第17章 時を越えた惨劇(5月27日)
五月二十七日
目が覚めて枕元の携帯電話を見ると、午前六時だった。思いの外早く起きてしまったが、寝覚めはすっきりしている。昨夜は早めに寝てしまったためだろう。ベッドを出た私は一階へ下りる。裏館はひっそりとしており、誰の声も、何の物音も聞こえない。まだ起床しているのは私だけのようだ。廊下が冷え冷えとしている。昨夜降った雨のせいだろうか。
水でも飲もうと台所に向かうと、廊下の先のロビーにドアが見えていた。内開きの玄関のドアが開けっ放しになっているのだ。廊下が冷えていた原因はこれか。誰が閉め忘れたのか。ドアを閉めようと私は台所を通り過ぎてロビーに入り、開け放たれている玄関から外を見る。
「……え?」
ドアノブを掴んだまま、私は固まった。頭が揺さぶられるような感覚に襲われる。その場に膝をつき、しゃがみ込むと、ドアノブに掛けていた手がするりと落ちる。私は悲鳴をあげたらしい。十秒も経たないうちに足音が聞こえてきて、
「美夕さん!」
理真の声が私の名を呼んだ。次いで、馬渡の声も聞こえる。二人は私のそばに立った。そこで私と同じものを見たはずだ。玄関の敷居の向こうに。頭をこちら側に向けて俯せに倒れ、背中から血を流している田之江を。その体はぴくりとも動いていない。
「田之江さん?」
馬渡は物言わなくなった古本屋店主の名を叫んだあと、隣に屈み込んで私の両肩を抱く。
「美夕! 大丈夫か?」
「こ……晃平」
私はゆっくりと彼の顔を向いた。横目で玄関の向こうを見る。倒れて動かない田之江。背中は真っ赤に染まっている。すぐに顔を伏せてしまった。
「美夕!」
彼がさらに私を抱き寄せる。逞しい腕。このまま彼の胸に頭を預けてしまいたい……。いや、駄目だ。
「晃平……大丈夫」
私は、肩を抱いてくれていた彼の手を掴んで、そっと離すと、立ち上がって、
「妹尾さんは?」
彼女の姿が見えなかった。
「まだ眠っているのでしょう」理真が言うと、「呼んできます」と階段に戻っていった。
再び玄関から外を見ると、中庭を挟んだ表館の裏口が開いた。湖條と乱場が姿を現す。
「朱川さん! みんなも――」
乱場の声はそこで途切れた。私たちと同じように、中庭に倒れている田之江を見つけたのだろう。すぐに駆け出そうとしたらしい乱場を、湖條が手首を握って止めた。
「教授!」
「落ち着け、乱場くん。見ろ」
二人の会話が聞こえる。湖條の視線は中庭の地面に向いているようだ。私も見て、湖條が乱場を止めた意味を知った。雨上がりでぬかるんだ中庭の地面には、二筋の足跡が残されていた。
「田之江さんのものだな」馬渡もそれを目にして、「見たところ……裏館から表館に行って、帰ってきたところをやられたらしいな」
彼の言葉通り、中庭に付けられた足跡は、裏館と表館を一往復した分だけだった。足跡の他に、もうひとつのものが死体のすぐそばに残されていた。刀身を真っ赤な血に染めたナイフだった。
理真に呼ばれてロビーに下りてきた妹尾は、変わり果てた田之江の姿を見るなり悲鳴を上げ、崩れ落ちる体を理真に抱きとめられた。
私たちは死体の状況を携帯電話のカメラに収めてから、現場の確認を行った。中庭についていた足跡は田之江のものに間違いはなかった。田之江は昨夜裏館に泊まったため、裏館を出て一旦表館に行き、裏館に引き返してきた足跡と見ても間違いはない。その途中、というか、裏館の玄関に辿り着く直前に田之江は奇禍に遭ったと見られる。俯せに倒れた田之江の頭から玄関の敷居までは、残り約五十センチ。背中には刺し傷がある。その傷口は、凶器をただ突き立てただけでなく、突き刺したあと何度も抉るように凶器を動かしたと見られる。血に染まった一振りのナイフが死体のすぐそばに落ちていた。このナイフは、裏館の倉庫の戸棚に残されていたものと見られる。私にも見覚えがある。念のため倉庫の戸棚を調べると、やはりそこにあったはずのナイフがなくなっていた。
「このナイフを凶器と見ていいかもしれないが、見ての通り傷口がしつこく抉られているので、断定は出来ないな」
