静止 5
「お母さん」
つけているだけのテレビをぼんやりと眺めている真由美に、八重子はテーブルでテストの問題を作成しながら返事をした。
「何?」
「私って幸せだよね」
「何言ってんの。この子は」
何を言い出すのやらと苦笑して顔をあげる。
「幸せに育ったものには、他人の痛みはわからないと思う?」
真由美の真剣な声音に、八重子は探るように娘の表情を見やった。
「・・・幸ちゃんがそう言ったの?」
「・・・・・・ん」
ソファーの隅に膝を抱えて丸くなっている真由美は、そのまま視線を落とした。八重子の目にそうした娘の姿は行き場を失った仔猫のように映った。
八重子はここ二三週間ほど真由美が幸也の家へ通っていることを聞いてはいたが、そのことに関して自分からは何も言わなかった。
勘のいい八重子は、直接幸也に会わなくとも真由美の日々の表情から今の幸也の状態をほぼ察していたが、外にも問題を多く抱えて多忙な生活を送っているため、中途半端に口を出すのを控えていたのだ。
八重子は、自分にはやよいのように真由美も幸也もひっくるめて包み込む豊かな度量も、それに費やせる時間もないと思っていた。
実際、問題児と周りから決めつけられてしまった子供たちの相手をしているうえ、部の顧問をしている八重子には、真由美の悩みをゆっくり聞いてやる時間はあまりなかったのだ。
それは真由美の自立心を強める上ではプラスになっていた。真由美は母の立場をよく理解していて、自分の力でできそうなことはなんとか一人で解決してきた。どうしても自分の手に余るときだけしか、八重子に相談したことはなかった。八重子も真由美も、そうした親子の関係に十分満足していた。
八重子はやおら立ち上がってペンを置き、真由美の隣に並んで座った。
「確かに、心の痛みっていうのは、その同じ痛みを味わったことのある人にしかわからないかもしれないわね」
真由美は小首を傾げて八重子の方を見た。
「でも、たとえ同じ傷を負ったとしても、本人以外にはその傷の痛みはわからないのよ」
八重子は真由美の頭を引き寄せ、優しく撫ぜながら続けた。
「つまりね、同じ傷でも人によってこんなのは掠り傷だと思うかもしれないし、また致命傷のように思ってしまう人もいるかもしれないってことよ。誰だって自分の物差しで他人をはかることはできないんだから」
撫ぜていた手を小さくなっている真由美の肩にまわして優しく八重子は言った。
「忘れちゃならないのはね、他人の痛みに鈍感になっちゃダメってことよ。その人の傷の深さがわからないのなら、自分の思う最大限の痛み───それはあんたの持っている物差しで測れる最大限のものよ?そのさらに二倍も三倍も深いのだと思いなさい。実際に同じ痛みを感じることはできなくても、想像することはできるでしょう?彼のために心を痛めてあげることはできるでしょう?」
真由美は深く頷いて小さく
「ありがとう」
とつぶやいた。
やがて八重子がテーブルへ戻ると、母の言葉を記憶に刻み付けるために何度も反芻した。
他人の痛みに鈍感になったらダメ。
同じ痛みを感じることはできなくても、想像することも、一緒に心を痛めてあげることもできる。
真由美はふと窓の外を吹き抜ける風の音に耳を傾けた。
窓一枚を隔てた外の暗い夜の寒さと比較して、家の中に点っている灯りのなんと暖かいことかと、しみじみと感じいった。そして八重子の力強く温かい言葉に、胸の内にも小さな灯りが点ったかのように思い、丸くなって考え込んでいた真由美はいつしか微笑んでいた。