長い長い冬の真中で
後ろから、ポンと肩を叩かれる。さっきら大スクリーンに目を向けながらとりとめのない物思いに耽っていた僕は、思わずビクンとして振り返った。明石良平の満月のようなまんまるい顔が、相変わらずニキニキ笑っている。
ニキニキとは変だけれど、こいつの笑顔を表現する擬態語として、これ以上ピッタリのものはない(と思う)。ニコニコ、ニタニタ、ヘラヘラ、どれも違う。ニカニカに近いけれど、それよりももっと口を「イーッ」と言う時のように横へ引いている。横へ引いている口からきれいに揃った真白い歯が覗いている。その嫌味のない、さわやかな(?)ニキニキが評価されて、こいつは昔から本名とは関係なく、「ニッキ」というニックネームで呼ばれている。
そのニッキの良平が言う。
「そんなにびっくりせんでもええやろ。待ち合わせしてたんやから。」
「ああ、すまんすまん。ちょっと考え事しとったからな。」
「ふうん。他の奴らはまだ?」
「まだらしい。」
年末の大阪の繁華街。辺りはちょっとソワソワしたムードだ。人の話し声が混ざり合って、低い音楽の通奏低音のように僕を包む。
半年ぶりに会ったのに「久しぶり」も「元気か」もなく、いきなり会話に入る。まるで昨日の話の続きでもしているかのように。僕らはそういう間柄だ。久しぶりなのは当たり前であって、そういう社交辞令はいらない。元気かどうかは顔を見れば分かる。
毎年夏と冬の二回、この大スクリーン前で待ち合わせて飲み会を開くのが、僕ら五人の通例になっていた。大学卒業直後から続けているので、今回で四回目になる。普段忙しい分、この時だけは、という気持ちが皆にある(はずだ。少なくとも僕はそう。)
「店の調子はどう?」
「ああ、ぼちぼちや。」
「…あ、他の奴らと言っても、あとは出口だけか。」
僕は気づいて、そう言った。
「多津雄は?」
「遅れるから直接店の方へ来るって。あいつ今日まで仕事やから。」
「ふうん。」
「ま、今日まで仕事と言っても今日は半ドン、その後は正月までずっと休みやからな。結構なご身分やけどな。」
年末にまとまった休みが取れるなんて、メーカー勤務ならではだろうな。銀行員の僕は大みそかまで出勤。今日の時点では、まだ今年は終わってない。やれやれ。
ニッキはと言えば、こいつは卒業後すぐに、親父さんの経営するスーパーを継ぐための見習いを始め、今は、実務レベルのことはかなりの割合で取り仕切るようになっているみたいだ。個人経営にしては、その界隈ではかなりの規模で、大手にはない地域密着ならではの味をうまく出している(詳しいことは知らないが)らしく、このご時世にじわじわと業績を伸ばしている。つまり、会社社長の御曹司というわけだ。やれやれ、うらやましい限りで。そういう立場だから、このニッキにだって年末の休みなどという有難いものはないはず。今日だって無理を言って出てきたのかもしれない。でもこいつは、そんなことは一言も言わず、ただニキニキ笑っている。そういう奴だ。
「すまんすまん!」
叫びながら(地声が大きいので僕には叫んでいるように聞こえる)、出口が走り寄って来た。
「はい、十九分三十四秒の遅刻ですので、二万円いただきます。」
くだらないジョークで迎えたぼくを無視して、「やあ、今日は仕事納めさやさかい、ごっつ処理事項が多かってや、わややったんや。」
辟易しているのかと思いきや、若干ドヤ顔?
