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第13章 過去と現在

 私たちがこの絶命島(ぜつめいとう)に集められた理由。かつてのこの島に住んでいた志々村八重(ししむらやえ)の依頼と、事件の内容を話し終えた妹尾真奈(せのおまな)は、責任は果たしたという深く長いため息をついてから浴室へ向かった。が、彼女を監禁した人物と、これはまだ妹尾には話していないが、影浦(かげうら)が殺されたこともある。妹尾をひとりにしておくのは危険なため、浴室には理真(りま)がついていってくれることになった。地下室に行って、彼女のスーツケースから着替えを持って来てもらうことも忘れなかった。よって、部屋に残ったのは、私、湖條(こじょう)乱場(らんば)馬渡(まわたり)田之江(たのえ)の五人。


「十九年前の殺人事件、その謎を解け。ときたか……」


 湖條は机の上に置かれた一枚の紙に目を落とした。そこには、妹尾が描いた死体発見時の概要図がある。写真が残されていないのは残念だが、事情が事情なので致し方ない。世間的には、この事件で殺された志々村鉄雄(てつお)は事故死という扱いになっているのだ。乱場も椅子を動かして湖條の隣に座り、図の描かれた紙を見て、


「妹尾さんの話と、この図によると、確かに志々村鉄雄は完全な〈雪密室〉で殺害されていますね」

「雪密室、ねぇ……」


 馬渡が、やれやれといった声を出した。心配しなくていい。お前には誰も何の期待もしていないから。


「でも、雪密室と言っても」と乱場は図面に指をさし、「被害者の鉄雄さんは、裏館の玄関すぐ前で死んでいたんですよね。裏館の玄関を開けて手を伸ばせば刺せるのでは?」


 乱場の人差し指は、死体と裏館玄関の間に置かれていた。


「乱場くん、鉄雄は頭を裏館に向けた状態で俯せに倒れていたんだ。状況から言って、表館から裏館の玄関前まで辿り着いた直後、背中を刺されたと見られる」


 湖條の指摘に、「そうか」と乱場は、


「裏館には体の前面しか向けていなかったということですね。背中を刺せるわけがない」


 そういうことになる。


「ああ」と湖條はさらに、「話によると、鉄雄の足跡に一切の乱れはなかったそうだからな。裏館の玄関に背中を向けるためには、その場で足踏みして体を反転させる必要がある」

「そういった足跡はなかった……」

「それに、妹尾さんの話では、死体の確認をするため玄関のドアを開けたとき、鉄雄の頭は玄関から五十センチ程度先にあったという。背中を刺され絶命した鉄雄が前のめりに倒れたのなら、刺される前、鉄雄は自分の身長分さらに向こうに立っていたということになる。鉄雄の身長が一メートル七十センチだと仮定して、玄関から二メートル二十センチ離れた位置で鉄雄は奇禍に遭ったはずだ。そんなに腕を伸ばせる人間がいるわけがない」

「向かい合った状態で、背中に手を回して刺す、ということも無理なわけですね」


 乱場は下げた指をあごに当てた。かわいらしい仕草に思わず頬が緩んでしまう。


「ちょっといいですか」


 と、ここで馬渡が手を上げた。私を含め、全員が意外そうな顔で彼を見る。馬渡は上げた手を下ろしてから、


「被害者の正面に立つのは無理。であれば、犯人はまさに被害者の後ろにいたのでは?」

「後ろ? でも、雪の上に足跡は鉄雄さんのものひとり分しかなかったそうですよ?」

「乱場くん。ナイフで刺すためには、必ずしも相手のすぐ背後にいる必要はないんだぜ。むしろ、そうでないことがナイフという武器の長所でもある」


 得意気になっているところ悪いが、私にはもう話の落ちが読めた。湖條と田之江も、やれやれ、といった顔になっている。しかし、体力だけが取り柄の肉体派探偵は、ひとりだけ目を輝かせている少年探偵を前に、


