あの本と出合うことも
突然現れた巫女様にレーヴェはどう接して良いのか迷います。
見た目は年もそう変わらない少女。
けれどその実態は城を所有する巫女様。
まるで相反する性質を持った彼女に何を想うのでしょう。
「大丈夫ですよ」
冷ややかな声が聞こえると同時、慌てて白い布を顔に被せるオリバーさんのことなど眼中にない様子で少女は――巫女様は部屋に入りまっすぐ僕の瞳を覗き込んだ。
青い瞳が僕の不安を全て読み取ってしまったかのように、巫女様の表情は少しだけ曇った。
「貴方のご家族には私たちの方から必ず伝えます。一年間、貴方の心配をしなくて良いように。それで満足ですか」
「…………」
巫女様が普通に話しているのを見るのは初めてだった。今まで頭の中に声を響かせたり微笑んだりしてばかりだったから、話せないものだと勝手に思い込んでいた。
しかし改めて見ると分かる。
誰もが望む美貌。透き通るほど白い肌。まるで理想を全て詰め込んだかのような少女が目の前に立っていた。
あまりに美しすぎて、声が上手く出ない。
「他にも、何か不安な点がありますか」
「……い、いえ。その、一年間両親には会えないんですか。たとえ五マイル以内の場所に来てもらったとしても」
「貴方が候補となった以上、それは難しいでしょう。この城には守らなければならないものがたくさんありますから」
巫女様はほとんど強制のように僕を候補としたにもかかわらず、ひどく他人事のように語った。もちろん最後に決断したのは僕自身なのだけれど、もう少し配慮してほしかった、と子供じみた発想をしてしまう。
「そんな、急に言われても困ります……。これも貴方が決めたルールだって言うんですか。巫女様としてこの城に君臨する貴方が!」
「レーヴェ様!」
怯えるように鋭く叫んだオリバーさんの声で僕は我に返った。正面にいた巫女様は驚いた表情のままその場に固まってしまっている。
あ、まずい――僕は巫女様に刃向かったのだ。この古城の所有者である巫女様に。
「も、申し訳ありません! どうか、お許しください!」
「巫女様、この者は今日来たばかりで混乱しているのです。どうか」
オリバーさんも一緒になって巫女様に頭を下げてくれる。ほんの一瞬巫女様が息を吐いただけだったのにその時間が数十秒にも数分にも感じられた。
「気にすることはありません。こちらも伝達の仕方に良くない点があったのでしょう」
巫女様は落ち着いた声色でそう言い、僕たちに頭を上げるよう促した。
「……では巫女様、連絡の方はお任せします。オリバーさん、僕が今日使える部屋に連れて行ってもらっても良いですか」
これ以上彼らと議論を交わしたところで僕の願いを叶えてもらうことは出来そうになかった。逆に今のように巫女様の機嫌を損ねてしまうかもしれない。
まだ彼女のことがあまり分からない以上、対話を続けるのは危険だ。
突然の両親との別れだけれど、一年間は仕方ないと割り切らなくてはならない。候補となったからにはこういった制限が必要のようだから。
青い瞳に覗かれると不満が知られてしまいそうで、僕は巫女様から無意識に目を逸らしていた。そしてそのまま彼女のことを横目に、恭しくお辞儀したオリバーさんの後に付いていく。
「別に貴方が無理に敬語を使う必要はありません。貴方が候補となった時のように、普通に接してくれれば良い」
僕にしか聞こえないような小さな声で、彼女から掛けられた言葉。その寂しい声色に思わず振り向いていた。
この部屋に入ってきた時とも、頭の中に呼びかけてきた時とも違う、言うならば普通の少女の声色。
長い髪に隠れた巫女様の表情は見えない。それでも心の中で深く反省した。彼女は巫女様である前に、僕とそんなに年の変わらない少女だ。本によれば「来るべき時」のために巫女としてこの城にいる少女。まるでこの城に囚われた姫。
そんな彼女に八つ当たりをするところだった。定められているルールは彼女に怒っても変えられるものじゃない。
僕くらいは、彼女のことを普通の少女として向き合ってやるべきだったんだ。候補になることを決意した、あの時の感情のように。
「また明日話しましょう、レーベ。候補のことも、この城のことも」
「……また、明日」
オリバーさんに付いていくためにはそう言い残すのが精いっぱいだった。
反省、反省、反省だ。
