第8章 消えた探偵(5月25日)
五月二十五日
まただ。またあの声。深夜に聞こえてきた、呻くような、唸るような声。今度ははっきりと言える、気のせいや幻聴、ましてや発電機の音なんかじゃない。だが、昨夜は精神的に疲れていたせいか、それが睡眠の妨げになることはなく、深い眠りにつくことが出来た。
携帯電話のアラームを止める。時刻は午前四時ちょうど。出発の一時間前だ。
身支度をして台所に行くと、すでに理真がいた。
「おはよう。早いのね」
「おはようございます。朝食でもと思って。まあ、簡単にレトルト食品ですけれど」
理真は鍋で湯を沸かしているところだった。流しの横には人数分(六つとなってしまった)のレトルトパックが置いてある。
「私も美夕さんみたいに料理が出来ればいいんですけれど」
「そんなことないでしょ。昨日のおにぎり、好評だったわよ」
「本当ですか?」
「ええ、大きさがまちまちだから、そのときのお腹の減り具合によって食べる量を調節出来るからってね」
「もう!」
「おはよう。早いな」
理真が口を尖らせたところに、湖條も姿を見せた。背広ではなく動きやすい普段着を着ている。今日の〈仕事〉のためだろう。私と理真も挨拶をすると、
「何だ? お茶でも煎れてくれるのかね」
湖條が湯気の立つ鍋を見た。
「いえ、朝食です。今日は朝から大仕事がありますからね。がっつり食べてもらわないと。特に馬渡さんには――」
「呼んだかい」
その大仕事を実際に行う男も台所に現れた。
「馬渡くん」と湖條が、「そんな恰好でいいのかね? 崖を上り下りするのだろう」
湖條教授が驚いたのも無理はない。馬渡は昨日と同じ背広姿で決めていたからだ。
「心配いりません。これが俺の戦闘服ですから」
そう言いながら背広の男は微笑んだ。サラリーマンか。そう、こいつはいつも背広を着ている。が、ただの背広ではない。下に着ているシャツも含めて、激しい動きや無理な姿勢にも耐える特注品なのだ。男は背広。いつ、どんな状況下においてもダンディズムは忘れない。それがハードボイルドの信条なんだとか。私も昔は、それをかっこいいと思っていた時期があったが、今は「アホか」のひと言しかない。無論、そんなことは口にしないが。
「履物も革靴じゃないかね」
「ええ、心配いりません」
これも一見普通の革靴に見える特注品だ。スニーカーの走りやすさと登山靴の丈夫さを兼ね備え、爪先は安全靴のように防護されており踏みつけられても平気。底にはスパイクも付いている。こんなものに金を掛けているから、いつまで経っても貧乏探偵のままなんだ。
それからすぐに田之江、乱場も起きてきた。六人で朝食を掻き込み終えると、時刻はちょうど午前五時になった。
「では、行こう」
湖條の声を合図に、私たちは表館を出た。
乱場が鞄を提げている。訊いてみると、台所にしまわれていた梱包用のビニール紐とハサミが入っているという。表館を調べ回ったが、崖の登坂に使えそうな道具はこれしかなかったという。物置には洗濯物を干すために使っていたのか、数メートルにもなる竹竿が一本あったが、二十メートル近くもある崖下までは到底届かず、馬渡も必要ないと言ったため持ってこなかったという。「ロープでもあればよかったんですけれど」と乱場は残念そうな声を出したが、「十分だよ。ああ見えてビニール紐って丈夫なんだぜ」と馬渡は余裕の表情だった。
「あの真下です」
屋敷を出てきっかり三十分後、馬渡の案内で私たちは、影浦の死体があるという場所に到着した。全員が立ち止まった位置から崖の先までは五メートル程。
「先に私と馬渡くんで確認しよう。みんなは待っていてくれ」
湖條は馬渡を伴って崖の先端まで歩いて行く。湖條は崖の手前二メートル程からは四つん這いになり、最終的には腹ばいとなって崖から顔を出して下を覗き込んだ。対して馬渡はと言うと、少し腰を屈めただけで二足歩行のまま崖の先端まで歩いて行っている。危なっかしい。湖條のように伏せるべきなのに。だが、これもあいつの言うダンディズムなんだから仕方がない。本当に面倒くさい男。幸い、ほぼ無風状態のためバランスを崩してしまうことはないだろう。しかし、風がないということは、上空に垂れ込めた雲を押し流してくれてもいないということだ。頭上の空には灰色の雲が停滞したまま。そのうちに、ひと雨来るかも知れない。
「どこだ?」
「……そんな、確かに」
湖條と馬渡の声が聞こえてくる。少しでも眼下との距離を縮めるためか、馬渡はダンディズムを捨てて湖條と同じように腹ばいになった。二人は尚も何か言い合っている。その会話内容から察するに、まさか……。残されている私たちは互いに目配せして頷いた。崖に向かって歩いて行き、湖條がしたのと同じように姿勢を低くして腹ばいになり、崖から顔を付きだした。大人六人(正確にはひとりは高校生だが)が一列に並んで腹ばいになり崖下を覗き込んでいる。端から見れば異様な光景だろう。が、その崖下には、さらに異様な光景が見られた。いや、本来であれば、ごく当たり前の光景なのだが……。
