変化の兆し
出口が入院した、という連絡が入ったのは、年が明けた二週間目の月曜日だ。
午後三時を過ぎて外国為替の窓口が閉まり、その後処理に追われている時間帯にニッキから電話があった。
「ちょっと今手が離せないから、後でかけなおすわ。」
「ああ、悪かった。実は、出口が入院したんや。」
「何だって? なんで?」
「いや、容体については詳しいこと、あとで話すわ。」
「ああ。」
普段ついぞ病気などしたことのない出口が入院した、ということに、僕は面喰ってしまった。わざわざ勤務先に電話してきたニッキが口にした「容体」という言葉が、妙に恐ろしい。一体何だろう。日締めの事務に追われながらも、気がつくと手が止まって考えに耽っている自分を何度となく発見した。
「どうした、高橋。」
外国課の一年先輩の脇田さんに声をかけられた。
「あ、いえ、――何でもありません。」
「お前、最近ボーっとしとることが多いな。」
「すみません。」
「何かあったんか?」
「いいえ、別に。」
「ならいいけど、お前、なんかこう、見るからに心ここにあらず、っていう感じやぞ。」
「そ、そうですか?」
「ああ、気をつけろよ。」
ここで声をひそめて、
「課長に、そういうとこ、かなり見られとるんやぞ、お前。何かあったんかも知れんけど、会社ではあんまりそういうの見せん方がいいぞ。いいか、サラリーマンはな、上司の評価が命なんやからな。」
「は、はい。」
確かに先輩の言うとおりだ。僕は最近しょっちゅうボーっとしている。もちろん出口の件を聞いたからではない。ここ一、二カ月ずっとそうなのだ。何が原因ということはない。ただ、何となく。ただ、本当に何となくとしか言いようがない。
家に帰り着いたのは、十時ごろだった。それでも早い方だ。アパートのドアを後ろ手に閉めたとたんに、体中にだるさが広がる。最近は、毎日こうだ。まったく。
「サラリーマンはな、上司の評価が命なんやからな。」
脇田さんの声が耳によみがえる。
(そのとおり、そのとおりかもしれない。でも――。)
玄関先にしばらくつっ立っていた。今日一日の支店の風景を、思い出すともなく思い出しながら。窓口の裏に「顧客第一」と書かれた大きな文字、朝九時ちょうどから押し寄せる客、意味もなく煩雑な事務手続き、お得意先が来ると課長や主任はそちらに掛りきりになり、取引金額の小さいいわゆる「一見」客は十把ひとからげに僕に押しつけられる。ひとりで何十件もこなして、どれだけ待たせることになっても知らん顔。今日は、教養の高そうな中年女性の客から言われた。「あなた、『時は金なり』と言うけれども、時はお金以上なのよ。」と。「顧客第一」が聞いてあきれるよ。忙しさあまりの事務ミスで、支店に大きな損害を被らせ、これ以上はないくらいに叱責されたこと(あーあ、何してるんだろ、俺)。結局昼食にもありつけなかった。やっとひと段落ついてかなり遅れて食堂に上がって行ったら、すでに片付けられていた。支店長の怒鳴り声。それに対して媚びへつらう課長連中のいやったらしい声色。鳴り響く電話の音、コンピューターの帳票出力の音、客の苦情の声、上司の不機嫌な顔。白々しく取りすました声の店内放送。――
まだ耳元でガンガン鳴っているそれらの騒音を振り払おうと、耳を押さえ、頭をブルブル振って、それから、そんなことをしていても無駄だと諦め、やっと靴を脱ぎ始める。
六畳一間の畳の上に、鞄を投げ出してネクタイを緩めた時、ニッキからの電話のことを思い出す。で、急いで受話器を取り上げ、番号を押す。
「はい、明石ですが。」
いきなりニッキ自身が電話に出た。張りのある、堂々とした声。自信にあふれた声色。
「あ、俺、高橋だけど――。」
何もやましいことなんかないのに、妙に決まりが悪く、僕はボソボソとした口調になっている。
