駅裏にて
黄昏時、ペットボトル片手に駅を出る男がいた。
スーツ姿でこそあるものの、ネクタイを外したラフな格好で、瞳をきょろきょろと動かしている。
新卒社員の彼は、ようやく仕事にも慣れてきた。独り身の生活も初めてだったが……三、四か月と経てば余裕も出てくる。外回りの仕事を終えた後、会社に帰らず直帰を選択し、彼は自宅の最寄り駅へと降りた。
しかし彼が降りたのは、借りたアパートと逆側の出口だ。初めて目にする光景は、黄昏に染まる素朴な風景。山肌を背景に広がる畑に、点在する建物はどこか寂しげに見えた。いくつかの商業施設が店を構える表と、まるで異なる田舎な光景だ。
(なんだ、思ったよりいい景色じゃないか)
普段より上機嫌で帰路についた彼だが、かといって遠出する余裕は持っていない。遊ぶなら職場周辺の方が向いているが、わざわざ戻る気も起きなかった。
そこで彼はふと思い立った。今利用している駅の裏を、ちょっと散策してみようかと。
行きと帰りの要所にして通過点、最寄りの駅に出入り口は二つある。けれども利用したのは一方のみで、反対側は降りたこともない。
いいや、降りたどころか……興味なく日々を過ごしていた気がする。ほんの数分、ほんの数歩で届く世界に、今の今まで無関心でいた。
案外、自分の知ってる世界は狭いのかもな――初見のはずなのに、どこか懐かしさを覚える景色が胸に染み入る。今日この日まで、なぜこの世界に気が付かなかったのか。
斜陽が夏草を黄金色に煌かせ、色落ちした人工物が哀愁を誘う。眺めるだけではもったいないと、彼は少しだけ足を踏み入れることにした。幸いスマホは手元にあるし、迷っても地図アプリで駅に戻ればいい。
線路に背を向け、身近で初めての光景を気ままに往く。夕焼け小焼けを瞳に焼き付け、スーツ姿のまま童心を蘇らせた。耳をすませば風の音と、虫の囁きが身体を抜ける。山間に沈む太陽が涙腺を滲ませ、溢れ出る情動が胸中を満たした。
鳥の影を目で追いかけ、時折通る車をあぜ道に降りて避ける。そうしてふらふら当てもなく歩き続けていると、ふと動物の影が前を横切った。
何かはよく分からない。野生動物のしなやかな動きは、デスクワークで衰えた視力で捉えられるものじゃない。判別出来たのは大きな尻尾ぐらいで、後はぼんやりとしか記憶できなかった。
気になったがそれだけだ。これだけ豊かな自然があれば、動物の一匹や二匹はいるだろう。スマホのカメラを構えて……やめた。目で追えないのに、シャッターが間に合うとは思えない。何より今は徒然なるままこの世界を楽しみたい。そのまま適当に歩き続けた。
ところが……再び獣が横切った。ちゃんとは見えなかったが、大きな尻尾は同じ形に見える。同じ個体なのだろうか? 不思議な事もあるものと思ったが、先ほどより動物がよく視認できない事に気づく。
見上げた空の夕雲が色褪せ、空が暗い青へ切り替わっている。街灯のない田舎道にたたずむ男は、急に心細さを覚えた。
夜の闇は、こうも深いものだったのか。一寸先さえ見通せず、目に映るすべてが輪郭しか把握できない。慌ててスマホを取り出し、ライト代わりに使おうとしたが……電源が入らなかった。電池切れはあり得ない。先ほどアプリを確認した時、残量も十分だったはずなのに……
かさかさかさ、と。草木を揺らす何かの気配がする。
鳥の鳴く声が不吉に響き、土を踏む足は妙に歩きづらい。
夜の帳は影と闇が蠢いて、男を呑み込もうとしているのだろうか?