「馬渡さん」と理真が、「影浦さんの死体は……どこですか?」
返答を待つ。私も目を凝らして見ているが、眼下にそれらしいものを見つけることは出来ない。狭くて長い岩棚と、海面から突き出たいくつもの円錐形の岩が波に洗われているのが見えるだけだ。
「消えた……」
「何ですって?」
力ない馬渡の言葉を田之江が聞き返した。
「消えたんだ! 俺が昨日見たときには、確かに……」と馬渡は崖直下の岩棚を指さして、「あの辺りに倒れていたんだ。影浦が……」
馬渡の指の先を追ってみても、そこには黒い岩棚があるだけだった。時折強い波が寄せ、海水が被る。その岩棚は海面から数十センチ程度しか持ち上がっていない。
「波にさらわれたんでしょうか?」
乱場が言って私たちを見る。湖條は、
「いや、あの程度の波で、大人ひとりの死体がさらわれてしまうとは思えない。波は昨夜からずっと今の程度だったはずだ」
「……とにかく、一度下りてみる」
馬渡は立ち上がった。崖ぎりぎりの位置だったため、私は思わず「あっ!」と声を出してしまった。
丈夫な革の手袋をはめた手で、馬渡は何重にも巻いて結び、輪っかにしたビニール紐を握った。これを突出した岩に引っかけながら崖を下りるというのだ。
「気をつけて下さい」
「任せろ」
心配そうな乱場の声に答えてから、馬渡はほぼ垂直の崖面に足を掛けた。岩にビニールのリングを引っかけ、あるいは直接掴みながら、馬渡はどんどん崖を下っていく。私たちは腹ばいになって、その様子を見守っている。
「大したものですね」
田之江が感嘆した声を出した。乱場もこのときばかりは死体消失という状況を忘れているのか、きらきらとした目で馬渡の勇姿を見つめている。湖條と理真、そして私は黙ったまま、神妙な顔つきで見守るばかりだった。
馬渡は一分少々で崖を下りきり、岩棚の上に立った。一旦私たちを見上げて手を上げて、無事なことを知らせる合図を送ると、屈み込んで岩棚を調べ始めた。時折高い波が岩棚の上まで乗り上げ、馬渡の靴を濡らしていくのが分かる。数分ほどすると、馬渡は立ち上がって腰に手を当てた。
「何か見つかったかね?」
浴びせられた湖條の声に、馬渡は首を横に振って答えた。
下りたとき同様、輪っかにしたビニール紐を器用に扱って、馬渡は無事帰還を果たした。私は思わずため息を漏らす。恐らく表情も安堵を湛えたものになっていただろう。下りるときとは逆で、上りは進むとともに高度が増して危険度が上昇する。それが心臓に良くない。途中で一度、馬渡は岩を掴み損ねて片手だけで宙づりになってしまった。皆が息を呑み、乱場は「あっ!」と悲鳴に近い声を上げた。私も喉まで出掛けた悲鳴を飲み込んだ。隣では理真も小さいが悲鳴を漏らしていた。
「大丈夫ですか? 馬渡さん!」
登頂を終えて地面に座り込んだ馬渡に乱場が駆け寄り、鞄から取りだしたペットボトルの水を差し出す。台所に用意してあったものを持参してきていたのか。馬渡は「サンキュー」と言って受け取ると口を付けた。水を一気に飲み干して、ひと息ついたところに、
「どうだった?」
湖條が声を掛けた。馬渡は荒い息を整えてから、
「何もありませんでした。影浦さんの死体があった痕跡も、遺留品も、何も。血も波で洗い流されてしまったようです」
「君が昨日見たときの状況を、もっと詳しく話してくれないか」
はい、と馬渡は話し出した。
昨日、早めの夕食をとる段になって影浦がいないことに気が付く。表館の調査をしている最中に館を出て行ったきり戻っていないらしい。私たちは手分けをして影浦の捜索に出た。ここまでは全員が共有している出来事だ。
馬渡の担当は、この岩場。日が傾き暗くなりかけていたが、ここは西に面しているため他の場所に比較してまだ明るかったという。馬渡は念のため、海に面した崖の下まで覗いて見て回っていた。そして、そこに発見した。二十メートル近く落差のある崖の下、岩棚の上に、影浦らしき人物が俯せで倒れているのを。叫んで声を掛けてみたが返事はない。返事どころか、指一本動かすこともなかった。よく見れば、頭の一部とその下の岩場が赤黒い液体で濡れている。「死んでいる」馬渡は即座にそう思ったという。
「それで、慌てて引き返して屋敷で留守番をしている田之江さんに報告したというわけです」
この言葉には田之江が頷いた。私たちへの連絡手段がないため、全員が戻ってくるのを二人で待っていたというのは昨日聞いた通りだ。
「無理をしてでも、昨夜のうちに下りて調べておくべきだった」
すでに立ち上がっている馬渡は悔しそうな表情になり、ぱちんと拳で反対の手の平を叩く。
「無理ですよ。あの暗さの中、こんな崖を下りるだなんて」
