第3章 七人の探偵
「私だけ予定の時間よりも随分と早くに港に到着してしまいまして。私は新潟に住んでいるものですから」
安堂理真と名乗った女性は、そう言って頭をかいた。新潟県はここ山形県のすぐ南に位置している。距離的には確かに近い。
「小さな港町で時間をつぶす場所もないもので退屈してしまいまして。漁師の方に駄目もとで頼んでみたところ、オーケーしてもらえまして、こうして一番乗りを果たしたというわけなんです。で、こうして、ひと足早くこの屋敷に上がり込ませてもらい、くつろがせてもらっていたんです」
湖條忠俊は、そこで乱場秀輔に目配せした。安堂理真という探偵を知っているか? と言いたいのだろう。乱場はその視線の意味を察したようで、
「安堂理真さん、ですか。専業探偵ではありませんよね。先ほど、作家と」
私たちの正面に立つ女探偵に訊いた。
「はい。作家が本職なので、素人探偵ということになりますね」
安堂理真は、そう答えて微笑んだ。彼女は乱場の探偵データベースにも載っていなかったようだ。乱場は田之江拓宏のことも知らなかった。素人探偵であれば、商売として名前を売る必要もないため、探偵活動を大っぴらに言いふらさない、もしくは意識して秘匿する場合も多いだろう。というよりも反応を見るに、この場にいる全員が安堂理真のことを(作家としての顔も含めて)知らないようだ。
「作家先生ですか」と馬渡晃平が一歩前に出て、「申し訳ない。俺は小説ってほとんど読まないもので」
「いえいえ、私の書く作品は若い女性がメイン読者ですから……」
と言いながら、安堂理真は私を横目で窺う。
「すみません。私も小説ってあまり読まなくて、しかもここ数年海外で暮らしていて、日本には半年前に帰国したばかりなものですから……」
この中で安堂理真の小説を愛読しそうな唯一の層である私も、残念ながら彼女のことは存じ上げなかった。しかし、当の安堂は別段気にした様子もなく(こういうことに慣れているのか?)、「いやぁ、もっと頑張らないといけませんねぇ」などと言って笑っていた。
私たちも安堂に対して自己紹介する。彼女も湖條と馬渡のことは知っていたらしく、二人の自己紹介の際には、おお、と感嘆したような声を上げていた。
「そういえば、安堂さん」と湖條が、「この屋敷には誰もいませんでしたか?」
「はい。誰も。私も変だなと思って家中捜し回ったんですけれど、人っ子ひとりいませんでした」
「書き置きの類いも?」
「ええ、何も」
変だな、と湖條は髭を生やした顎をさする。
「あ、それと」今度は田之江が、「私たちの前に男がひとり訪れませんでしたか?」
「男? いえ。私の他にここへ来たのは、皆さんが初めてですよ」
「そうですか」
ということは、影浦涯は私たちよりも先行したにも関わらず、ここに来なかったということなのか? 訝しむような顔になった安堂に、湖條が影浦のことを説明する。
「……ということは、その方も含めて、全部で七人の探偵が呼び集められた、と」
「まあ、俺や田之江さん以上に遅刻してくるやつがいなければ、だけどね」
馬渡が言った。
「そういえば皆さん」と今度は田之江が、「この島について下調べはしてきていますか?」
湖條が私と乱場に話してくれたことを繰り返した。ほうほう、と聞いていた田之江は、湖條が話し終えると、
「さすが教授ですね。予習もばっちりだ。私のほうは志々村というこの島の持ち主の由来については詳しくありませんでしたが、島自体については少し調べることが出来ました。ちょうどいい情報交換になりますね」
田之江によると、この「絶命島」は本来「月明島」というのが正式な呼び名らしい。その名前は私たちを送ってくれた漁師が口にしていた。名前の由来は諸説あるが、真夜中の漁に出ていた漁師たちが、絶海に浮かぶこの島が月明かりに照らされるのを海域の目印にした、というものが支配的だそうだ。この島には電気、水道、ガスのインフラは一切通っておらず、島の持ち主(志々村家)の屋敷地下にある自家発電設備と井戸で電気、水を、ガスは本土から持ち込む液化石油ガスでまかなっていたという。
「電気、ガスは問題なく点きました」と、それを聞いた安堂が、「水も中庭に井戸があり、そこから組み上げて使えます。飲み水として、ペットボトルのものも大量に用意されていました」
「それじゃあ、どうして」次に乱場が広いロビーを見回して、「この屋敷には誰もいないんでしょう? 井戸はともかく、発電設備やガスが使えるということは、何者かがここで生活をしているということですよね?」