死体を見た湖條が言った。湖條は検死の結果、死後六時間から五時間程度経っていることも付け加えた。
「今が六時半ですから……」乱場は携帯電話の時計表示を見て、「死亡時刻は今日の零時半から一時半の間ということですね」
そして、それは誰の目にも明らかだったが、
「同じです。鉄雄さんが殺された状況と……」
そう言って、裏館の居間で妹尾は体を震わせた。そう、一応妹尾に確認を取ったが、田之江が死んでいた状況は、十九年前の志々村鉄雄のそれと瓜二つだった。
「中庭に、足跡は田之江さんのものだけ……」
乱場が呟いた。
「美夕が推理したトリックで殺されたとすると、犯人の足跡が田之江さんの体の下に残っているかもしれません。雪とは違い、ぬかるんだだけの地面なら、そう都合良く犯人の足跡が消えるとも思えませんし」
馬渡が言って、湖條と二人で田之江の体をひっくり返した。が、
「……ないな」
湖條が呟き、馬渡は無言だった。俯せになった田之江の体は、確かに体の投影面積全部を地面に接していたわけではなかった。あごと胸の間など、田之江の体が触れずにいた地面もいくらかあった。だが、そのどこにも足跡は見つからない。
「足跡と田之江さんの体が被ったとしても、完全に足跡を押し潰して消してしまうとは思えませんが……」
馬渡は目を凝らして田之江の体があった地面を見るが、やはり何もみつからない。乱場も地面に視線を差していたが、
「朱川さんのトリックを使ったんじゃない、ということですか? 少なくとも、今回の田之江さん殺しでは」
「そもそも……」と、それまで沈黙を貫いていた理真が、「どうして田之江さんは殺されたのでしょう?」
全員の顔を見る。それに答えを返すものは誰もいなかったが、
「そうだ……田之江さん、どうして……」
田之江の死体のそばにしゃがみ込んでいた湖條が、そう呟いて立ち上がろうとしたが、
「教授!」
よろめいて馬渡に体を受け止められた。「すまん」と言ってから湖條は、
「私は……田之江さんが十九年前の事件の謎を解いたものとばかり思っていた。これで、報奨金は田之江さんのものだと……」
「教授?」
馬渡は肩を貸しながら裏館に入り、湖條を居間の椅子に座らせた。妹尾が水を持ってくる。「ありがとう」と水を飲んで湖條は、
「私は、それでいいと思っていた。田之江さんに報奨金が渡ればいいと」
「教授、もしかして……」
乱場の声に、湖條は、こくりと頷くと、
「ああ、田之江さんは、恐らく影浦から恐喝を受けていた」
私は理真と目を合わせた。やはり、あのとき田之江は影浦の部屋に入り鞄を漁っていたのか。もう一度コップを口に付けてから湖條は、
「数ヶ月前に、田之江さんと飲んだときに、様子がおかしかったことに気が付いた。何か事情があれば、彼のほうから話してくれるだろうと思っていたのだが、そのときは、『教授、事件で失敗したことはありますか?』と尋ねられただけだった。私も順風満帆でここまで来たわけじゃない。失敗のひとつや二つはしているさ。そう言ったのだが、田之江さんは、寂しげに笑みを浮かべただけで、それからはもう何も言わなかった。後日、私は手の空いたときに田之江さんが直近に手掛けた事件を調べてみた。そこで見つけた。その事件で田之江さんは、犯人を指摘するに十分な手掛かりを得ていた状態にも関わらず、犯人の正体を看破出来なかった。そのせいで、ひとり犠牲者を余計に出してしまっていたんだ」
「そのことで思い悩んでいたのですか、田之江さんは」
理真が訊くと、湖條は頷いて、
「ああ。田之江さんもあとでそれに気付いたのだろう。もっと早い段階で犯人を捕らえることが出来ていたことに。だが、幸いに、と言っていいのか、警察を含め事件関係者はそのことに気が付いていなかった。田之江さんは見事事件を解決して、その名探偵振りを賞賛されていた。いつものように。私は調査の中で、影浦も同じようにその事件を調べているということを知った」
「それでは、影浦さんも、そのこと、田之江さんの過失に気付いて?」
