病室
ポツポツと雨が降り始めた。乾いたアスファルトに漆黒の水玉模様が広がっていく。私は少し足を早めて、総合病院の自動ドアへ急いだ。
見舞い者として受付を済ませると、エレベータで三階に上がった。アルコールと新品の服のニオイがする廊下をまっすぐを向いて歩いて行く。途中に歩行器を使った老女とすれ違い、互いに会釈を交わした。この老女を見るのは三回目であった。
少し右上の当たりがめくれたシールで名前を示すネームプレートをちょっと見る。なぜだかわからないが、ネームプレートは上の2つと下の一つを空けて、ただ一つ上から3つ目、下から2つ目にはめてあった。自ら戻っていく仕様の引き戸を開くと、廊下よりも濃ゆいアルコール臭と新品の服のニオイがあった。私は、十畳ほどの部屋にポツリと置いてある金属パイプで作られた簡素な患者用ベットの隣に畳んであるパイプ椅子を開いてベットの隣に広げた。
座ると、ギィと金属のこすれる嫌な音を響かせた。持ってきたカステラと私の通勤バッグをベット脇の小さな二段しかない棚の上に置いた。
ベットを見ると、妻が寝ていた。妻は畳三個分程もある大きなガラス窓の方を向いて、つまり、私ではない方向を向いて寝ていた。妻は布団を肩まで被っており、顔は見えない。もしかすると、本当は寝ていなかったかもしれない。
私は通勤バッグから本を取り出し読んだ。ふと、辺りを見渡すと、薄黄色の壁がピカピカにワックスのかけられたリノリウムの床に反射して、なんだかプカリと宙に浮いた気分になった。寂しいなぁと思った。静けさが満ちた部屋には、壁にかけられた丸い時計の秒針の音は少し大きすぎた。寸分の狂いもなく音を立て続けるその時計に時間と共に苛立ちが込み上げてくるのは何度目かわからない。音のある中に音があり、音のない中に音は要らない。
耐えかねた私は、右足の靴で床をゆっくり踏み鳴らし始める。これも何度目だろうか。本を目で追うものの、全く内容の入ってこない。タンタンタンタン。天井は石膏ボードであろうか、思ったより音の響かない部屋に音のある空間を創りだす。段々早くしていくと、部屋は音で満ちてきた。私はほんのわずかの満足を得た。
「うるさい」
妻がボソッと言った。私はピタッと右足の動きを止める。
「ごめん」
妻はガラス窓から外の灰色の雲と、縦方向に視界をかすませる雨をじっと見たままである。雨脚が強くなってきたのであろうか、先ほどまでは聞こえなかった雨の打ち付ける不規則な音が、少しだけ聞こえてくる。
静かな雨音で満たされた部屋で、私は少し居心地の悪くなった。落ち着かない。窓ガラスから外をぼんやり眺めていた視線をふと妻の背中に落とす。布団をかぶっていても分かる女に特有の曲線を見る。そう言えば、長らく妻の裸を見ていないものだと思った。
かすかに残った記憶で埋め合わされた妻のむき出しの背中は、いかにも生き物を思わせて、とても美しいものであった。汗と湿気で湿り気を帯びた髪の毛が枕に張り付いている。布団の先からひょっこり顔を出す妻の足の親指は白くハリのある綺麗なものであった。妻は女であった。
私は今働いている。家事も自分で行い、朝早くに出勤をして、なるべく早く退社し、妻の元に向かっている。妻はただベットで一日横になっている。この生活に私は充足感を覚えていた。私は妻のために働き、妻のために歩き、妻のために朝起きることができた。私の生活、人生は妻のためにあることができた。
妻は私が居ないと生きていけない。妻は私に生かされている。私の中のそういった妻をものとして所有しているかのような感覚が私の本能的な満足をくすぐった。女と男が互いに助けあう。そういった曖昧でヒエラルキーの欠如した関係よりも、女を男が養うという明確な主従関係、所有関係にある方が何倍も気持ちが良かった。
「手」
妻がつぶやいた。ガラス窓の方向を向いたまま妻は布団の下から、少しだけ右の細い指の先を出した。私は本を棚の上のカステラの横に閉じて置いて、左手で妻の手を布団の中で軽く握った。
「冷たい」
「お前の手が温かいだけだ」
布団の中にずっと入っていた妻の手は、まだ少しだけ外の寒さを蓄えている私の手を温めた。布団の中は妻のおかげで、暖かで湿っぽかった。元来、汗かきの私は妻と握った左手に早くも手汗がにじみ出てきた。湿っぽい布団の中で奇妙に乾燥していた妻の手には調度良いだろうと思った。