「この島には誰もいない」
背後から声がした。振り向くと、いつの間にか扉が開け放たれており、敷居の上にひとりの男、真っ黒な背広を着た男が立っていた。影浦涯。
「十九年も前から、この島は無人島だ」
言いながら影浦はゆっくりとした足取りで私たちに近づいてきた。私と乱場、安堂は半歩下がる。三人の大人の男性探偵だけが、歩いてくる死神探偵を一歩も引くことなく迎えた。
「詳しいな、影浦」
湖條の声にも怯んだ様子は一切感じられない。
「今から十九年前」影浦は淡々とした口調で語り出し、「この島で人が死んだ」
「死んだ? 事件か?」
「いや、事故死ということだ。が、どうだか」
「どういうことだ」
「その〈事故〉が起きてからなんだよ。ここが〈絶命島〉と呼ばれるようになったのは」
「死んだのは誰だ?」
湖條のさらなる問い質しに、もう影浦は答えなかった。これだけでも喋りすぎた、とでも言いたげな薄い笑みを浮かべていた。
「部屋は好きなところを勝手に使わせてもらう」
そう言い残すと、死神探偵はひとりで右の廊下を歩いて行ってしまった。
「あの人が影浦さんですか」
黒い背中に視線を刺しながら安堂が言った。
「教授、おなか減ってませんか?」
乱場が湖條の顔を見上げた。私は腕時計を見る。もう午後一時をとうに回っていた。それを聞くと安堂が、
「台所に食料も用意してありますよ。お昼にしますか?」
全員が頷いたのを見ると、安堂は自分が来た左の廊下を戻り始め、私たちもそれに続いた。
広い台所には、調理器具、食器、そして食料、一切の不足なく揃っていた。冷蔵庫も電気が通っており、ガスコンロも火が点く。ひと通り台所を見て回った私は、
「影浦さんの言葉が正しいとしたなら、この食料や発電、ガス設備は誰が揃えてくれたんでしょうか? この島から十九年も前に人がいなくなったのだとしたら、その際に屋敷の手入れもされなくなったのでは?」
私の疑問に答えたのは田之江だった。
「思うに、何者かが発電機とガスを使えるようにして、食料も運び入れたのではないでしょうか」
「それじゃあ、どうしてこの屋敷には誰もいないんでしょう?」
「乱場くん、それを考えるのはあとあと。とりあえず腹に飯を入れないとな」
乱場の疑問を馬渡が制した。
「それじゃあ、皆さんお腹が空いているでしょうから、何か早く出来るものを……レトルトや冷凍食品が大量にありますので、お好きな物を。ご飯もレンジで温めるものがありますし」
安堂は台所隅に置いてある段ボール箱に手を向けた。中を覗くと、カレー、牛丼、中華丼などのレトルト食品に、電子レンジで温めるご飯など、様々な食料が用意してある。冷凍庫の中にも、様々な冷凍食品が並んでいる。用意されているのはレトルトや冷凍食品ばかりではない。普通に肉や野菜、米も備わっており、これだけの量であれば、七人が一週間どころか半月は余裕で食べていけるだろう。
私たちはそれぞれ、レトルトパックや冷凍食品など、各自が食べたいものを選んで手にした。そこに、
「安堂さん」
湖條の声が掛かった。その安堂が動きを止めて顔を向けると、湖條は、
「あなたも食べるのですか?」
「ええ、そうですけれど、それが何か?」
何か問題ある? とでも言いたげな顔で安堂は答える。彼女は、大盛パックの激辛カレーのレトルトに加え、冷凍庫から取りだしたハンバーグも抱えていた。ハンバーグカレーか。湖條の目は流しの脇に置かれた水切りに向いている。私もその視線を追って、彼の言わんとしていることが分かった。水切りには、そう時間を置かずに洗われたと思われる皿が立てかけられている。
「安堂さん、もしかして、もう、おひとりで食事を?」
私の問いかけに女性探偵は、ばつの悪そうな表情になると、
「え、ええ。確かに私は皆さんが到着する前に、ひと足お先に食事を戴きましたけれど、それは遅い朝ご飯です。これから皆さんと一緒に食べるのは、お昼ご飯ですから。心配いりません」
誰もあなたの胃袋の心配などしていない。水切りに立つ皿からは、まだ水滴が滴っている。洗われてから一時間と経ってはいないだろう。
「影浦さんは、どうしますか?」
乱場が誰にともなく訊いた。それには馬渡が、「俺が呼んでこよう」と答えて台所を出て行った。