「ああ、間違いないだろう。そういう重箱の隅を突くのが得意な男だ、影浦は」
「それをネタに、強請られていた、と……」
「だから、馬渡くんから影浦が死んだと聞いて、私は内心ほっとしていた。もう田之江さんが苦しむこともなくなったと。いや、田之江さんだけじゃない。あいつに強請られていた人全員が、これで助かったんだと……。そして、妹尾さんが話してくれた十九年前に事件のことだ。この事件を田之江さんが解決すれば、恐喝で奪われた金のいくらかの補填になるだろうと」
「だから、湖條さんは事件捜査に乗り気でなかったのですね。手柄を田之江さんに譲るために」
「ふふ。不遜だろう。だが、田之江さんならやれると思っていた。私を除けば、この中で田之江さんのライバルになり得るのは乱場くんだけだと思っていた。彼もまた事件に乗り気でなかったのは幸いだった。気分を害しないでもらいたいが、馬渡くんはこういった事件には門外漢だし、朱川さんもまだ駆け出しだ。安堂さんの力だけが未知数だったが、そこは、田之江さんならやれると願うしかなかったな。もうひとり、影浦がいたら強敵になっていただろうが……」
そこまで言うと、湖條は残りの水を一気に飲み干した。
「殺された理由もですが……誰なんですか? 犯人は?」乱場が私たち全員を見回して、「田之江さんの死に方は明らかな他殺です。この島には、僕たち以外に誰も――」
そこで言葉を止めた。
「X……探偵X」馬渡の声がそれに続いて、「Xが田之江さんを殺したんだ。影浦に続いて!」
「晃平!」
居間を飛びだしかけた馬渡は、私の声に足を止めて振り向くと、
「島の捜索に行ってくる。今度こそXを捜し出してやる! みんなはここにいろ」
「晃平!」
もう一度掛けた私の声は無視され、今度こそ馬渡は居間を飛びだしていった。
「私も行く……」
「教授!」
立ち上がり掛けた湖條は、またもよろめいて今度は乱場に体を支えられた。
「すまん……」
湖條はそのまま再び椅子に座らされる。田之江のことでショックを受けているのだろう。顔色も優れない。それを見た妹尾は空になったコップを手に台所に向かった。湖條を座らせると乱場は、
「本当にXなんて殺人鬼が島にいるのなら、いくら馬渡さんでもひとりじゃ危険です――」
「待って」
私は、馬渡のあとを追おうとした乱場を止めて、
「私が行くわ」
「危険です! ここは男の僕が……」
「ありがとう。乱場くんは、理真さんと一緒に教授と妹尾さんを頼むわ」
「でも」
「私だって、あいつの助手をしていたのよ」
そう言い残して、私は裏館を出た。
昨夜雨を降らせた雨雲は上空から去りつつある。空には青と白が斑模様を作り、どす黒い雨雲は彼方に追いやられていた。中庭に残った馬渡の足跡を追って私は走る。田之江の死体があった玄関前、雨水が溜まった噴水、井戸、発電機のある地下室出入り口をあとに、私は馬渡の背中を探した。
彼はすぐに見つけることが出来た。影浦の死体を発見した――まだ彼以外に誰もそれを見ていないが――海に面した崖。その崖の縁から数メートルのところに馬渡は立っていた。
「美夕!」
彼のほうでもすぐに私が走ってくるのを目にしたようだ。彼もこちらに駆けてくる。
「どうして来た? 危険だぞ」
「晃平こそ、いきなり飛びだしていって、危ないじゃない」
「俺がXなんて輩相手に不覚を取ると思うか?」
私は思わず吹き出してしまった。
「美夕……どうした?」
「だって、相手のことは全然分からないのよ。プロレスラーみたいなやつだったらどうするの」
「俺は実際にレスラーと戦って勝ったことがあるが」
「思い出した。凄いボロボロになって帰ってきたこと、あったわよね」
「あいつは手強かった」
真面目な顔で言う馬渡を見て、また吹きだしてしまう。
「美夕、俺は大真面目でだな……」
「で、見つかったの? 探偵X」
「……いや、まだだ」馬渡は後ろを、崖の向こうに広がる海原に目をやり、「ここにいれば、やつをおびき出せると思ったんだが」
「どうして?」
