第2章 謎の島
「死神……?」
思わず聞き返した。乱場秀輔は、
「はい、僕も名前しか知らなくて、船で教授があの人の名前を呼んで、ああ、この人が、って思いました。扱った事件の数は少ないんですけれど、その多くで真犯人が自殺しているんですよ。だから……」
死神と呼ばれている、か。「そうですよね」と乱場は湖條忠俊に確認を求める。
「私のことといい、君は探偵事情に詳しいんだな」湖條は少し笑みを浮かべてから、真剣な表情になると、「そうだ、死神探偵、影浦涯。あいつの手掛けた事件は、ことごとく最後に犯人が自殺を遂げて幕が引かれている。だがな、それには理由があって……」
「理由? 影浦さんが推理で犯人を追い詰めてしまったからじゃないんですか?」
「ふふ、世間ではそう言われているらしいがね。乱場くん、あいつが直近に手掛けた〈骸骨仮面事件〉を知っているかね」
「ええ、もちろん。千葉県の旧家、賽原家で、骸骨の仮面を被った怪人が三件の殺人を犯した事件ですよね。結局、犯人、骸骨仮面の正体が分からないまま、影浦さんが手を引いたんですよね。世間では、探偵の無責任だ、なんて声が上がっていますけれど」
「しかし、あれ以来あの家で骸骨仮面は目撃されていないし、被害者も出ていないだろう」
「ええ、そんな話は聞きません。事件が中断してから、もう半年以上経ってますよね」
「これはまだ公表されてはいないんだが。一週間前、賽原家の長男、賽原磨士郎が自殺した」
「えっ? 自殺……って、まさか?」
「そう、そのまさかだよ。骸骨仮面の正体は磨士郎だった。彼の部屋の押し入れから骸骨仮面のマスクと凶器の鉈が発見されたそうだ」
「どうして自殺なんて……。あっ、手を引いたと見せかけて、影浦さんは捜査を続けていた? そして真相に辿り着いた。それを知った犯人が……?」
「あいつが捜査を続けていたというのは確かだろうな。影浦は磨士郎が犯人だという証拠を掴んだ。それを本人に告げる。そして、あいつは磨士郎を……脅迫していた」
「脅迫? そんな!」
乱場は驚きの表情になる。私の顔も少なからずそうなっていたはずだ。私たち二人の顔を順に見てから湖條は、
「間違いないだろう。それが影浦のやり方なんだ。あいつは、確固たる証拠を掴んだら、それをネタに犯人を強請って金を引き出しているのさ。大抵、犯人はそれに耐えきれずにすぐに自殺してしまうんだがね。そうなったら、影浦としても、もう強請の材料を持っていても仕方がない。それを公表して、『彼が、彼女が犯人だったのです』と警察に告げて去る。その繰り返しなんだよ。あいつは本物の死神なんだ」
「そんなことって……真実を明らかにするのが探偵の使命のはずなのに」
「乱場くん、我々の業界には、君の知らない汚れた世界が広がっているっていうことだよ。君は、そこには踏み込まないほうがいい。加えて、あいつはあんな骸骨みたいなひょろひょろな外見をしてはいるが、意外と強い。何とかという、暗殺を目的とした古武術を使うそうだ。ますます死神らしいだろう」
影浦涯。薄暗い船内から日の下に出て、より詳しく目にした彼の姿を私は頭に思い出していた。黒い頭髪を後ろになでつけており、その下にある顔は頬がこけ、異様なほど白く細い。まるで肉がなく、今、湖條が言ったようにかなりの痩せ形だった。顔など、頭蓋骨に直接皮が貼り付いているかのようだ。顔と同じく四肢も細い。湖條から聞いた彼のやり方、暗殺武術の使い手ということに加えて、その容貌も死神という別称に相応しい。
「さて」と教授はスーツケースから腰を浮かし、「そろそろ我々も行くか。この道を行けば、かつて志々村の一族が住んでいた屋敷があるはずだ」
湖條の顔色は船を下りたときよりも随分とよくなっている。「そうですね」と私もスーツケースの握りに手を掛けた、が、
「あっ」乱場が港に、正確にはその先に視線を留めて、「あれ」と指をさしたため、私も湖條も釣られてそちらに目を向けた。青い海原を白い波で切り裂きながら、一艘の漁船が向かってきている。
「さっきの漁師さん? 忘れ物でもあって戻ってきたんでしょうか?」
乱場が口にしたが、
「いや、型も塗装も違う。我々を乗せてくれた船ではないな」
湖條の言った通り、それは私たちが乗ったものとは別の漁船だった。船影は次第に大きくなり、港に接岸した。船の中からは、二人の人間が出てきて港に降り立った。二人の男を吐き出した漁船は、そのまま回頭して島から離れていく。二人はすぐに、ひとかたまりになった私たち一団を確認したのか、足早に向かってくる。先頭は若い男、数歩遅れて中年の男と続いている。先頭の男、あいつは……。
「どうやら彼らも我々と同じらしいな」
