第20章 最後の夜
理真の思わぬファインプレーで妹尾は救われた。妹尾は目に涙を溜めながら、理真に何度も頭を下げていた。理真はそれに対してどうこうはなく、まあまあ、とでも言いたげに手を上げ下げするだけだった。
「ひどいですよ、安堂さん、そんな仕掛けをしていたなら、僕が妹尾さんを糾弾した直後に、すぐに訂正してくれたらよかったじゃないですか……」
椅子で項垂れている乱場は、推理中の妖艶な目つきはどこかに消え、いつものかわいらしい少年探偵に戻っていた。
「ごめんなさい。乱場くんがかっこいいから、つい見とれちゃってたわ」
理真が笑みを浮かべながら言うと、乱場は顔を真っ赤にして、
「僕の悪い癖なんです。いざ、推理の段になると、何て言うか、テンションが上がって生意気な口の利き方をするようになってしまって……。直そう、直そうとは思っているんですけれど……」
「かっこよかったわよ。というか、セクシーだった」
理真が囃すと、「やめて下さい」と乱場はさらに赤くなった。そこへ、
「だが」と、湖條が口を開いてきて、「確かに、安堂さんの話で妹尾さんへの疑いは晴れたが、問題が解決したわけではないな」
「そう、そうですよ。妹尾さんが犯人候補から外れたというだけで、田之江さん殺害犯は依然、謎のままなんですから」
「それもあるが、影浦の件は、どうだ?」
「……あっ! そう、そうです。安堂さんが潔白を証明したのは、妹尾さんに関してだけです。馬渡さんへの容疑は、まだ生きている」
息を吹き返したように、乱場は馬渡を見た。容疑を掛けられたままの馬渡は、勘弁してくれ、とでも言いたげな顔で、
「おいおい。ここまで来たら、ついでに俺も無実ってことでいいじゃないか」
「そんなわけには行きませんよ」
「安堂さん、妹尾さんみたいに、俺が無実だって証明するものは、何かないんですか?」
「ありません」
理真は言下に否定した。妹尾のときと比べて、あまりに突き放した言い方だったため、私は思わず吹き出しそうになった。が、笑っている場合ではないことは重々承知している。
「……どうでしょう、この事件、ここから先は私に一任してもらうということで、いかがでしょうか? いい案があるのですが」
理真が言ってきた。私たちは互いに顔を合わせる。乱場が推理を外し、湖條は田之江のことで精神的にグロッキー。馬渡に頭を使う仕事が出来るはずもないし、私も、何が何だかさっぱり分からないというのが正直なところだ。一応、雪密室のトリック解明は乱場に肯定されているが、それ以降は何をどう考えていいのか……。
「異論はないようですね」
理真は私たちを見回した。誰も否定も、そして肯定もしなかった。
「それで、安堂さん。いい案というのは?」
湖條が訊くと、理真は、
「明日の朝、迎えの船が来ます」
そうだ。私たちが受け取った招待状には、五月二十八日の朝、迎えの船を寄越すと書いてあった。いよいよ明日が、その二十八日というわけだ。理真は、そのことを確認するように一旦口を閉じてから、
「それまで、じっとしています」
「何だって?」
馬渡が声を上げた。
「おとなしく、じっと、何も行動を起こさないでいるんです。それが最善の方法です」
「ちょっと待て――」
立ち上がって、さらに何か言い掛けた馬渡を、理真は手の平を向けて制して、
「落ち着いて考えて見て下さい。もうすぐお昼なので、明日の迎えは、遅くとも今くらいの時間には来ていることでしょう。あと二十四時間、たったそれだけです。あと丸一日、私たちは全員、ずっと一緒に互いの顔が見える距離で過ごすんです。もし、探偵Xなる謎の人物がいたとしても、常に全員がひとかたまりになって警戒し続けていれば、手出しをされるはずがありません」
「だが、十九年前の事件は――」
またしても馬渡は理真に手を向けられて、口を噤まざるを得なくなった。理真は真剣な表情で、