「ずばり、犯人は表館の裏口から、ナイフを投げて鉄雄の背中に突き刺したのだよ」

「……」


 ほれみろ。乱場が輝かせた視線のやり場に困っている。


「……あれ?」


 さすがに鈍感な馬渡も、部屋中に広がった不穏な空気に気付いたようだ。


「馬渡くん」と湖條が、「凶器のナイフは被害者のそばに落ちていたのだよ」

「ええ、それが?」

「どうやって犯人は投げつけて刺したナイフを抜いたんだね」

「あっ! いえ、それはですね……それは当然、被害者のところまで歩いていって……」


 私は思わず吹きだしてしまった。乱場も唇を噛みしめた、普通では絶対にしないであろうおかしな表情になって馬渡から視線を逸らす。笑いを堪えているのだ。


「それに、馬渡さん」


 と田之江も突っ込みを入れるようだ。彼は声を噛み殺して笑っていた。


「被害者の傷口は、刺したナイフを何度も動かして、(えぐ)られたようになっていたという話ですよ。投げただけではそんな傷になりようがありません」

「……これは、失敬」


 先ほどまでの得意気な顔はたちまちに失せ、消え入るような声で自称ハードボイルド探偵の推理劇は幕を閉じた。


「十九年前の事件の謎もだが」と再び湖條が口を開き、「彼女、妹尾真奈を監禁したのは何者なんだ?」


 乱場も真剣な表情に戻ると、


「それこそ探偵Xなのでは? 馬渡さんが発見したボートで、妹尾さんよりも前にこの島に乗り付けて、彼女を監禁したとか」

「そうだとして、Xの目的は何なんだ? 影浦の死もXの仕業なら、彼女を監禁したことと、どういう関係があるのか」

「影浦に目撃されたのでは? Xは僕たちがいる間に少なくとも一度、あの地下室を訪れています。妹尾さんの話にあった、差し入れされたというおにぎり、あれは間違いなく安堂(あんどう)さんが作ったものでしょう。彼女があのおにぎりを作ったのが昨日の朝、それ以降に一度、そのおにぎりを持ってXは地下室を訪れていたはずです」

「おにぎりは、いつまで冷蔵庫にあった?」


 馬渡が訊いた。乱場は首を傾げる。そこで私が、


「夜にはもうなくなっていました」


 私はてっきり、理真が自分で食べてしまったのかと勘違いしていたのだが。が、ここで湖條が、


「いや待て、朱川(あけかわ)くん、冷蔵庫なら夕食前に私が覗いたが、すでにおにぎりは見当たらなかったぞ」

「えっ? そうだったんですか?」

「ああ。表館の大捜索をしたあと、私が小腹が空いたと言ったのを憶えているか? それを聞いた安堂くんが、すぐに夕食にすると言ってくれたんだが、私は彼女の顔を見て、そういえば、おにぎりが冷蔵庫にあるという話だったなと思い出したんだ。それで冷蔵庫を開けてみた。だが、おにぎりはどこにもなかった」

「では、Xが地下室に行ったのは、昨日の朝、私たちが島の捜索に出て、帰ってくるまでの間?」

「そういえば、影浦は俺たちよりも先に屋敷に帰っていたな」


 馬渡の言葉通りだ。昨日、影浦は野外で昼食休憩中に、おにぎりを食べ終えるとひとりでさっさと帰ってしまっていた。


「そこでXのことを目撃した、ということですか?」


 そう言って乱場が、確認を取るように私たちの顔を見回した。


「田之江さん、何かありますか」


 湖條は古本屋店主に意見を求めた。


「そうですね……」と田之江はおもむろに、「まず、おかしな話だと思いませんか?」


「何がです?」乱場が訊くと、


「彼女の、妹尾真奈という女性の話ですよ。謎の人物に監禁され、差し入れをしてもらっただなんて。拉致監禁までするような人物が、どうしてそこまでするんですか? 地下室には水とサプリメントが用意しあったそうじゃないですか。わざわざ危険を冒しておにぎりの差し入れなど、する必要がありません。さらには、ご丁寧に荷物であるスーツケースまで一緒にして」