「えっ? それじゃあ、あの二人も……探偵?」
男たちから視線を外さないまま、湖條と乱場が会話を交わした。その通りだ。後ろの中年はどうだか分からないが、先頭を歩いてくる若い男は間違いなく探偵だ。あの男も呼ばれていたとは。
二人と私たちとは互いの顔や服装までが見て取れる距離になった。こちらから、先頭の男の微笑んでいるような表情がはっきりと分かる。あの笑顔は私たち三人にというよりも、私ひとりだけに向けられている気がする。いや、きっとそうに違いない。が、私のほうでは笑みを返してなどやらない。久しぶりに見るその屈託のない笑顔がまるで変わっていないことに、顔がほころんでしまいそうになるのを堪えた。
「前を歩いている、あの人……もしかして、馬渡晃平じゃないですか?」
探偵通の乱場少年が男の名前を言い当てた。「ああ、間違いないな」と湖條教授も同意して、
「彼にまで招待状を出していたとは。少々ジャンル違いではないのかね?」
「ですよね。まさか、この島に屈強な殺し屋が潜んでいるなんてこと、ないですよね」
湖條と乱場は含み笑いをするように言い合った。二人の言葉は正しい。馬渡晃平は都内に事務所を構える私立探偵。だが、扱う事件の性格が、この場にいる湖條教授、乱場少年、または先に行ってしまった影浦とは異にする。もちろん、この私ともだ。馬渡晃平は探偵活動を行う際に、頭脳よりも体力のほうを多く使用している。不可能犯罪を解決するというよりも、凶悪犯や反社会的組織との実直的な交戦が内容の多くを占めるような事件にばかり首を突っ込んでいるのだ。これは当然、本人の資質にもよるものだ。
「おお、湖條教授じゃありませんか。馬渡晃平といいます。はじめまして、ですよね」
私たちと二、三メートルほどの距離まで来ると馬渡は足を止めて、まずは湖條忠俊に挨拶した。ジャンルは違えど探偵と名乗って長いため、湖條ほどの著名人は馬渡でも知っていたのだろう。「はじめまして」と湖條も挨拶を返す。馬渡は次に、乱場秀輔少年に向いて、
「君も探偵なのかい? その制服からすると、高校生?」
「は、はい……」
乱場は妙にしゃちほこばった姿勢になって自己紹介した。仕方ないだろう。彼くらいの年齢の男子であれば多かれ少なかれ、馬渡晃平に対しての憧憬の気持ちは持っているはずだ。馬渡は乱場の要請で握手をしてから、ようやく私に目を向けた。
「……久しぶりだな、美夕――」
「よろしく」
いきなり名前で呼びかけるなんて。相変わらずデリカシーのないやつ。私は彼の言葉を遮るように、そっけなく短い言葉を投げた。当然、目など見ない。視界の端で捕らえた馬渡は、少しだけ寂しげな表情を浮かべていたように見えた。
「えっ? お二人は知り合いなんですか?」
乱場が私と馬渡の顔を交互に見ながら訊いてくる。ここでも私は、「そうなんだよ――」と言いかけた馬渡の口を制して、
「昔、ちょっと一緒に仕事をしたことがあったの」
つっけんどんに答えてやった。いくら高校生でも、これで少しは察しただろう。思った通り乱場は、「そうですか」とひと言だけで、それ以上追求してくることはなかった。その様子を窺っていた湖條も、何も言ってはこなかった。が、このままだんまりというわけにはいかないだろう。この先にあるはずの志々村家の屋敷に行き落ち着いてから、ゆっくりと話すことにしよう。それまでには私も、少しは冷静になっていられるはずだ。
「これはこれは、湖條教授。お久しぶりですね」
もうひとりの乗船客であった中年の男がようやく追いついてきた。馬渡と同時に船を下りはしたが、ここまで歩く途中で随分と距離を空けられてしまっていたのだ。
「田之江さん。あなたも招待状を?」
湖條に問われた中年の男は、ええ、まあ、とハンカチで汗を拭き拭き答えていた。この中年男性に対しては乱場も声を掛けない。彼も知らない探偵なのだろうか。田之江と呼ばれた男性は、私と乱場に顔を向けて、
「どうも、はじめまして。埼玉で古本屋をやらせてもらっています、田之江拓宏といいます。よろしくお願いします」
名乗ってから男性は、少々太めの体を折ってきた。こちらも頭を下げてから、乱場、私の順に自己紹介する。
「少年探偵に女性探偵ですか。なかなかに華やかな舞台になりそうですね。これで、全員ですか?」
と自分の周囲を見回した田之江に、湖條が、
「もうひとり、影浦も来ています」
「影浦……影浦涯、ですか」
人懐こかった田之江の表情が変わった。馬渡も同時に神妙な表情を見せた。影浦涯、どうやら探偵業界では余程良くない噂しか振りまかない男のようだ。
「ええ、我々と同じ船で上陸したのですがね。さっさとひとりで先に行ってしまいました」