出口芳和。こいつは地元の市役所に勤めている。芸術家肌、恐ろしく身なりに頓着しない質で、昔はいつ見てもボサボサ頭だったが、今はそこそこ無難に手入れされた頭髪だ。人間、やればできるということだ。
(しかし、六時二十分までに片付く「わや」って…。それはさぞかし大変な「わや」だったんだろうね。俺は六時二十分なんて時間に仕事終わったことないけどね。)
最近満たされない思いがたまっている僕は、そんな意地悪なことを考えてしまう。
「あれ、多津雄はまだか?」
「奴は遅れて来るらしい。」
とニッキ。
「ふうん。」
僕らはぞろぞろと歩き出した。仕事が終わってさあ、これから! という「いかにも」な感じの人が多い人混みをぬって、いつもの一角にある、いつもの居酒屋。
「この辺もほとんど変わらんなあ。」
街並みをぼんやりと眺めながら歩いていた僕が、独りごちるように呟くと、
「当たり前や、半年でそうそう変わるかいな。」
出口が笑って反応する。そりゃそうだ。いやいや、僕は二年前と比べているんだ。 僕らの学生時代と。そう言おうとして、やめた。今夜は妙にセンチメンタルになっている気がする。いや、卒業してからこっち、慢性的にそうなのかも。
なんだか心がザワザワして、二人の一歩前に出て、先に立って歩き始め得る。後ろの二人は、やたら楽しそうに話し込んでいる。
店に入り、四人用の座敷に陣取って、ひとまず三人で乾杯。
「お疲れー。」
何が「お疲れ」なんだか知らないが。
出口が、ビールをぐっと一気に飲み干した。こいつは昔から飲みっぷりがいい。一方ニッキはまるで酒が飲めない。正確にはビールならグラス半分。日本酒なら二ミリ。今日もひとり、一.五リットルのボトルごと注文して、ウーロン茶での乾杯だ。
「池谷から手紙来たで。」
と出口が言う。池谷正則は、我々五人のメンバーの一人だが、卒業後東京の商社に入り、この四月からイタリア勤務中だ。こ飲み会にも前々回までは参加していたが、前回、今回と連続で欠席している。年末もイタリアから帰って来ていないとか何とか。
「生きとったか!」
思わず僕は言う。
「あいつが死ぬかいな。向こうで、当のイタリア人よりもデカい顔してナンパしまくっとるらしいわ。女には不自由しとらん、とか書きよったで。」
やれやれ。顔を見合わせるニッキと僕。
「で、仕事の方はうまく行っとるんかいな?」
ニッキが尋ねると、
「知らん。仕事のことは何にも書いとらん。」
「池谷らしいわ。」
「ま、うまくやっとるやろうで。あいつは世渡りうまいからな。どこかのおぼっちゃん君と違って。」
「誰のことや!」
言ってから、しまったと思う。案の定、
「誰もお前やとは言うとらん。」
ニターっと笑う出口。こいつは池谷とつるんで、何かにつけて僕をからかって楽しむ癖がある。今は相棒が「海外逃亡中」だから、多少大人しいけれど。せいせいする一方で、一抹の淋しさを覚えずにはいられない。大学時代、この五人はほとんど何をするでも一緒だった。それはもう、作り話の世界のように。今思えば、ちょっとくっつき過ぎていたような気がするが、それはそれで良い思い出になっている。それが、別々に生活するようになり、年二回の飲み会ですら、一人ずつ欠けて行き、いずれは消滅するのだろうか。
「それはそうと、ニッキ、奥さんは元気かい?」
僕は話題を変えようと、ニッキの方へ向いた。こいつは僕らの中で唯一の既婚者なのだ。
ニッキの顔が、真っ赤になった。こいつは何かあるとすぐ真っ赤になる。だけど今日は、なんだか、悪戯を見つかった子供のような表情が混じっている。何だろう?
「それが、ちょっと具合悪くてな。」
「風邪か?」
ニッキの顔は、さらに赤さを増してゆく。
「いや、その、――出来たんよ。」
消え入りそうな声。
「?」
「…出来た、って?」
たっぷり三秒の沈黙の後、出口が素っ頓狂な声をあげる。
「つわりか!」
「…うん。」
「うぇーっ!」
僕ら二人は、言葉にならない叫び声をあげる。
「まあ飲め飲め。」
とニッキのグラスに、ウーロン茶をなみなみと注ぐ出口。
「そうか、ついになぁ。」
驚きの中に少し違う感情が混じっている。子供どころか、まだ結婚すらしていない僕には、それは想像の域を超えた世界。ニッキひとりが、「大人への階段」をさっさと駆け上がり、先に別世界へ行ってしまったような感覚。妬みなどでは決してないけれども。
はしゃいでいる出口の目が、幾分虚ろに見えた。僕自身の目も、きっと。僕は手酌でルを二杯続けて飲み干し、
「そうか、ついになあ。」
と同じ台詞を繰り返した。