「乱場くんの言うとおりだ。あれは仕方のない措置だった。まさか、死体が消えるなどとは思いもしなかったからな」
湖條も馬渡を責めはしない。口には出さないが、無論私も。理真はと見ると、彼女は黙ったまま虚空を見つめているだけだった。
「消えた死体、ですか」と残るひとり、田之江が、「どういうことなんでしょうね」
問いかけるように私たちを見た。乱場がまず口を開き、
「さっき教授が言った通り、波でさらわれたというのは考えられません。カモメなどの鳥に死体が食べられてしまったというのもないでしょう。ここらではカモメなどは見かけませんし、骨や服まで消えていることの説明がつきません。鮫などの大型肉食魚類がかっさらっていったというのも現実的ではありません。だいたい、この海域に鮫なんていないでしょうし」
「そうだな」と次に湖條が、「地震が起きて海中に没したというのもないな。倒れた死体が転がるほどの揺れが起きたとなれば、いくら眠っていても誰かしら気が付くはずだ。年のせいか、私は最近眠りが浅くなってきたものでね。それに、ただ海に落ちたというだけなら、すぐに浮かび上がってくるはずだ」
「自然現象で死体が消え失せることはあり得ない、ということですね」
二人の推理を聞いて私は言った。
「はい。となると」乱場がさらに推理を推し進め、「残る可能性は二つです。ひとつは、何者かが人為的に死体を回収した」
「回収? どうやって?」
私が訊くと、
「この崖の上から、先端にフックが付いたロープなどを使えば可能かもしれません。影浦さんの体重は、見たところ六十キロ前後。結構な重量なので、ひとりでは難しいでしょうが」
「どうしてわざわざ、そんなことをする必要が?」
湖條が指摘した。
「そこまではまだ分かりません。今は、死体が消えた、という事象だけに焦点を絞って推理するべきだと思いますが」
「確かにそうだな。悪かった、続けてくれ」
「いえ。そして、可能性のもうひとつ、それは、影浦さんが自力であの場からいなくなった、というものです」
「影浦は死んでいなかった、ということか」
湖條が言うと、乱場は頷いて、
「はい。重い死体を吊り上げるなんてことに比べたら、こちらのほうが余程現実的です。影浦さんはこの崖を登頂することは不可能だと判断して、海を泳いで上陸しなおすことにしたのでしょう。それに、これならば、どうしてそんなことをしたのか、という理由にも説明が付けられます。影浦さんは昨日、屋敷を出てこの岩場まで来ると、足を滑らせて転落してしまったんです。頭を打って出血しましたが、奇跡的に意識を失っただけで済んだ。そこを馬渡さんが発見する。それから朝になってこうして僕たちが来るまでの間に意識を取り戻して、島に戻るため海に飛び込んだ」
「であれば、その後どうして影浦は姿を見せない?」
「泳いでいる途中で力尽きてしまったか、上陸したものの、やはりそこで力を使い果たし、どこかで身動きが取れない状況にいるのかもしれません」
「前者であれば、生存は絶望的だな」
はい、と乱場は悲しげな表情で頷いてから、自分の推理に対して何か異論はあるか、というように私たちを見回す。
「乱場くんの推理が正しければ」と理真が、「影浦さんのことは事件ではなく、事故ということになりますね」
そういうことになる。私は昨夜に広間でした話を思い出した。「犯人は私たちの中にいる」乱場の推理が正しければ、この考えは杞憂となる。しかし……。
「私は、楽観的な推理だと思います」
口にしてしまった。五人の目が一斉に向く。私も見返して、
「乱場くんには悪いですけれど、私には今のものは、〈逃げの推理〉に聞こえてしまいます。〈事故であってほしい〉という願望が先立った推理です。この高さから転落して、しかも下は硬い岩。意識を失う程度の怪我で済むとは思えません。それに、泳いで上陸するのであれば、せめて上着は脱ぎ捨てていくのではないでしょうか。着衣のまま泳ぐというのは大変なリスクですし……。ごめんなさい」
乱場の表情が暗くなっていくのを見て、思わず詫びてしまった。が、少年探偵はすぐに表情を和らげると、
「いえ、いいんです。正直、そう言ってもらえて助かりました。確かに、今のは推理なんて言えません。ただの僕の願望です。僕のほうこそ、ごめんなさい」
乱場は深々と頭を下げた。謝ることなんてない。「この中に殺人者がいてほしくない」それは人として当然の感情だ。無理矢理に殺人者を作り出そうとしている、私のほうが異常なのだ。
「田之江さんは、何か考えがありますか?」
乱場の心中を慮って話題を変えるためか、湖條が水を向けた。
「そうですね」と話を振られた田之江は、「皆さん、根本的なことを忘れていませんか?」
「根本的なこと?」
湖條が聞き返す。「はい」と田之江は、
「影浦さんの死体を見た、と言っているのが、馬渡さんひとりだけだということですよ」