馬鹿な、考えすぎだ。言い聞かせても悪寒は止まず、年甲斐もなく歯を震わせてしまう。空を見上げても星一つなく、当然月の姿もない。来た道を戻ればいいのだろうが、伸びた草の葉が光を遮っているのか、遠目に駅の位置を確認することさえ叶わなかった。
「だ……誰か! 誰かいませんか!?」
焦って発した言の葉に、答える人の声は無し。
近場の鳥がぎゃあぎゃあと飛び立ち、胸のざわつきはかえって大きくなる。もはや一歩も動けない男は、闇の中で怯え竦み立ち止まった。
一体どこで道を踏み外したのだろう? ほんの少し好奇心を出しただけなのに、ちょっと前まで、自然の空気は胸を満たしてくれたのに……今はただ明かりのない世界が、自然のままある常闇が恐ろしい。文明と科学の恩恵を失えば、ただ一人の人はあまりに脆かった。
きっともう、自分は元の世界に帰れない――
朝になれば日が昇るのに、当たり前の現象にさえ確信を失う。男は己の身を抱き、凍えるように身を縮ませた。
丸一日闇夜の草原で、一人孤独に耐えることも出来ない。深淵が心にまで巣食い、正気が飲まれる寸前のところで……彼は、凛とした声を聴いた。
「もし……惑うたかえ? 坊や」
うっすらと人型の輪郭が一つ、闇を濃くして存在している。藁をも掴む思いで、必死に影に大声で叫ぶ。
「は、はい! ……いきなりすいませんが、駅まで案内していただけませんか?」
「よいぞ。ではついてまいれ。妾を見失うでないぞ?」
芯のある、透き通るような声だった。
顔も姿も良く見えないが……古い言葉使いが妙に調和し、曖昧な夜闇でもその存在感が失われない。静寂に響く鈴の音のような、雅な女性の声だった。
草を踏む足音が増え、心強い反面怯えてしまう。何かの拍子に足音が増えてしまうのではないか。暗がりの中から……一つひたひたと、迫ってくるのではないだろうか……
まるで心を読んだかのように、女性は凛とした声で影を祓う。
「そう怯えるでないぞ、坊や。不安は闇を呼び寄せるモノ。気が弱ると小さな影にさえ、憑かれるやもしれぬぞ?」
「か、からかわないで下さい……本気でおかしくなりそうだったんです」
「知っておる。随分と高い声で、助けを乞うておったからのぉ」
「本当に、怖かったんです!」
拗ねるような叫びにも、「ほっほっほ」と女性は笑うばかりだ。子供扱いも腹正しいが、本気で助けを求めた以上やむを得ない。あの闇の中に置いて行かれたくないと、早足で人影についていく。人の手の届かない夜の色が、ここまで恐怖を呼び起こすとは……
「坊や、夜闇はいつも傍にあるモノ。光に溢れる世界に身を置き過ぎて、忘れてしまったようじゃな? 古い人はこの恐ろしさを良く知っておった。何せ毎日、暗くなれば味わうものじゃからなぁ」
「そう、だったんですか」
「夜に目を覚ますとな、それだけで身を竦ませる事もあった。この世ならざる影が手招きしているのではないか……時折鳴く獣の遠吠えが、自分を見つけたものではないか……とな」
今も闇の真っただ中にいる男には、他人事には聞こえない。ゴクリと生唾を飲み込み、女性の言葉を待った。
「見通せぬ暗がりの中身は想像する他ないが、不安な想像は巣食う異形を育てるだけ……古い人はそれを良く知っておった。この闇との付き合い方を、よぉぅ知っておったんよ。例えば、ほれ」
女性が手を上げる動作につられ、男が空を見上げると……煌く天の川と丸い月が浮かんでいる。周囲が暗い分、星と月明かりも澄んだ光を二人に注いでいた。
「綺麗、ですね」
素直な感想に女性が笑った。
「そうじゃな。いつ見ても良い。古くはこの光を頼りに夜道を歩いたものよ……今ならそのありがたさ、よくわかるじゃろう?」
「そうですね……けれど月って、怪異が強くなるイメージがあります」
「あぁ……西洋は特にその傾向があるの。輪郭の朧な月夜は、中途半端に見える故の恐怖を想起させるものじゃ。純粋な闇と異なる趣よな。なんだかんだと喚いても、結局人は人のままじゃよ……」
深く闇で息を吸って、溜め込んだ感傷と共に女性は吐き出す。一瞬老婆の姿を思い浮かべたが、輪郭はピンと背を伸ばしたままだった。
不思議と実感の籠った言葉が、男の胸の中で広がり、染み入った。まだ夜は濃い色を保ち、時間と共に深さを増していくのに、彼女の声が恐怖を祓っているようだ。
「……僕も、そんなに変わってないのかもしれませんね。古い人たちと」
「うむ、そうそう変わらぬし、変われぬモノよ。それを嘆くか、喜ぶかは己次第であろう」
「……あなたは、どう思いますか?」
自然と、男は言葉を丁寧にした。人型は振り向き、瞳を細めて微笑したように思える。月明かりがあるとはいえ、表情を伺えないのを惜しく思う。
ふと、そこで男は気がついた。
先程空を見た時は、何もなかったような気がする。先程女性も少し話したが、光源一つない暗黒が広がっていなかっただろうか?
星はともかく、月光を見落とすなどあり得ない。今は晴れ渡った夜空が広がっていて、月が隠れられる雲はどこにもない。
なら、男を覆っていた闇は何だったのだろう? あの深淵は一体? そして今目の前にいる、闇の中にいる人型の輪郭は……?
湧いた疑念を引き金に、女性の姿が明瞭になる。
月明かりが女性の髪を滑ると、金色の長い絹の様に伸びていく。
紺の古めかしい着物は、素人目にも品と年月を感じさせた。
作り物めいた白い肌と、山吹色の瞳が猫のような瞳孔で男を見つめている。
この世ものとは、思えなかった。
「坊や。こういうことも、古から良くある事……黄昏時は逢魔時。迂闊に踏み入れば現世に戻れぬぞ……」
脅かす口調で凄まれ、男の心臓が早鐘を打つ。しかし女性は最後、にこりと微笑み、妖しく囁いた。
「そう怯えなさんな、坊や。今宵はちょっと誑かしただけ。取って喰ったりしやせんよ。さぁ坊や……表へおかえり」
子供をあやすような口調が鼓膜に残る。
女性の言霊に何も返せず、次に届く音は電車の扉が開く音だった。
いつの間にか、眠っていたのだろう。男は家の最寄り駅と気づき、慌ててホームへと降り立つ。美しい夕焼けがトタンを照らし、まだ夜の影はやって来ていなかった。
果たして、あれは夢だったのだろうか。改札を降りて、一度だけ裏口に振り返る。
「表へおかえり」と透き通る声が、夕闇の中から響いた気がした。