僕が三杯目のビールを自分のグラスに注いでいる時に、金原多津雄がようやく現れた。
「やあ諸君、盛り上がっとるなあ。まずは駆けつけ三杯。」
と自分で言って、僕にビールを注がせると、
「一、二、三。」
と声に出して数えながら、文字通りきっちり三杯を瞬く間に片付け、あとは椅子にもたれて、
「プハーッ。」
と言った。まるでそれがずっと以前からの決まりごとで、この日のために何度も練習してして来たかのように、事もなげにここまの動作をやってのけた。
真打ち登場、である。
「透、まだ銀行辞めとらんか。」
「へえ、おかげさまで。」
答える僕は謎の商人風。
「お前の性格、全然治っとらんなあ。」
「いやいや、それはお前やし。」
他の二人は無反応。いつものことだから。
それから多津雄は、煙草を取り出し、火をつけて一口喫ってから、おもむろにニッキに向かって、
「お前、まだ子供は出来んのか?」
と言ったから、ニッキは飲みかけのウーロン茶をテーブルの上に吐き出した。出口と僕は、腹を抱えて笑い転げる。
この男はいつもこの調子だ。とにかく、やたらと調子がよく、何かにつけ目立つ。我々の仲間内でも、ある意味では中心的存在だった。
しばらくはニッキの奥方のご懐妊話で盛り上がった。多津雄は、二本目のタバコに火をつけ、心から満足そうにプハーっとやっていたが、出口は、時々ふっと淋しそうな表情を見せた。僕も、何やら慣れ親しんだことのない、訳の分からない侘しさが胸の底にじわじわと沈殿してきた。
僕はそれをアルコールで溶かしてしまおうと、グラスのビールを一気に空けた。(今晩何度目の一気だろう――。)すると、それを目ざとく見つけた多津雄が、しきりに絡んでくる。
「おっ、透ちゃん、いい飲みっぷりだねえ。さ、飲みねえ、飲みねえ。」
空になったグラスに、再びビールをいっぱいに注いで、あふれ出た泡は自分で吸い取っている。テーブルにこぼれたビールを、右手に持った布巾でさっさと拭きとりながら、
「すいませーん、ビールあと四本!」
と、指を立てた左手をあげて叫ぶ。完全な酔っ払いだが、やることはしっかりしている。それでいて、言うことが阿呆だ。
「透ちゃーん。とおるさあーん。ねえ、と・お・るさんったらあ。あたしの酌じゃ飲めないってえの?今夜はニッキのご懐妊祝いなんだからあ。」
別にニッキ自身が「ご懐妊」したわけではない。
こういう奴なんだ。仕方がない。今に始まったことじゃないし。
気がつくと、我々二人には感知せず、出口とニッキは、二人で話を始めている。
「お前ら、俺一人にこいつの相手押しつけるなよ。」
すると、
「ニッキんところ、今度、支店を出さはるそうや。」
と出口。
隣の市にいい土地が手に入りそうなので、ここらでひとつ、店舗を増やしてみようということらしい。そこで、ニッキもかなり実務を覚えてきたので、親父さんは支店の方の運営を勉強がてら、息子にやらせてみようとしているのだそうだ。もちろん何かあったときには、親父さんがフォローしてくれることにはなっているが。まったく、めでたいことは、重なるところには重なるものだ。というより、勢いに乗っている人間っていうのは、こういうものなのか。
「いよいよ、若旦那かいな。」と多津雄。
「若旦那でパパか。」と出口。
「ニッキがねえ。」と僕。
「・・・・・・。」とニッキ。(顔真っ赤っ赤)
学生時代のニッキの顔が、いくつも次々に目に浮かぶ。いつも穏やかに笑っている。多津雄と僕が喧嘩したときも、出口と池谷がつるんで僕をからかっているときも、運営方針でもめて、クラブ全体に険悪なムードが流れていたときも。いつも太陽のように動かない。その太陽が、僕をおいて、一段も二段も上の世界へあがって行ってしまったような気分。離れていく、感覚。笑顔そのものは何にも変わらないのだけれど。
周囲の空気が、多津雄のタバコで白く濁ってきた頃、一次会お開きの時刻が来た。
「みなさん、そろそろ時間ですので。」
僕が、時計を見て幹事めいたことを言うと、
「よし、二次会、二次会。」
と、早くも多津雄は大ハリキリだ。
「俺、ちょっと悪いけど。」
ニッキが遠慮がちに、言い出す。
「えっ、二次会行かへんのか?」
「嫁さんが心配やから・・・。それに今日は、新しい店で働いてもらう人が、うちに顔見せに来てはるから、俺もちょっとは顔出ししとかんとあかんのや。悪い!」
両手を拝むように合わせて、すまなさそうに言う。
そういう理由なら仕方がない。
「なにぃーっ、おまえ、そんな言い訳が通るとでも思っとるんかぁーっ!」
叫ぶ多津雄の頭を軽く殴り、僕は言った。