「おう、透、待っとったんや。実はな、出口の奴――。」
そこまで言って、ニッキは言いよどむ。
「どうした?」
「いや、どうもあいつ、――癌らしいんや。」
一瞬言葉が出なかった。
僕は動悸がして、ただ目の前の白い壁をまじまじと見つめていた。
「おい、聞いとんのんか?」
「あ、ああ。――どこの? どこのなん? 容体は?」
「ガン」という音が耳に貼りついて、繰り返し響いた。ガン、ガン、ガン――。
「ああ。俺も細かいことは分からんのやが、一応まだ大丈夫らしい。家の人に聞いたところでは。」
一応まだ、って――。
「今日、ちょっとだけ病院行ったんだが、ベッドに起き上がるくらいは出来るんやから、まだ大丈夫や。けど、何にもしゃべりよらんと黙りこくっとる。」
大丈夫の程度が違うだろ。それは大丈夫と言えるレベルじゃないだろ。
と、プルルル…というキャッチホンのベルが鳴る。
「あ、ちょっと待ってくれ。――はい、高橋です。」
「私。」
菜摘の声だ。
「あ、ああ、今ちょっと、ニッキと話しとるから。後でかけるわ、また。」
「――そう。」
やや乱暴に受話器を置く音が響いた。僕は軽く溜息をついた。
「悪い。」
「よかったのか?」
「ああ、菜摘やったから。」
「そうか。――それでなぁ、あいつ、精神的に相当参っとるみたいやから、近いうちに暇見つけて見舞いに行ってやってくれんか、お前も。」
ニッキの口調は、こんな時でもしっかりと落ち着いている。最後にニッキは、出口の入院先の病院名を告げてから、
「早く菜っちゃんに電話してやれよ。」
と言った。
「分かってるよ。」
「出口も出口やが、お前の方も何か心配やな。」
「何が?」
「まあいいけど。じゃ、そういうことで。また。」
「ああ、じゃな。」
電話が切れた後しばらく、僕は受話器を持ったまま放心状態だった。何をどう考えたらいいのか分からない。
受話器を置くと、今度は畳の上に寝転がって、頭の中を整理しようと努めた。が、何も整理など出来ないまま、気がつくと壁に掛ったカレンダーを見るともなくぼんやり眺めているだけだった。カレンダーの中のキャラクターが、やけに白々しく笑っている。
しばらくして、ようやく菜摘のことを思い出す。が、僕は何となく菜摘と話す気がしない。いったん受話器を取ったが、どうしても番号を押す気にはなれず、代わりに多津雄のアパートの番号を押す。
多津雄は、通話中だった。ニッキと話しているのかもしれないと思い、十分おいてまたかけても、やっぱり通話中だった。僕は、まるで周囲の平静さから切り離され、自分ひとりが不安に押し潰されんとしているような気がした。
落ち着かない気分のまま、仕方なく風呂に入り再び電話をかけたときに、やっと多津雄はつかまった。
「長いこと誰としゃべっとったんや?」
僕は心ならずもちょっと責めるような口調になっていたかもしれない。誰と話していようと、僕が咎める筋合いのものでもないのに。
「ああ、ちょっとな。」
多津雄らしくない、歯切れの悪い言い方だ。僕は、でも、多津雄の様子のいつもと違うことに気遣う余裕はなかった。いらいらするのを抑えながら、
「出口のこと、聞いたか?」
「出口が、どうかしたんか?」
なんだか上の空といった感じの、多津雄の返事。
「入院したんや。」
自分の声が虚ろに響いている。
「なんで。」
「――癌。」
僕は、小さな声で辛うじて「ガン」という言葉を発音する。のどに何かつかえるものを感じながら。
「え? 何だって?」
「癌!」
「はあ!? ――癌!?」
「ああ。」
「ああ、って。お前、そんな冷静に――。」
「冷静なもんか!」
多津雄の言葉が心外だったことと、誰であれこの件について話せる相手にありつけた安堵で、僕はとても感情的になっていたと思う。
「冷静なもんか!」
叫びながら、涙が出た。