台所の隣にある広間を食事の会場とした。全員で囲める大きなテーブルがあるのでちょうどいい。影浦も姿を見せ、ここに七人の探偵が顔を揃えた。遅めの昼食を味わいながら、改めて私たちは自己紹介を始める。各自が簡単に自己紹介をしていき、
「影浦涯だ」
彼のそれは、あまりに簡単すぎるひと言で終わってしまった。湖條教授が苦い顔をしている。乱場は一悶着あると心配していたのか、ほっとした顔で胸をなで下ろしていた。
私はテーブルを囲んだ面々を見回して、自己紹介の内容と頭の中で照らし合わせた。
湖條忠俊。五十二歳。職業は大学教授。「教授」の愛称で呼ばれる、探偵界ではちょっとした有名人だ。その活躍は小説化され、映像作品にもなっている。私も観たことがある。作中で湖條役を演じた俳優よりも、湖條本人のほうが渋くていい男だ。彫りの深い顔に口髭とあご髭を生やしている。普通であれば過剰なキャラクター作りに思えるが、顔立ちが上品で日本人離れしているためか、全く違和感や嫌みがない。
乱場秀輔。十七歳。高校二年生。若いが、彼はすでに三件もの不可能犯罪を解決している実績を持つ。まさに探偵界のホープだろう。さらさらヘアのショートカットが似合う、かわいらしい顔をしており、まるで女の子のようにも見える。さぞもてているのではないだろうか。少年探偵にありがちな慇懃無礼なところもなく、素直ないい子だ。
影浦涯。年齢不詳だが、見た目では四十台半ばくらいだろう。骸骨のような肉のない顔つき。細い、いや、鋭い目つきも相まって、とても冷たい印象を受ける。通称「死神探偵」島の港で私たちと別れてからは、ひとりで島内の散策をしていたという。影浦自らが話したわけではなく、湖條教授が半ば無理矢理に引き出した情報だ。
田之江拓宏。四十八歳。古本屋の店主。少々太め。身長もそう高くないためか、余計に横幅のある印象を受ける。ダイエットに挑戦中の布袋様のようだ。頭髪はあるが。終始にこにことしているところも、かの七福神のひとりを連想させる。湖條の話では、この明るいキャラクターが陰惨な殺人事件での清涼剤になってもいるのだとか。「そんなことはありませんよ」と田之江は、やはり笑顔を浮かべたまま否定していたが。二人の話しぶりからして、どうやら田之江と湖條はよく知った間柄のようだ。
馬渡晃平。三十歳。自己紹介のときには二十九とサバを呼んでいたが、誕生日が来ているので三十になったはずだ。面倒くさいのであえて指摘はしなかった。「ハードボイルド探偵」と自称しているのも面倒くさい。彼も湖條教授同様の有名人だ。先にも書いたが、探偵といっても彼は他のメンバーとその趣を異にする。彼が使うのは頭脳以上、いや、頭脳ではなく腕力だ。ヤクザのような連中と殴り合いばかりしている野蛮な男。それでいて女には、女に対しては誰にでも優しい。自己紹介のときにも、私と安堂理真のほうばかりに目をやっていた。乱場がきらきらとした目で見ていたことに気が付いていただろうか。少年、こんな男に憧れたって、いいことなんて何もないぞ、と忠告したくなる。顔立ちが整っており背も高く、一見いい男なのは間違いないけれど。今のこいつに唯一褒める点があるとするなら、自分の口から私との関係を喋らなかったことだろう。
安堂理真。二十台半ばと年齢は誤魔化していた。職業は作家。恋愛小説を主に書いているという。残念ながら私には縁のない分野だ。長い髪を腰の辺りまで伸ばしており、スレンダーな美人だ。彼女は田之江同様、探偵活動の一切を公にしていないようで、私も含めて他の六人は彼女のことを知らなかった。新潟が活動拠点ということで、私や馬渡、湖條のいる関東までは噂が聞こえてこないのだろう。ご当地では有名なのかもしれないが。本業の作家としても知っていたものはいなかった。映像化されたようなヒット作がないのだろう。本人は自身の知名度がないことに対しては、特段気にしている様子はなかった。
朱川美夕。私だ。二十九歳。数年前までは、ある探偵の助手のようなものをやっていたが、ある理由からその探偵のもとを離れて国外に出た。外国を渡り歩き行く先々で探偵活動を行い修行を重ね、半年前に帰国。自分の探偵事務所を立ち上げた。私が「ある探偵」と口にする度、馬渡が笑みを浮かべているのが視界の隅に入った。そうだよ。お前のことだよ。乱場からはその探偵の名前を訊かれたが、濁しておいた。でも、湖條や田之江、恐らく影浦と安堂も、その人物が誰か、もう気付いているだろう。彼と一緒にいた時間は忘れたい過去。忘れられるはずもないんだけれど。