「今は、ここにいる全員が無事に島を出ることを何よりも最優先に考えるべきです。事件の捜査をしている場合ではないと、私は考えます。全ては、本土に到着してから警察の手に委ねることにしましょう」
「ふふっ」湖條が笑みを漏らして、「これ以上ないほどの正論だな。私も昔、今と同じような状況になってなお、疑心暗鬼に陥って単独行動を起こして、結果、殺されてしまった被害者を見たことがある。私は賛成だ」
「教授」
馬渡は不服そうな顔で湖條を見て、視線を乱場に移した。
「僕も……それがいいと思いますよ」
すっかり普通の高校生の顔に戻った少年探偵が答えると、即座に妹尾も大きく首を縦に振った。
「美夕は?」
最後に私に訊いてくる。私は少しの沈黙のあと、
「理真さんに、賛成」
それを聞くと、馬渡もようやく諦めがついたのか、ため息をついて椅子に座り直した。
「これで決まりですね」理真は満足そうな顔をすると、「それじゃあ、ちょうどいい時間なので、お昼ご飯にしましょうか」
その言葉に私は腕時計を見た。色々あった午前は終わり、時計の針は午後十二時に差し掛かろうとしていた。
「皆さん、リクエストはありますか?」
妹尾は表情を明るいものに戻して訊いてきた。
「俺は、何かがっつりと食べたいですね。朝から力仕事をして腹が減りました」
「それなら、レトルトじゃないカレーを作りましょうか」
「いいですね。俺、楽勝で三皿くらい行けそうです」
馬渡がカレー案に賛同した。他のメンバーからは何もリクエストがないため、「では、決まりですね」と妹尾が台所に向かおうとする、そこに、
「妹尾さん、私も一緒に行きます」と、理真も立ち上がって妹尾を引き留めると、「皆さんも、今から迎えの船が来るまでは、どんな些細な行動でも決してひとりきりにならないようにしましょう」
私たちにも確認した。すると、
「となると、二人きり、というのも危険だな」
湖條が言った。
「教授、それは、もしかして……」
乱場が、湖條の発言の真意を察したらしい。私も、その言葉の意味するところに気付いていた。
「そうだ。もし、この中に犯人がいるとしたなら、二人きりになることも危ういということだ」
弛緩しかけていた空気が、また張り詰めた。湖條の言葉に間違いはない。私は思わず自分以外全員の顔を盗み見るように見回した。が、その行動を取ったのは私だけではなかった。全員が、なるべく頭を動かさないように、目だけで互いの顔を窺っていた。
「参ったな」
馬渡が頭をかいた。全員の視線が馬渡に向く。
「俺、飯が出来るまでの間にシャワーを浴びようと思ってたんですけれど……」
「湖條さん、乱場くん、お願いします」
理真が言った。湖條は笑みを浮かべて、
「私は、脱衣所で番をしているよ。それでいいだろう」
「よろしく頼みますよ。で、乱場くんは付き合ってくれるよな?」
「ええ? 僕、馬渡さんみたいに海に潜ったりしてないですし。朝からお風呂っていうのは、どうも……」
「何言ってるんだ。朝風呂は最高だよ。朝風呂を楽しめるようになれば、一人前の大人の証さ」
「ええー? そういうものですか?」
渋る乱場の手を引いて、馬渡は湖條と三人で浴室に向かって行った。それを見送ると理真が、
「では、女性陣は全員で食事の用意といきましょうか」
私と妹尾の顔を見て微笑んだ。その笑顔に解かれるように、緊張した空気は再び弛緩していく。相変わらず変な人だ。
宣言通り、昼食時に馬渡はカレーを三皿分平らげた。全員で食事の後片付けを行うと、男性陣、女性陣に分かれて、明日に備えて荷物のまとめに取り掛かることになったが、私は荷物をまとめる間も、事件のことが頭から離れなかった。妹尾監禁、影浦殺害、田之江殺害。いったい誰が、何の目的で犯行を犯したというのだろう? 全ての事件は同一犯の仕業なのか?