僕がどうして候補なんていうよく分からない役目を引き受けたのか。――森の中で一人、あの寂しそうな表情で立っていたのを放っておけなかったからじゃないか。オリバーさんには巫女様を敬いなさいとか細かく言われると思う。ただ僕は彼女を、そんな風に扱いたくない。
「巫女様はあのように神出鬼没なのです。一週間もすれば馴れるでしょう。――本に記載されていたルールと同じように。ご不便は多いでしょうが、出来る限りわたくし共も期待に沿えるよう努力いたしますのでご辛抱下さい」
中央の建物を出たところでオリバーさんは再び白い布を取り、僕の方を振り返った。
陽が沈み始めすっかり冷たくなった風がまるで僕の心を弄ぶように吹き抜けていく。時折、城の隙間を通る風がゴウッと音を立てた。
目の前に立つこの人も城の制約に囚われた一人、か。
どうしてこの城にやって来たんですか、とはさすがにまだ問いかけることは出来なかった。ただ彼の水色に輝く髪は僕の住んでいた村ではまず見かけない。この城に住む人たちは出自も特殊なんだろうか。
一体、誰が何のためにこの城を残し時代錯誤な制約を課したのか。
「……ええ、僕が選んだことなので、我慢します。その、オリバーさん、僕も巫女様の前では白い布を身に着けるべきなのでしょうか」
頭に着けているサークルのような金の飾りで留められた白い布。僕と話すときは表情を見せるためか、いつもそれを後ろの方にめくり上げてくれていた。
「いえ、その必要はありません。他の候補者の方も身に着けていませんよ。ただ候補者以外の城の者たちは、自主的に顔を隠しているのです」
「え――」
てっきり、身分関係を示すものだと思い込んでいた。中世ではよく、身分の高い人に姿を見られてはならないというルールがあったらしい。メイドが使う隠し通路なんかはその影響だ。どうやらこの古城は中世の雰囲気を模しているようだったから、その延長だと思っていた。
けれど目の前の男は――オリバーさんは遠い目をしてこう言ったのだった。
「巫女様はわたくしたちの心を見透かしてしまわれる。だからわたくしたちは自分の心を守るために顔を隠すのです」
その夜案内されたのは、実家よりも数倍豪華で広い部屋だった。本棚に書斎机、ふかふかのベッド、ソファー、そして月が見える窓。最初に捕まっていた部屋の明かりは本物の火だったから不安だったけれど、中央の建物やこの西棟部分は電気が通っているようだ。
明日、然るべき時間にはオリバーさんに迎えに来てもらうことを約束し、一人ベッドに倒れこむ。部屋には着替えやら生活用品やらも十分すぎるくらい揃えられていた。オリバーさんのように目立つ服が多数掛けられているクローゼットから一番地味な服を取り出すのに苦労したけれど、それはまた別の話だろう。
今日捕らえられた時に没収されたものも明日申請すれば戻ってくるだろうか。とは言っても当分山菜を採ることなんてなさそうだけれど。
「今日は本当に色々なことがあったなぁ」
今晩のおかずに、と思って山菜を採りに行った所、不思議な雰囲気の少女と出会った。その後をついて行ったらいきなり捕らえれて、候補とかいう立場になって。一年間両親と会えなくなるなんて想像もしていなかった。早く、この環境に馴れるように努力しなきゃいけない。
今日は疲れているだろうから、と会うことは出来なかったけれど、他の候補者もこの棟で暮らしているらしい。
他の候補者はどういう経緯でこの城を訪れたんだろう。巫女様は僕を入れて三人もの候補を選ぶことに意味はあったんだろうか。それに僕は候補になったことで期待通り「新たな可能性」とやらを示せるんだろうか。
「あぁぁぁ! もう限界だ。考えるのは止め!」
ベッドから起き上がり、ちょうど目についた机に向かってみる。メモ用紙というよりも分厚い本のような白紙のノートと、インクを付けるタイプのペン。
それを見ると何だか今日一日の出来事を書き記したい衝動に駆られた。
この時代の物とは思えない石造りの冷たい城。火の明かり。騎士。金色のシャンデリア。
そして、誰もが望む美しさを備えた巫女様。
「そう言えば、巫女様の名前聞いてなかったな。明日、僕のことをレーベじゃなくてレーヴェってちゃんと呼んでもらえるよう改めて自己紹介してみるか」
最後に聞いた巫女様の寂しそうな声色を思い出しながら、何かにとり憑かれたようにペンを取り、紙に文字を書き起こしていく。