「はは、あの人らしい」
田之江の顔は、そこでさっきまでのものに戻った。
「では、我々も行きましょうか」
湖條がスーツケースの引き手に手を掛けるのを合図に、私たち五人は港から続く道、影浦がひとりで先行していった道を歩き出した。
「列車を一本乗り過ごしてしまいましてね。港に着いたのは約束の時間を数十分過ぎてしまっていたんです。どうしようかと思っていたところ、同じように途方に暮れた顔で佇む田之江さんを見かけましたのでね。二人であれば頼み事をするのも気が楽だと思い、近くにいた漁師さんにここまで送ってもらったという次第なんです」
「私も急な用事が入ってしまいましてね。馬渡さんがいらして助かりました。遅刻で、私だけがばつの悪い思いをせずに済みました」
道を歩くすがら、馬渡と田之江は自分たちだけが別の漁船に乗ってきた理由を話した。
「先ほどの反応だと、乱場くんは田之江さんのことまでは御存じなかったようだね」
湖條は先頭を歩く乱場に声を掛けた。乱場は「はい、すみません」と答えたが、当の田之江は、
「私は探偵活動を行っていることを公にしていませんからね。世間的には、小さな古本屋の主人でしかありませんから。探偵であることを世間に知られると、色々とやっかいなこともありますからね。警察とのしがらみですとか」
「そういった理由もあって、隠れ素人探偵とでも言うべき人材は、かなりの数いるそうですからね。むしろ、私や乱場くんのように世間に知られた素人探偵のほうが少ないのかもしれない」
「いえいえ、僕なんかを教授と一緒にされては……」
湖條と同じ「世間に顔と名の知られた素人探偵」という括りに入れられたことに対して、乱場は恐縮したように首を横に振った。
「ふふ、私だって、知る人ぞ知るといった類いのマニアックな存在だよ」と湖條は笑みを浮かべて、「その観点だと、この中で一番の有名人は何と言っても馬渡くんだな」
「はは、やっぱり、そうなっちゃいますかね」
有名人と言われたことを否定するでなく、馬渡は笑顔を見せた。屈託のない笑顔を。目が合いそうになり私は視線を逸らす。
「ここにいる五人に」と馬渡は私たちを見回して、「影浦を加えた六人。この六人が受け取ったというわけですか、ここ絶命島への招待状を」
「馬渡くん、招待状には全部で何人来るとは書かれていなかった。これで全員とは限らないぞ」
湖條は、乱場にしたのと同じようなことを言った。続いて田之江も、
「そうですね。中には受け取ったけれど来なかったという人もいたかもしれません。まあ、普通は来ませんよね。あんな怪しい招待状」
「ええ。あれに釣られて来るというのは、探偵の中でも余程の変人か、暇人だけでしょう」
「俺は、そのどちらにも該当しますね」
馬渡の答えに全員――私を除く――が声を上げて笑った。
「見えてきました」
先頭の乱場が口にすると、全員――今度は私も――が前方に視線を向けた。林が途切れた向こうに、二階建ての洋風建築の屋敷が建っていた。あれが、ここ絶命島に暮らしていた志々村家の邸宅。外界と敷地を隔てる塀は立っていない。この島全てが志々村家の敷地であり、そういった境界を引く必要がないためかもしれない。両開きの大きな扉の前に立ち、代表して馬渡がノッカーを叩いた。数秒ほど待ったが、中から何も返事はない。
「誰もいないのかな?」
馬渡は、もう一度ノッカーを鳴らすが、やはり沈黙しか返ってこない。
「影浦さんがすでに入っているはずなのに」
「乱場くん、あいつはノックに答えて我々を出迎えるような男じゃあないよ」
言いながら馬渡はノッカーから手を離す。
「影浦はともかく、他に誰もいないのか?」と湖條が「我々に招待状を送った招待主が、すでに到着して待ち構えているのではないのか?」
「確かに……。入ってみましょう」
馬渡は扉を開けた。
「ごめんください」
馬渡の声がこだました広いロビーには、誰の姿も見られない。私たちは目配せしつつロビー内に足を踏み入れた。最後尾の田之江がゆっくりと扉を閉める。全員の顔が左に向いた。人影を視界に捉えたためだった。まっすぐに伸びた廊下を歩いてくる人物がいた。足を踏み出すたび、長い髪が揺れる。
「いやいや、どうも」その人物――若い女性――は廊下からロビーに入ると、「皆さんも招待状を受け取った探偵の方々ですね?」
そう言って足を止めた。
「と言うことは、あなたも……探偵?」
彼女の一番近くにいた私が訊いた。女性は「はい」と返事をして、
「はい。とはいっても本業は作家なんですけれど。安堂理真といいます」
腰の辺りまで伸ばした髪をふわりと揺らしながら、その女性、安堂理真はぺこりと頭を下げた。