 この疑問には誰も言葉を返さなかった。さらに田之江は、


「それに、姿を見られた影浦は殺害したというのに、どうして彼女はずっと監禁したままだったのですか? それこそ、さっさと殺してしまったほうがいいはずです。実際、こうして私たちに発見されて、彼女の口から監禁者の存在が知られてしまっています」

「それについて、田之江さんは何か考えがありますか?」


 乱場の言葉に、「ええ」と田之江は、


「彼女の話が嘘なのではないかと」

「嘘?」

「そうです」

「それじゃあ、妹尾さんが地下室にいたのは、監禁されていたわけではなく、隠れていただけだと? おにぎりも監禁者から差し入れされたのではなく、自分で持って来た? 僕たちが表館を留守にした隙を狙って?」

「さすが期待の高校生探偵。飲み込みが早いですね」田之江は笑みを浮かべて、「そうです。毎食毎食サプリメントでは、さすがに味気ない。彼女は地下室にいながら、外を監視する(すべ)を持っていた。昨日の朝、私たちが揃って表館を出たことを知った彼女は、これ幸いにと地下室を出て冷蔵庫を漁り、おいしそうなおにぎりを見つけていただいてしまった。彼女がそれをわざわざ話した理由は……」


 田之江は言葉を止めて乱場を見る。それを受けて少年探偵は、


「僕たちが、冷蔵庫からおにぎりが消えたことを疑問に思っているかもしれない。だから、先手を打っておにぎりがなくなった理由を話した。自分が疑われないために」


 答えを聞くと、田之江は満足そうに頷いて、


「影浦が見たのは、Xが地下室に出入りするところじゃない。妹尾さんの姿そのものだった」

「それじゃあ、影浦さんを殺したのは、妹尾さん……? 彼女がX?」

「そこまでは分かりませんが、十分可能性のある話だと思いますよ。もっとも、影浦さんが本当に殺されているとして、ですが」


 田之江は馬渡に視線を移した。


「待ってくれ」


 鋭い視線を刺された馬渡が声を上げる。笑みを浮かべながら田之江は、「これは失敬――」と言いかけたが、


「違うんだ。俺が言いたいのは、彼女が自由に地下室を出入り出来たはずはないということです。みんなも見たでしょう、あの地下室の出入り口である床のドアは、冷蔵庫が重しになって開けられない状態だった」

「そう思わされていただけで、実際は内側から容易に開け閉め出来る構造なのかもしれません」

「試してみましょう」


 馬渡は立ち上がった。

 私たちは裏館の、妹尾が監禁されていた地下室のある台所へと戻ってきた。地下室への出入りがひとりでも可能かどうかを確認するためだ。まず馬渡が地下室に入り蓋を閉じる。当然、その蓋を覆い隠していたマットと、さらにその上で蓋が開かないよう重しの役目をしていた冷蔵庫は蓋の上から除けられたままだ。地下室からこのマットと冷蔵庫を動かす何かしらの仕掛けがあれば、監禁は妹尾の自演だという可能性が大いに高まる。


「駄目ですね。何もありません。中からマットや冷蔵庫を動かす仕掛けも、隠し通路の(たぐ)いも、何も。この中は正真正銘、袋小路の地下室ですよ」


 数分後、諦めの表情とともに馬渡が出てきた。次に湖條も中に入り確認をしたが、結果は同じだった。


「どうやら、妹尾さんの自作自演説は消えたようですね」


 馬渡は多少皮肉を込めたような顔で田之江を見た。「確認出来ればいいのです」と田之江は涼しい顔をしていたが。

 表館に戻る途中に湖條が、


「そもそも、彼女の監禁が自演だったとしたら、あの話、私たちをこの島、絶命島に呼び寄せた十九年前の殺人事件の話は、どうなる。彼女が監禁を自演することと、あの話に全く繋がりが見えない」