『――だから僕の元には今、君と過ごした日々が綴られた一冊の本がある。
あの時、僕は何か嫌な予感を覚えていたのかもしれない。君と過ごす日々は永遠ではなくてあまりにも儚く大切なものだということを分かっていたのかもしれない。
君と初めて出会った日――四月一日。春の訪れを感じ始めた風が吹く頃。まだ日が暮れてからの城内は少し肌寒かったのを覚えている。ペンを握る手が寒さで震えて――それでも、一日の出来事を全て書き記すまでペンを手放すことは出来なかった。
不思議だね。そのお陰で、少しでも君との時間を形として残しておくことが出来た。きっとこの本を握りしめながら涙を拭う、こんな僕のために想いを書き記したのだと思う。
君を失った日、僕は泣いて泣いて、ただ思い出を抱きしめることしか出来なかった。
だから過去の自分に一つ伝えられるなら、こう言いたいんだ。
君を失うまであと三百六十日。一年にも満たない日々の中で、少しでもあの子の傍にいてあげてほしい。
ねぇ、だからどうかこの声が――』
「ん?」
ようやく今日一日の出来事を書き終え、ペンを置いた時。不意に誰かに呼ばれた気がした。少し待ってみても扉が叩かれる音はないから、廊下から誰かが呼んだわけではなさそうだ。
ここ最近で一番だと胸を張れるくらい集中して書いていたから気のせいかもしれない。しかしただの気のせいでは済ませておけないほど僕の胸はざわついていた。
なんだろう、この感覚。
早く、早くと何かが僕を急き立てる。その心に従うまま耳を澄ませて。
『知りなさい』
穏やかな声。巫女様とは違う、もっと低い女性の声だ。突然聞こえたその声に、僕は疑念を抱くどころか安心感さえあった。その声にはまるで母親のような温かみがあったからだと思う。
まさか、幽霊?
いや、あの声はもっと――。
そんな僕の思考に応えるようにゴトッと本棚が音を鳴らし、一冊の本を落とした。
「何だろう? これを読めってことかな」
あんな巫女様のことを見た後ではどんな超常現象がこの部屋で起こっても受け入れるつもりではあった。
仕方なく僕は椅子から立ち上がり床に落ちた本を手に取った。一見すると何の変哲もなく、経営についての学問が述べられている。全く知識のない僕が最初に読むには骨が折れそうだ、というのは置いておくことにして。
考えすぎているだけで、普通に本が落ちただけかもしれない。そう思って元ある場所に戻そうとした、その時。
「あれ、この後ろ――」
本棚の奥に小さな取っ手が付いている。位置的に考えるとそんな所に物を入れる空間なんてないはずなのに。
ものは試しだと思い、小さな取っ手を指に引っ掛けて引いてみる。しかしよく見るとその下には鍵穴があり、扉はびくとも動かない。
まぁこんな隠しスペースがあるなら鍵がかかっているのが当然だろう。この古城の雰囲気を考えれば昔の貴族が宝石を隠してました、なんて言われても驚かない。
何度か試してみたけれどガタガタと音を立てるだけ。鍵がない自分ではどうしようもないと、再び本を戻そうとした。
けれど。
『知りなさい』
再び女性の声。と同時に、鍵穴からカチャリという不可解な音が聞こえてくる。
「嘘、だろう?」
開いた。
いや、開いてしまった。
中には横向きに納められた一冊の本。タイトルさえ書かれていないその本を手に取り、中のページをめくってみる。そこでも不可解なことが起きた。
最初の数ページ以外がまるで糊付けされてしまったかのように開かないのだ。
「あー、もう、何なんだ。……やめよう。今日はとりあえず寝て……明日本の状態を確認しよう」
糊付けされた不思議な本を机に置き、完全に思考する気もなくなった頭を落ち着かせる。
この古城、色々とおかしいことばかりだ。
本が呼んで来たり、かと思えばページが開かなかったり。眠さで占められた僕の頭では到底処理出来ないことばかりだった。だからとりあえず、難しいことは後回しにして身体を休めることにしたんだ。
その本が、この古城の全てを紐解く重要な手がかりであることさえ知らずに。
レーヴェは1冊の本と出会います。
隠されていたはずのそれが、不思議な声に導かれレーヴェの手に渡る。
それは偶然だったのか、誰かの想いによる奇蹟だったのか。
きっとそれが分かる頃に、レーヴェはこの城に来た意味を知るのでしょう。