私は、昨夜ひと晩だけ泊まった裏館二階の部屋に来ていた。特にそんな必要はないのだが、表館で使用した自室同様、ベッドを整え、簡単に掃除をする。妹尾、理真、馬渡も同じく裏館で泊まった部屋の片付けをしているはずだ。湖條と乱場はこちらに泊まってはいないが、最低三人以上で行動する決まりとなっているため裏館に来ているはずだ。ロビーでお茶でも飲んでいるのだろう。
部屋の整理を終えた私は廊下に出た。と、隣の部屋も同時にドアが開き、
「美夕」
隣の部屋から出てきたのは馬渡だった。
「晃平、あなたも部屋の整理? 殊勝な心がけね……」
そこまで言ってから、違和感を憶えた。
「ねえ、晃平、あなた、一番奥の角部屋に泊まったんじゃなかった?」
昨夜の記憶を呼び起こしてみて、それは確かなはずだった。二階には私室が八部屋、一直線に並んでいる。階段側二部屋をとばして、理真、妹尾、私、さらに一部屋とばし、田之江、そして最後の角部屋を馬渡が使ったはずだ。全員で二階に上がって部屋決めをするときに、馬渡が角部屋に入っているのを確かに見ている。それを伝えると、
「ああ、あの部屋、雨漏りしてるのに気付いたんで、部屋を代えたんだ」
「雨漏りしてた?」
「そう。部屋の隅の天井から。あの部屋は角部屋だから、ちょうど建物の横壁と天井の境辺りからだろうな。別に気になる程でもなかったけれど、何だか気持ち悪いから代えた」
気になってるんじゃないか。
「部屋を移ったのは、いつなの?」
「女性陣が風呂に入っている間に」
「ふーん……」
「な、何だよ……」
「階段側が二部屋も空いてたのに、わざわざ私の隣室に来たんだ。しかも、私が入浴していて不在の隙を狙って、こっそりと」
「ち、違うって! そういうつもりはなくってだな……ほら、角部屋からだと、ここが一番近いだろ。移動距離が最短になるから、俺がこの部屋を選んだのは極めて論理的な話で……。移動した時間も、たまたま重なっただけで……」
「分かった、分かったわよ」
弁明する馬渡が面白くて私は吹きだした。そこへ、階段を上がってくる足音が聞こえ、
「朱川さん、馬渡さん、お茶を煎れるので、みんなで休憩にしませんか? お二人以外、皆さん揃ってますよ」
妹尾が声を掛けてくれ、私と馬渡は一階ロビーに下りた。
帰り支度をしている間に午後は過ぎ、夕食の時間となった。明日の朝は軽めにとろうということになり、私たちは残された食材、特に生鮮食品をなるべく使い切るために、今までにない豪勢な夕食を準備した。広間のテーブル狭しと並べられた料理に、男性陣は目を見張っていた。食事時は誰もが笑顔だった。湖條も粋な冗談などを飛ばして、私たちの笑いを誘いに来る。乱場は馬渡の語る武勇譚に目を輝かせ、私、理真、妹尾は輪になって女子トークを楽しんだ。絶命島で過ごす最後の夜。理真の提案は正解だったのかもしれない。元々普通の女子である妹尾は別にして、私たちは探偵という殻を脱ぎ捨てて、ひとりの人間としてこの夜を過ごしていた。二人以下で行動はしない。この制約が私たちの中に不思議な連帯感を作ったのかもしれなかった。
夕食のあとは、そのルールに従って、私、理真、妹尾の三人は一緒に風呂に入った。ここでも繰り広げられる女子トーク。長らく日本を離れていた私には、理真と妹尾から聞く話に興味津々だった。代わりに私も外国暮らしの話を聞かせる。妹尾からは、特に馬渡との関係についてしつこく訊かれた。途中からこのメンバーに加わった彼女でも、私と馬渡が過去に関係があったことは容易に察せられただろう。乱場が馬渡を糾弾したときも、彼のことを名前で呼んでしまっていたし。
就寝前に全員が広間に集まり、明日の行動を決めた。朝からずっと屋敷にいて、迎えの船から船員が上陸してくるのを待とうかという案もあったが、もしも、探偵Xが存在していた場合、港からここまでの道中で船員が襲われないとも限らない。朝食を食べたらすぐに屋敷を出て、港で迎えの船を待つことにした。問題は、全員で島を出るかどうか、ということだった。全員で島を出た場合、もしも探偵Xが存在しているのなら、そのXを野放しにしてしまうことになる。私たちがいなくなったのをいいことに、島や屋敷に残った証拠の隠滅に走るか、最悪、独自に島を脱出、逃亡してしまう恐れもある。相談の結果、馬渡、湖條、乱場の男性三人は島に残り、私、理真、妹尾の女性三人が一旦島を出ることになった。迎えの船が到着したら、船員にすぐさま警察への通報を行ってもらう。私たち三人も本土に到着し次第、警察に事情を説明して、再び絶命島に戻ってくることになるだろう。妹尾だけはすぐに島には戻らず、どこかホテルにでも泊まって休息してもらってもいい。島を出るのは女性三人だけだが、明日の朝は見送りも兼ねて、全員で港へ行くことも決まった。できるだけ大人数で行動したほうが安全なためだ。