「その話も疑わしいとは思いませんか?」


 歩きながら田之江が答えた。


「疑わしい……? あの話こそ、全くの嘘だと?」

「だって、そう考えても仕方がないとは思いませんか? その事件が本当に起きたと証明するものは何もないんですよ」

「それこそ、彼女がそんな嘘話を私たちにする理由は何です?」

「さあ、そこまでは」

「歯がゆいですね」と馬渡は地下室内を照らすライトに使った携帯電話を見て、「何かしら本土との通信手段があれば、せめて、十九年前に志々村鉄雄という人物がこの島で実際に死んだかどうかだけでも確認出来るんですけれどね」


 私も横から覗いたが、相変わらず携帯電話の画面には圏外を表すマークが表示されていた。

 何か飲もうと広間に行くと、そこには理真と妹尾がいた。妹尾は各部屋に用意されていた寝間着を着て頭をバスタオルでくるんでいる。


「すみません、こんな格好で。お風呂に入ったら生き返りました。お礼がまだでしたね。助けていただいてありがとうございます」


 彼女は立ち上がって頭を下げた。


「それはいいんだが……妹尾さん」と湖條が私たちを代表して、「先ほど聞かせてもらった事件のことなのですが……」


 湖條が言い淀んだが、妹尾はその意を察したのか、少し俯いて、


「はい。分かっています。事件の話に疑いを持っていらっしゃるんですよね」


 湖條の口が動きかけたが、何の言葉も発されなかった。「そんなことは」と言いかけたのだろう。


「ですが」と妹尾は顔を上げると、「信じて下さい。十九年前の冬の日。志々村鉄雄はこの島、この表館と裏館の間の中庭で、本当に殺されていたんです。背中をナイフで刺されて……。私も、少しだけですけれどこの目で確かに見ました。鉄雄が、背中から真っ赤な血を流して、雪の上に俯せに倒れているのを……」

「分かりました」


 湖條は確かな口調で言った。私も、そのときの妹尾の沈痛な面持ちを見ると、彼女が嘘をついているとはとても思えなかった。


「念のために訊きますが、当時の遺留品や写真などは、何も残っていないのですね?」

「はい。凶器のナイフまで、誰かがすぐに処分してしまったと聞きました。とにかく、鉄雄の死を事故に偽装することが最優先だったらしく。証拠となるようなものは全て……。ですので、写真も一枚も撮っていません」

「八重さん以外の関係者から、当時の話を聞いたといったことも?」

「ありません。先ほども話しましたが、私、あの事件が起きて以降に会った志々村家の人は、八重さんひとりだけなんです」

「仲が良かったという、彩佳さんとも?」

「はい。私が東京に出たのと入れ違いに海外に留学したので」

「そうですか……」


 湖條は深いため息と同時にあごに手を当てた。


「難しいお願いだということは重々承知しております。八重さんが、皆さんに出した招待状に事件のことを書かなかったのは、当時の秘密を守るという以外にも、万が一事件の真相に辿り着くことが出来なくとも、皆さんの経歴に傷が付かないようにという配慮もあったのではと――あ、すみません、生意気なこと言って……」


 湖條は苦笑していた。


「ですが……」ばつが悪そうな顔をしていた妹尾は、「これは、それこそ皆さんのプライドを傷つけるからと八重さんには口止めされていたのですが、もし鉄雄の死の謎を解くことが出来た探偵さんがいたら、報奨金を出したい、とも」

「ほほう」と声を上げたのは馬渡だった。「どうしてそれがプライドを傷つけるんです? 仕事には正当な報酬が支払われるのは当然の話なのでは?」

「馬渡くん、私たちは君と違って、ボランティアで警察捜査に協力している素人探偵なんだよ。ああ、朱川くんも職業探偵だったね」


 湖條が顔を向けてきた。私は頷く。


「なるほど、なるほど。事件を捜査しているのは奉仕活動なので、それでお金を得るのは筋違い、ということですか。それじゃあ、俺か美夕(みゆ)が謎を解けば、何の気兼ねなしに報酬を貰えるということですね」


