれを物語っていた。
親に見捨てられたユウナは生まれてから一度も温かい家庭を知らず、ついにネカフェの個室という最後の家すらも失ったのだ。
(俺だ……俺が彼女の金を盗んだから……)
自身のおかした罪の深さにようやく気づき、一樹は苦しげに顔を歪めた。遠ざかっていく背中を止めるように手を伸ばした。
(ユウナ!――)
心の中で発した声はしかし、言葉を結ぶことはなかった。
前に伸ばした腕が力なく下がり、一樹はがくっと肩を落とし、首をうつむかせた。
(今さら……今さら俺が何を言えるって……)
言葉をかける資格はない。何よりも、もうユウナは自分を覚えていない。
こうしてネットカフェで生まれた小さな恋は、冬空の下、終わりを迎えた。そしてまた、街にクリスマスイブがやってくる――
(完)