明日の予定が決まると、朝に備えて早めに床につくことになった。
就寝も当然、同性三人で同部屋とした。眠りが浅くなってしまうが、ひとりだけ起きているというのは危険なため、常に二人が起きて番をして交互に眠ることになった。就寝時刻を早めたのは、こういった理由もある。
妹尾、理真、それぞれと二人きりになると、三人でいたときとはまた違った話題となり、話は尽きなかった。私は、それぞれに事件についても話題を向けてみた。妹尾は、こんなことになってしまった詫びの言葉を述べたが、それは彼女の責任ではない。この島で殺人事件が起きてしまった以上、妹尾が警察に事情聴取されることは不可避だろう。そうなれば、志々村八重の計画も、十九年前の志々村鉄雄殺しも隠匿し続けることは不可能だ。私のほうが、志々村八重に妹尾がどんな報告をするのか、それを考えて同情した。彼女の立場を守るため、場合によっては、八重への報告の場に私も一緒に立つことも考えなければならない。
妹尾は、この島にいた頃の話も聞かせてくれた。仲が良かった志々村彩佳のことが話題の中心だった。そして、家庭教師の神谷辰樹に憧れの気持ちを持っていたことも教えてくれた。幼い記憶で美化されているかもしれないが、中性的な、少女漫画に出てきそうな美男子だったという。それは彩佳も同じだったそうだ。一度、神谷を巡る争いが高じて喧嘩をしてしまったこともあった。が、その年頃の女の子のこと、すぐに仲直りをしたと妹尾は笑った。が、いつの頃からか、急に彩佳は辰樹に興味を示さなくなったという。嫌いになったということではなく、それまで通り辰樹になつきはするが、以前のように恋愛対象としての視線は消えたようだったと。「年の差があまりに離れすぎていることに気が付いたのかもしれません。彩佳のほうが私よりずっと大人っぽかったですから」妹尾はそう言ってまた笑った。
「彩佳さんに会いたい?」私の質問に妹尾は、「もちろん」と即答した。六歳のときを最後に一度も会っていないが、きっと立派で素敵な女性になっているだろうと妹尾は相好を崩した。
理真には、妹尾のとき以上に事件の話を振ってみた。が、理真の答えはどれも淡泊なものだった。「犯人の見当はついているのか?」その質問にも、彼女は小さく首を横に振るだけだった。はぐらかされたのかもしれない。「探偵として、この事件の謎を解きたいという好奇心や使命感のようなものは?」これにも理真は、笑みを浮かべながら小さく否定していた。明日、本土に帰り通報したら、すぐに警察が入島する。そうすれば、現代科学を駆使した鑑識力で様々な手掛かり、証拠が発見される。それを扱うのも百戦錬磨の刑事たちだ。探偵は事件にしゃしゃり出ていくものではない。どうしても警察に解決出来ない案件が出てきたときに、初めて力になればいいと彼女は語った。理真は警察力を全面的に信頼しているらしい。きっと警察に良き理解者がいるのだろう。天才探偵が華麗に謎を解き、無能な警察はその活躍に歯がみする。そんな図式は遙か過去のものだ。それは私にも分かっている。
時間が来て、私が眠る番となった。妹尾を揺り起こして、私は二人に「おやすみ」を言ってベッドに横になる。このまま何事もなく朝を迎えられれば、いよいよこの絶命島ともさよならだ。事件は警察の捜査に委ねられる。警察に信頼のある湖條はともかく、私のような駆け出しの探偵は、事情聴取さえ終わればお呼びでないだろう。そうすれば、そこでこのメンバーは解散だ。互いに連絡先の交換くらいはするだろうか。理真や妹尾には、島を出たあとでもまた会いたいという気持ちはある。湖條、乱場とも繋がりは保っておきたい。馬渡は……。
まぶたを閉じる。カーテンの隙間から漏れていた月明かりも完全に遮断され、視界は真の闇に包まれる。明日、この事件は私たちの手を離れる。私は東京の事務所に戻って、探偵活動の仕切り直しだ。……でも、それで本当にいいの?