 一緒にするな。仲間になりたそうにこっちを見るな。余計な心配しなくても、事件解決に一番縁遠いのはお前だよ。


「で、ちなみに、報奨金には如何(いか)ほどのご用意が……?」


 頭を使うことはまるでダメな肉体派探偵に尋ねられて、妹尾が金額を口にすると、馬渡は口笛を吹き、その場にいた全員が目を丸くした。


 それから、私、男性陣の順に入浴を済ませ、この日はもう就寝することにした。色々とありすぎてみんな疲れているのだ。

 妹尾をひとりにしておくのは危険なため、私の部屋で理真と三人で寝ることになった。とはいえ、危険なのは彼女だけではない。妹尾を監禁し、影浦を殺した探偵Xが島にいるというのであれば、その魔手が今度は誰に及ぶかも分からない。部屋の前では男性陣が交代で見張りをしてくれ、私たちも理真と交代でどちらかが常に起きていることにした。最初は恐縮していた妹尾だったが、監禁による体力消耗とショックからか、さらに久しぶりのベッドというのも手伝ったのだろう。横になるとすぐに眠ってしまった。

 見張りは私が最初にすることにして、理真に先に寝てもらった。少しだけ譲り合いのやり取りをするのかと思ったが、「お言葉に甘えて」と理真もすぐにソファに寝そべり、寝息を立て始めた。やはり、余程事件の場数を踏んでいるのだろうか。肝が据わっているというか、よく分からない人だ。

 私は窓際に設置した椅子に腰を下ろすと、カーテンを開けて中庭を見た。月明かりで見当を付け、裏館の玄関の辺りに目をやる。十九年前の雪降る日、あそこでひとりの人間が殺されたのだという。自身の足跡しかない雪一面の中庭で、被害者、志々村鉄雄は背中をナイフで刺されて死んでいた。


「美夕」


 ドアの向こうから声がした。むっ。最初に見張りをするのは馬渡だったのか。それを知っていれば私が先に寝たのに。状況が状況なだけに、何も返事をしないと不測の事態が起きたのかと誤解される。私は仕方なくドアの近くに行き返事をした。


「何」

「よかった。美夕が先に番をしてたんだな」

「だから、用事は何」

「信じてくれ」

「えっ?」

「影浦のことだ。俺は本当にあいつの死体を見たんだ」

「そんなこと。分かってるわよ。あなたはそんな趣味の悪い嘘をつく人じゃないもの」

「……ありがとう」

「別に……。田之江さんだって、本気で疑ってるわけじゃないわよ」

「そうだといいんだが……。なあ、美夕、後悔してるか?」

「何に?」

「この島に、絶命島に来たことを」

「ちょっと、ね」

「そうか」


 ドアの向こうで彼は、ハードボイルドとは縁遠い落胆の表情をしていることだろう。


「俺は……来てよかったって思ってる」


 私に会えたから? そんなふうに訊いたら、喜び勇んで「そうだ」と答えるだろう。


「妹尾さんから、報酬のことを聞いたからでしょ」

「そうなんだ。もし俺が解決出来たら事務所が潤う」


 そう。こんなに嘘をつくのが下手な男なんだ。


「フィリップにも、いい餌を食わせてやれるしな」


 私は顔をほころばせた。フィリップ。ある雨の日、彼が拾ってきた黒猫。私があの事務所を出るときの唯一の心残りがフィリップだった。


「フィリップ、元気?」

「元気さ。ここに来る前にペットホテルに入れたから、俺が留守でも心配いらない」

「ホテルに。助手とか、雇ってないの?」

「ああ、変わらず、俺ひとりでやってる」


 大丈夫? と出かけた言葉を飲み込んだ。別に私が心配してやる義理はない。とはいえ、この男に探偵事務所の切り盛りが出来ているのかは大いに疑問だ。探偵事務所の経営というのも楽じゃない。依頼人との対応、売上げの計算と管理、宣伝。彼が苦手な雑務が山ほどある。

 戻ってきてくれないか。その言葉が今にもドア越しに聞こえてきそうで、それに対して、私が返事をしてしまいそうで、


「私、戻るわ。窓のほうを見張らないといけないし、あまり話していると理真さんや妹尾さんが起きちゃう」


 私はドアの前を離れ、窓際に置いた椅子に腰を下ろした。

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