「しようがないな。いいよ。気にすんな。」
「悪い。」
恐縮した表情だが、口元には、押さえきれない幸福感みたいなものが漂っていた。あ、この男は今「充実」しているんだ、と僕はなんだか異邦人でもみるような気分で彼の口元を眺めた。出口はニタニタして、黙りこくっている。
「よし、われらの英雄、良平君のために万歳三唱!バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」
多津雄の音頭で万歳三唱をして、ニッキを見送った。
「じゃ、また連絡するわ。」
と言って歩き去ってゆく、コートを着た彼の背中が、妙に広く、逞しくゆれていた。
二次会は、予約してあったバーへ行った。四人分取ってあった予約席を、三人で使うことになった。空席がひとつ、見るからに空いているというわけではないのだけれど、それでもさすがに、あるべきものがそこにない淋しさが、三人の心を吹き抜けた(と僕は思う。少なくとも僕はそうだった。)
多津雄は相変わらずのペースで、上機嫌で飲み続けた(ように見えた)が、出口の方が多少「参って」いた。ニッキの様子にあてられたんだろうか。いや、多津雄だってあいつなりに何か感じていたのかも知れない。多少、普段よりはしゃぎすぎていたから。
「飲もう、飲もうぜ! ここにいない奴のことなんか忘れて。」
などというセリフの中に、多津雄なりの「侘しさ」が感じられないでもなかった。
僕は、ニッキがどうのというよりは、それをきっかけに自分自身のことを考えさせられ始めたといった具合で、目の前にあるチューハイのライムを一口のんではボンヤリし、また一口のんではボンヤリし、ということを繰り返していた。自分でも、冴えないなぁ、と思いながらどうしようもなかった。
ふとした瞬間に、銀行での様々な情景が頭をよぎる。朝八時半から夜の九時近くまで、目の前の仕事の処理に翻弄されているうちに一日が終わる。一日分の人生が消化される。一体いつまでこんな事が続くのか。何も考えられないままで。
「透、お前、何か辛気臭いぞ!」
と、出口が時々思い出したように叫んだが、毎回同じ言葉を口にするだけで、しかもそういう出口自身も相当に辛気臭かった。
それでもしばらくの間は、毎回お決まりの、大学時代の昔話で盛り上がった。(それにしても、いつから僕らは「昔話」で盛り上がるほど年を取ってしまったんだろう。)
一時間ほどして、とうとう誰も何も言わなくなった。僕は、この辺が潮時だと思い、
「そろそろ帰るか。」
と言った。
「何、もう終わりか。」
すかさず多津雄が言ったが、それは一応自分の役割として言ってみただけのような口調で、それさえ行ってしまえばもう義務は果たしたと言わんばかりに、言った多津雄が一番先に、上着を手にして立ち上がった。出口はその横で、何だか悪戯を見つかった子供のように、にやにやと苦笑した。
僕らは、バーの入口の前で、立ち話をしていた。まだ話があるのなら、慌てて出てこなくても、店の中ですればいいものを、こういうときはいつだってこういうものだ。何も話すことなんかないのに、いざ別れるとなると、わけもなく名残惜しい気がする。
「来年、また集まれるかな。」
ふと、出口がそんなことを口にした。長身の出口がなんだか小さく縮こまって見えた。その気持ちが痛いほど僕には分かった。少なくとも、その時には、僕は出口の気持ちが分かっているつもりでいた。自分も同じ思いだよ、と。
「当たり前や!」
と言ったのは、僕だった。僕の日常生活は、このところずっと「灰色状態」だった。真っ暗ではないが、明るく輝きもしない。今、唯一の楽しみであるこの飲み会までなくなったら、俺はこの先何を楽しみに生きていくのか。酔っていた僕は、半ば本気でそんなことを思った。
多津雄は、あらぬ方向を眺め、知らんぷりでタバコを吹かしている。急に、冬の空気が体の芯まで染み込んで来たように感じ、僕は身震いをした。
出口と別れて、同じホテルをとってある僕と多津雄は、並んで梅田駅の方角へ歩きだした。二人とも心なしか肩を落とし、とぼとぼと歩いている。
「俺、ひょっとして会社辞めるかも知れん。」
突然、本当に突然、多津雄が言った。
「え? 辞める? どうして?」
「どうしても。」
「ふうん。」
僕としては、ふうんとしか言いようがない。しばらく、二人は無言で肩を並べ、黙々と歩いた。酒が入っているとはいえ、さすがに年の瀬の夜中は寒かった。
「お前、菜摘と結婚するんだろう?」
長い沈黙の後、多津雄は言った。
「あ? 結婚?」
「他に候補がいるわけじゃなし。さっさとしちまったどうだ。」