「病状はどうなのだ」
「変わりない」
妻はつまらなそうに答えた。私は特に返事が考えつかなかった。私はちょっとだけ手を強く握ってみた。妻の手は思ったよりも小さかった。いつも、思ったよりちいさい。皮と肉の下の複雑に入り組んだ妻の手の骨たちを感じた。
妻は病気から治るのだろうか。私はふと考えた。いや、ずっと考えていることをもう一度表層にまで押し上げたというべきだろうか。妻は「変わりない」病状をずっと続けていた。
建前上と言うのだろうか。私は妻に治ってほしいと思っていた。同時に、治らないで欲しいとも思っていた。今の生活の充足感から本能は抜け出したがらなかった。このまま、妻にはずっと病床で寝転がっていて欲しいと思っていた。こういった、本能による不純と思われる欲望に対して、それを押し殺すことまではせずとも、多少の罪悪感と代わりのハリボテの欲望を理性が創りだしていた。
妻に死んでほしくは無かった。これは理性も本能も両手を挙げて賛成であった。妻には死んでほしくない。だけども、病気が治ってほしくもない。それが私の本能の欲望であった。
「変わりない」妻の病状は、確実に悪い方向に向かっているのであった。「変わりない」のはその速度であった。しかし、そのスピードはとてもゆっくりであり、妻の「変わりない」には、前日と比べて本当に病状が変わっていないという意味でもあるらしかった。
それでも、どうやらこのままの病状が続いていくといつか死ぬらしいことはなんとなく分かっていた。それは、妻も私も分かっていた。治らねば死ぬ。その中で治らずに死なない道を求める私の本能はやりきれない矛盾の道をただ拡張し続けることでその場を乗り切ろうと必死であった。それもまた不可能な試みであることは、なんとなく私も分かっていた。本能とは呪いであった。
「昨日、私は夢を見たの」
妻は久しぶりに私の方を見た。手は繋いだままである。いつ、いかようにしているのか知れぬが、私が病室に来るときにはいつも妻はしっかりと化粧をしていた。
「夢をね。見たの。久しぶりよ」
一度だけスッと私と目を合わせた妻は、すぐに天井の不規則な凹みが規則的に並んだ防音ボードを見つめた。
「私は、真っ青な小麦畑に居る。風が立っている。こすれあう小麦の葉っぱが、ざわざわうるさいの。太陽は驚くほど眩しくて、輝きすぎている。考えられないほど乾燥していたの。行ったことは無いけれど、夏の地中海という感じだった。そう。そんな感じ。」
「私は一人なの。一人で小麦畑に居たの。雲なんて無かった。そこに線路があるの。真っ直ぐで何処までも長い線路。小麦畑をずうっと通っていた。」
「そこにね。列車がやってくるの。弾丸のような列車よ。すごい速さ。ものすごい音を立てて私の目の前を通るの。でもね。全く終わりが来ないの。列車がずっと続いているのよ。永遠に。」
「私は怖かった。とてもね。怖くて怖くて仕方が無かった。それに私はひとりぼっちだった。だから寂しくもあった。早く電車から離れたかった。でも、動かないの。私は体の動かし方が分からないの。」
「私はずっとその列車を見続けた。不安はドンドン高まっていった。」
「そこでね。あなたが私を抱きしめるの。後ろからね。私は体が動かないからあなただってことは分からないはずなんだけど。抱きしめられた私はすごく安心した。とても暖かくなった。心地いい気分だった。」
「でね。私は列車に乗るの。あなたに抱きしめられて勇気が出たのかもね。あなたは乗らない。私だけで乗るの。変ね。」
「それでも私は嬉しかった。あなたがずっと続く列車をさっきの私のようにずっと眺めてくれる気がしたの。私はひとりぼっちのはずなのにひとりぼっちじゃない気がしていた。この世界にあなたが居たから。」
「そうかい」
なんて嫌な夢だろうか。
なんて美しい夢だろうか。
私は妻の手より自分の手のほうが暖かいことに気づいた。妻はまたガラス窓を見ていた。私もまたガラス窓を見ることにした。
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