第12章 雪の日の惨劇
丸三日以上も地下室に監禁されていたことから、先に風呂に入った方が良いのではないかと、私と理真が勧めたが、妹尾真奈は、「これだけ話してからにする」と、十九年前に起きた事件の概要を話し始めた。彼女なりの使命感がそうさせたのだろう。
「事件が起きたとき、この島には、私も含めて十二人の人間がいました。志々村家当主の鉄雄、その妻、八重、鉄雄の長男、一雄、その妻、昌子、鉄雄の次男、次雄。長男の一雄と昌子にはひとり娘がいました。名前は彩佳。鉄雄には妹がひとりいて、その妹もこの島で暮らしていました。名前は銀子といいます。この銀子が私の祖母です。ここに私を加えた八人が志々村家の血縁者です。そして、使用人の佐山徹と、家政婦の大谷信恵。さらに私と彩佳の家庭教師の神谷辰樹、医者の山村茂喜の四人を加えて十二人です」
皆が黙って聞く中、湖條の横で乱場がメモを取っていた。
「かなりの大所帯ですね。その十二人が、この島に住んでいたということですか?」
「いえ。島に常在していたのは、全部で七人だけです。鉄雄と妻の八重、妹の銀子、次男の次雄。それに、使用人佐山と家政婦大谷に、医師の山村です」
「それ以外の人たちは、一時的に島に滞在していたということですね」
「そうです。事件が起きたのは、十二月三十日でした。年末年始を島で過ごすことが私たち親族の習わしでしたので」
「先ほどの中に、あなたのご両親がいなかったようですが」
湖條の言葉に、私も乱場のメモを見やる。確かに、乱場は当時現場にいたという人物の名前に丸を付けていたが、真奈の両親には丸が付けられていない。
「私の両親はいつも忙しくしていて、年末にも満足に休みが取れることは稀でしたから」
「でも、あなたはおひとりで島に来た」
「ええ、私は鉄雄の孫である彩佳と仲が良かったですから。彼女に会うことが目的で、両親の都合が付かないときでも、私ひとりで島を訪れることはよくありました」
「家庭教師の神谷さんという方は?」
「神谷さんは、鉄雄の知人で、私と彩佳に勉強を教えてくれていました。ですが、私も彩佳も常時島にいるわけではありませんので、限定的な肩書きでした。本土の港のすぐ近くに住んでいた青年で、島によく遊びに来る鉄雄の知人だったそうです」
「なるほど」
湖條は納得したような声を出したが、「青年」と称する年齢であれば、鉄雄と知人であったというのは釣り合いが取れないのではないだろうか。詳しい年齢は分からないが、当時鉄雄はすでに老人だっただろう。湖條もそれは当然感じているだろうが、
「では、事件の詳しい話を聞かせてもらえますか」
ひとまず妹尾の話を聞き進めることにしたようだ。他の探偵たちからも突っ込みの声はない。妹尾は、こくりとひとつ頷いてから、事件の概要を語り始めた。
「事件が発覚したのは、十九年前の十二月三十日の朝のことでした……」
その日の朝早く、志々村鉄雄の死体が発見された。
第一発見者は裏館にいた家政婦の大谷だった。いつものように、二階の自室から朝食の支度をしに表館へ行くため廊下を歩いているとき、彼女は何気なく中庭を見た。表館の裏口から裏館に向かって雪の積もった地面に足跡がひと筋ついている。その先を辿り視線を動かしてみると、窓の直下、裏館のすぐそばに人がひとり倒れていた。俯せの状態だったため顔は確認出来なかったが、着ていた背広から、それは志々村家当主鉄雄であると思われた。大谷が悲鳴を上げたのは、ただ当主らしき人物がが雪の上に倒れていたという理由だけではなかった。倒れている人物はぴくりとも動かず、背中を真っ赤な血で染めていたためだった。
大谷の悲鳴を聞きつけて二階廊下に駆けつけたのは、使用人の佐山、医師の山村、家庭教師の神谷の男性三名。少し遅れて鉄雄の妹銀子と、その孫真奈も姿を見せた。この六人が裏館に寝泊まりしていた全員だった。佐山たちは窓から中庭を見下ろして目を見開いた。真奈は、とっさに銀子に体を抱きしめられ、発見者の大谷と三人で廊下にしゃがみ込んでいた。