「影浦が殺されたのも、ここだ。ここなら、隙を見て崖から突き落とすだけで簡単に殺せる。たとえ、俺が相手でもな」
妙な自信を見せる馬渡の態度に、三度吹きだしてしまった。
「美夕!」
彼はまたしても大真面目な顔で私を見てくる。
「ねえ、本当にいると思うの? Xが」
「美夕は、懐疑的なのか」
私は否定も肯定もせず、首を捻るしかなかった。
「Xがいないとしたら、影浦と田之江さんを殺したのは誰だ? 妹尾さんを監禁したのもある。Xが存在しないのであれば、その犯人は俺たちの中にいるという……」
そう、そうなのだ。Xがいないのであれば、田之江が死んだ今、犯人は私たちの中に絞られる。いや、影浦の死がフェイクだとしたら……。
「晃平?」
海に向いていた馬渡の視線が下がっていた。私もその先を追って、
「どうかしたの?」
「美夕、あれ」
彼は海面を指さす。その位置は、崖下から十メートル程度先。私も目を凝らして見ると、白い波の間に何か黒いものが浮かんでいるのが分かる。
「何かしら、あれ……靴?」
それは靴に見えた。形からして、男物の革靴のようだ。
「もしかして……」
「晃平!」
馬渡は崖に向かって走ると、懐から出した手袋をはめて、背中を海に向けて崖を下り始めた。
「晃平! 何の準備もなしに!」
今の彼は一昨日の朝のようにビニール紐も持っていない丸腰だ。
「心配するな。あんなのはただの保険だ。それに、二回目だから勝手が分かる」
私は両手をついて崖の下を見下ろした。馬渡は岩を掴みながら器用に崖を下りていく。その速度は、一昨日の朝に引けを取っていないどころか増している。ものの一分も掛けずに、馬渡は崖下に下り立った。少しの間、波間に揺れる靴らしきものを見ていた馬渡だったが、背広を脱いで岩に掛けると、頭から海に飛び込んだ。
「晃平!」
馬渡は波をかき分けて浮遊物に辿り着き、それを手に取る。
「靴だ!」
かろうじて彼の声を聞き取ることが出来た。馬渡は手にした靴を崖下に投げると、今度は水中に潜っていった。
「晃平!」
届かないと分かっていても叫ばずにいられない。一分……二分……いや、もっと経過しただろうか、それともそこまで時間は経っていなかっただろうか。ようやく青い海原に馬渡の顔が浮かび上がってきた。私は安堵のため息を漏らす。
「美夕! ボートを持って来てくれ!」
「どういうこと?」
「影浦の死体が沈んでいるんだ!」
馬渡が発見したボートは砂浜に係留したままだ。私ひとりではボートの扱いに難儀すると思い、一旦志々村邸に戻って事情を説明すると、湖條をはじめ全員が一緒に行くことになった。
砂浜には私と湖條の二人で行き、乱場、理真、妹尾は直接崖に行ってもらう。湖條は憔悴から快復しきってはいなかったが、力強くオールを操ってくれ、私も乗せたボートを馬渡が待つポイントに向かわせた。馬渡は立ち泳ぎのまま波間に揺られていた。見上げると、崖の上にはすでに三人の顔がある。
「馬渡くん! 影浦が?」
「そうです、今引き上げます」
湖條と短い会話を交わすと、馬渡は勢いを付けて頭から海中に潜っていった。
「きゃぁっ!」
馬渡が顔を出すと、私は思わず悲鳴を上げてしまった。彼は、ひとりの男を羽交い締めにする格好で引き連れて戻ってきたためだ。崖の上からも三人の悲鳴が聞こえた。その真っ黒な背広を着た男は、
「影浦……」
湖條が呟いた。影浦涯に間違いなかった。元々白かったその顔は、さらに不気味なほど白くなっている。無論、死体であることは一目瞭然だった。
「凄まじい体力だな。男ひとりの死体を持ち上げて浮上するなんて」
「なあに、これしか取り柄がありませんからね……ボートに上げますよ」
湖條と馬渡は協力して死体となった影浦をボートに引き上げる。それでボートは満員のため、馬渡は崖を上って戻ると言い泳いでいった。
「大丈夫かね」
「はい……」
私が返事をすると、湖條は再びオールを漕ぎ始めた。私は目を逸らさずに影浦の死体を見る。影浦の黒い背広には、所々ロープが絡まっていた。