「なんだそれ? そんなことまだ考えられん。第一、お前が何でそんなこと心配するんだ?」
「四年も付き合ってるんだし、もう二十四なんだから、してもおかしくはないだろう。」
(多津雄は東京に就職したせいだろう、卒業後は、真面目な話になると標準語?が出るようになった。)
「母親みたいなこと言うなよ。そういうお前はどうなんや。綾ちゃん、待っとるんやないか? それに、年齢からしたらお前の方が先やぞ。」たった一歳違いだけど。
多津雄は、僕の言葉には直接答えず、
「だよな、透が結婚するなんて信じられねえもんなぁ。このガキが。自分のこと、自分で考えられねえもんな、お前。」
「うるせえな! なんだそれ!?」
僕はそう反応したが、内心、痛いところを突かれてギクッとした。なんとなくなるようになってこれまで生きてきたけれど、これでいいのだろうかという懸念が、漠然と自分の中に芽生えつつあるのを感じていた。だからといって具体的に何をどうすればいいのかなんて、全然分からないんだけれど。だから、結婚なんて、僕には手に負えないような代物な訳で、僕は端っから考えるのを放棄しているようなところがあった。
多津雄が言ったように、菜摘とは学生時代から付き合い始め、もう四年になる。彼女が時々、「早く一緒に暮らしたい」というような意味の言葉を口にするようになったことには、気づいていた。気づいて、気づかぬふりをしていた。
まだ学生気分が抜けていないんだよな、と他人事のように心の中で呟きながら、そんな、鈍く圧迫されるような思いを外へ吐き出したくて、顔を上げて辺りを見渡した。夜の飲み屋街の風景が目に飛び込んでくる。何のことはない。薄暗い中に赤や黄や緑のネオンが所々ギラギラと浮かんでいるだけだ。僕自身の生活も、こんなものかも知れない。灰色の世界に、時々誰かがネオンのように光るものを投げ込んでくれるのを待っている。それが来ないうちはただ、灰色の中でひとりぼんやり佇んでいる。
「綾とは、結婚しないかも知れない。」
ぽつんと多津雄が言った。また、きれいな標準語で。
「そうか。」
僕は、なんでもなくそう答えた。その時の僕には、多津雄の気持ちがよく分かった。分かっているような気がしていた。
終わってしまった春と、これから訪れる春の間には、いつだって冬がある。終わってしまった春はあまりに眩しく、現実以上に輝いて人を惑わせる。また、これから訪れる春はあまりに遠く、其れがどんな春なのか、今からではまるで見当もつかない。そもそもそれが必ず訪れるという保証もない。それだから結局僕は、今は今の冬の中に、じっと身を横たえているしかないんだ。そうやって、僕は長い間、何かを待ち続けていたような気がする。ただ、何もしないで待っていた。巡り合えるかどうかも分からない、何かを。そして、これからも――。
そんなことを考えるともなっしに考えながら、今も昔もこれからも僕にとっては変わらぬ親友であるはずの多津雄と、ただ肩を並べて、いつしかトボトボとした格好で夜の街を歩いていた。
どこから来たのか、気が付くと一匹のみすぼらしい野良犬が、僕らの後をひたひとと足音を立てず、ついて来ていた。はしゃいで尻尾を振ってはいるが、いかにも惨めに痩せ細った姿に、僕は何となく親近感を覚え、屈んで頭を撫でた。
「すまんな。食わしてやるもの、何にも持っとらんよ。」
犬は、分かったのか分からないのか、嬉しそうにくんくんと鼻を鳴らす。僕らのうなだれた姿を見て、仲間だと思ったのだろうか。なぜだか、少し目頭が熱くなった。多津雄は、にやにやしながらつっ立って、僕らを見下ろしている。
再び歩き出すと、犬はそのままついて来た。もう、僕らと仲間になった気でいるのかも知れなかった。
「ま、なるようになるわな。」
突然、多津雄がそんなことを言った。何のことを言っているのか分からないが、その気持ちだけは分かるような気がして、僕は自信を持って、
「その通り!」
と言った。すると今度は、このバカな「親友」はくすくすと笑い出した。僕もつられて一緒になって笑った。犬は、嬉しそうにくんくん言った。
多津雄はタバコを吸おうと一本ポケットから取り出したが、笑いすぎてどうしてもそれを咥えて火をつけることが出来ない。とうとう、タバコを放り投げ、身をよじって笑い出した。何だかもう、僕らには笑うことしかない、といった笑い方だった。僕も同じようにげらげら笑い、犬は尻尾を振り、二人と一匹は、すれ違う人たちが気味悪そうに避けて通るのも構わず、お互いの顔を見ては笑い転げながら、並んでよたよたと飲み屋街の通りを歩いて行った。