鉄雄らしき人物は窓のほぼ直下に、頭をこちら側、裏館の方向に向けた状態で倒れていた。背広の背中を染め上げた血は、背中のほぼ真ん中を中心に広がっている。そのすぐ横、真っ白な雪の上にも赤いものが確認出来た。それは、刀身を同じように血で染めた一本のナイフだった。
真奈を大谷に預け、銀子も加わって四人は目を凝らして中庭を凝視した。だが、雪の積もった中庭には、倒れている人物がつけたと思われるもの以外、何者の足跡も確認出来なかった。
真奈を大谷に任せたまま、四人は階段を駆け下りてロビーに向かった。窓から見たところ、鉄雄らしき人物が倒れていたのは玄関のすぐ外だった。使用人の佐山がドアノブを握り、家庭教師の神谷、医師山村、銀子の顔を確認するように順番に見てから、ゆっくりと引き開けた。雪は夜半には降り止んでおり、三十センチ程度積もっているだけだった。さらに急激な気温の低下のため表面が固く凍り付いたようになっており、雪が屋内になだれ込んでくることはなかった。その五十センチほど向こう。窓から見たのと全く変わらない体勢で、ひとりの人物がこちらに頭を向け、俯せで倒れている。背中が血で染まっていることも同じだった。医師の山村が近づき手の脈を診て、首を横に振ってから俯せの体を起こす。それにより全員が確認した。倒れていた人物は志々村鉄雄に間違いがなかった。変わり果てた兄の姿を目にした銀子は床に崩れ落ち、使用人の佐山に支えられた。
鉄雄の死は、すぐさま表館に伝えられた。そのとき、改めて確認したが、やはり中庭には鉄雄がつけたと思われるもの以外、誰の足跡も発見できなかった。
表館に寝泊まりしていたのは、鉄雄の妻、八重。長男一雄とその妻昌子。二人の娘彩佳。次男の次雄。そして、死んでいる鉄雄自身。死体のそば落ちていた血まみれのナイフは、島で切り出した材木を加工したりするために使うもので、同じデザインのものが表館と裏館に数本ずつ置いてあるものだった。どちらに何本あったかは使用人の佐山も含め、誰も把握していなかったため、どこから持ち出されたものかは不明だった。当然、これが鉄雄の背中を刺した凶器と見られた。
「私と彩佳の二人だけは、すぐに表館の広間に連れて行かれ、大谷さんの作った朝食を食べていました。その間に、大人たちは緊急の話し合いをしていたのです。鉄雄さんの死の謎を解くためではありません。先ほども言いましたが、鉄雄さんが亡くなったことによる事業への影響を最小限に抑えるためのです」
妹尾真奈の言葉から、大谷と鉄雄に「さん」が付けられていた。鉄雄の死の様子を話すうち、事件の語り部としての役目を忘れ、当時の心境がよみがえってきたのかもしれない。
「十分な話し合いが持たれてから、次雄と佐山の二人が船で本土へ行き、鉄雄の死を警察に報告しました。これもすでに話したように、事故死として片付けられたのです。海に面した崖から誤って転落死したと偽ったそうです。背中を尖った岩に打ち付け、ナイフによる刺し傷を隠蔽するためでした」
ここで私も含めて、六人の探偵の顔色が変わった。「海に面した崖からの転落死」その言葉に反応したのだ。終始俯き加減で喋っていた妹尾は、そんな私たちの様子には気が付いていないようだ。
「鉄雄さんの死を事故死として処理した……」妹尾が黙ってしまったためか、湖條が口を開き、「それは理解は出来かねるが、一応納得はします。しかし、それ以降、一切の捜査は行わなかったというのですか? 事情が事情ですから警察に話すことは出来るわけがありませんが、例えば、探偵を雇って調査をさせるなどは?」
妹尾は首を横に振って、
「なかったと聞きます」
「一家の当主が明らかに殺害されたというのに?」
「誰もそんなことを望んでいなかったからではないでしょうか」
「……どういうことでしょうか」
「あの日、島にいた大人の誰もが、鉄雄の死を望んでいたからだと思います」
「それは……その日、この島にいた誰にも、鉄雄さんを殺害する動機があったということでしょうか?」
妹尾は、ゆっくりと頷いた。
恐怖政治にも近いワンマンな辣腕ぶりで事業を取り仕切っていた鉄雄は、私生活においてもそのスタイルを貫いていたという。
妹の銀子を可愛がる余り、鉄雄は嫁ぎ先の妹尾家のあれこれにもいちいち口を出し、亭主が早くに病で亡くなると、さっさと銀子を島に呼び寄せてしまった。自分の亭主が早死にしたのは、兄の過度な介入があったからだと、銀子は知人たちに漏らしていたことがあった。その銀子の息子夫婦が島に寄りつかないのも、それが理由にあることは明白だった。銀子や息子夫婦にしてみれば、鉄雄の孫の彩佳と真奈が仲良くなったことに対しては複雑な心境があったに違いない。
鉄雄自身の子供、長男一雄と次男次雄も、父親に対しては恐怖とともに憎悪を常に持ち続けていたという。一雄は一度、学生時代から大恋愛の末、この人と決めた相手を父親の介入で別れさせられたという過去を持っている。「志々村家の跡継ぎの妻として相応しくない」というのが理由だった。一雄の妻、昌子も、人づてにその話を耳にしたことがあるらしい。それ以来、「私は夫の本命の女ではない。志々村家の体裁を整えるための飾りでしかない」と恨み言を知人らに漏らし、義理の父親を憎悪するようになっていったという。
次男の次雄は長く独身であったが、兄の悲劇を目の前で見てきたというのが理由にあることは明白だった。事実、次雄は鉄雄が死んだ半年後に結婚している。相手は、父が存命であったなら、かつての兄と同じようにその仲を引き裂かれていたこと必至なタイプの女性だったという。
使用人の佐山と家政婦の大谷も、雇い主の我が儘っぷりには辟易していたようだった。二人とも他に身寄りがなく、この手の仕事としてはいい給金を貰っていたため、その怒りが表面化することはなかったようだが。
医師の山村も、島専属の医師として雇われた当初は鉄雄に感謝していたが、次第にその横暴加減に、やはり使用人、家政婦とともに愚痴をこぼすようになっていった。山村は本土の大病院に勤める医師だったが、数年前に医療事故を起こして職を失っていた。もう、まともな医者としての復帰は絶望的だったところに声を掛けたのが志々村鉄雄だった。
彩佳と真奈の家庭教師として度々島を訪れていた神谷も、鉄雄を見るその目に時折冷たいものが宿るのを家族や使用人たちが目撃している。神谷の年齢は不明だったが、およそ二十代後半程度に見える。どうしてこんなに年の離れた友人関係が成立しているのか、長らく謎だったが、鉄雄が死ぬ半年前の夏に、珍しく鉄雄が不在だったこととに加え、酒の勢いを借りた神谷自身の告白でそれが判明した。神谷は鉄雄の隠し子だった。神谷の母親は女手ひとつで神谷を育て、その無理が祟ってか体を壊してしまった。母親は神谷に父親が誰であるかは一切教えなかったが、親子の窮状を見るに見かねた知人がこっそりと教えてくれたのだという。自分の出自を知ったことを伝え、「自分が鉄雄に談判しにいく」と口にすると母親は激怒した。「あんな男はあなたの父親ではない。絶対に関わってはいけない」普段病床に伏せっている母親からは想像も出来ない剣幕だったという。彼女のほうで、鉄雄はもはや忘れたい過去だったのだろう。「あんな男の世話になるくらいなら死んだほうがましだ」母親の決意は固かったが、神谷は「そうですか」と従ってはいられなかった。
母親には会社の出張だ、友人と旅行だ、と口実を作り、鉄雄に会いに、当時まだ月明と呼ばれていたこの島に、たびたび単身乗り込んだのだった。最初は門前払いを食った神谷だったが、回数を重ねるうち鉄雄に接近し、ある日、神谷は鉄雄と二人だけの話し合いの場を設けることに成功した。そこでどんな話し合いが交わされたのかは分からないが、以来、神谷は鉄雄の招きで島に来ることが多くなり、孫の彩佳と真奈がいるときは家庭教師も任されるようになった。
神谷が鉄雄から金銭の授与を受けていたことは明白だった。しかし、神谷の鉄雄を見る目から鋭さ、冷たさが消えることはなかったという。
隠し子の存在を耳にした妻の八重は、表面上は不気味なほど怒りも戸惑いも見せなかった。というのも、鉄雄の女好きに妻の八重は散々苦労させられており、そういう事態がいつ起きてもおかしくはないと覚悟をしていた節があるという。だからといっても、その心中は察するに余りある。鉄雄のワンマンぶりは仕事に対してだけでなく、普段から妻の身にも及んでいた。そこへこの仕打ちである。恨むなというほうが無理だろう。
「それで、彼ら、彼女らは現在どうしているのですか」
湖條が関係者の現況を訊いた。
八重は鉄雄の遺産で東京に居住を移し、そこで暮らしている。重い病に罹っており、現在はほとんどの時間をベッドの上で過ごしているという。
妹の銀子は、鉄雄が死んだ数年後に病で他界した。
長男一雄と妻昌子、娘の彩佳は八重とは別に東京に移り住んだ。彩佳は短大を卒業後、現在は海外に留学中だという。
次男の次雄は先ほどの話にもあった通り結婚して、志々村の事業も辞めて誰にも行き先を知らせることなく姿を消した。携帯電話の番号も変えてしまい、現在は音信不通。
使用人佐山と家政婦大谷は、一雄が東京でそのまま家で働かないかと誘ったが、都会の水は合わないと、二人でどこかの地方都市に職を求めて去った。二人も現在は音信不通。
医師の山村と家庭教師の神谷は、鉄雄の死後、逃げるように島を去り、やはり音信不通となってしまった。
「私は、事件のあとは両親の田舎に行って、それ以来ずっと志々村家の人たちとは会っていませんでした。仲の良かった彩佳とも、それ以来一度も……。今は、大学進学を機に東京に出てきて、派遣社員をして働いています。東京に出る際には住居探しなどで八重さんに随分とお世話になったんです。お婆ちゃん――銀子も八重さんに対しては何のわだかまりもなく仲良くしていて、神谷のことを知ってからは同情もしていました。私も孫の彩佳と同じくらいに可愛がってもらっていて……。だから、この仕事を受けたんです。八重さんの最後の頼みなんだって思って。あの家、志々村家は、鉄雄さえいなければ、ごく普通の平和な一族だったんです」
語り終えると妹尾は、深いため息をついて、
「最後に、鉄雄が死んでいた現場の状況をお話します」
鉄雄は裏館の玄関先で、頭を裏館に向けた格好で俯せに倒れていた。表館の裏口から裏館の玄関先まで、降り積もった雪の上にひと筋の足跡がついており、靴底の模様から死亡時に鉄雄が履いていた靴と同じと見て間違いない。周囲に他の足跡は一切なし。鉄雄の死体が発見されたのは朝早くだった。雪は夜半過ぎには止んでいたが、気温は下がり続けていて、積もった雪は表面が固い凍雪のような状態になっていた。そのため足跡もはっきりと見て取れ、素人目にも足跡と鉄雄の靴底の一致は容易に分かったという。ちなみに鉄雄の靴はすでに生産を終了した海外の製品で、島に同じ靴はそれ一足しかなかった。中庭にある噴水の泉の水は氷が張っていた。雪が降っていた時分はまだ水が凍結する気温ではなく、泉に降った雪は水で溶かされていたが、雪が止んでから気温が下がったことで凍ったものと思われる。当然噴水の機能は停止されていた。
凶器とされる刀身を血で真っ赤に染めたナイフは、死体のすぐそばに落ちていた。山村医師の見立てでも、傷口と照合して、このナイフが凶器と見て間違いないという話だった。
鉄雄の背中に付けられた刺し傷は凄惨を極めていた。鉄雄はただナイフで背中を刺されただけではなかった。犯人は鉄雄の背中にナイフを突き立てたあと、何度も抉るようにナイフを動かしたものと思われる。強い恨みによるものなのだろうか。ただ、傷はその一箇所だけで、他に外傷は見当たらなかった。刺した回数も一度だけのようだ。
「以上が、この島で十九年前に起きた、志々村鉄雄殺害事件の状況の全てです」




