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扉    作者: 楠 秋生
試練
42/55

試練 2

 家に帰った幸也を佳代はにこやかに迎え入れた。


「おかえりなさい、幸也」


 その笑顔に、幸也は固まってしまった。


 昨夜覗き見てしまったあの笑顔。花開くような佳代の笑顔があまりにも眩しすぎて。

 真由美に聞いていたとはいえ、その笑顔が本当に自分に向けられていることに実感がわかない。真由美は幸也の手をきゅっと握った。大丈夫だよ、というように。


「真由美ちゃん、いらっしゃい。・・・ありがとう」


 リビングに入り、並んで座った二人の向かいに腰をおろすと佳代は、表情を固くして身じろぎもしない幸也を真っ直ぐに見つめた。それから一度目を瞑って深呼吸し、ゆっくりと目を開けて静かに言った。


「幸也。今までごめんなさい。・・・酷い母親で、ごめんなさい」


 じんわりと涙が浮かんでいる。それを見た幸也の目にも。


 ああ、もうこれで本当に、幸也は一歩を踏み出せる。


 真由美は胸が熱くなり、二人より先にぽろぽろ涙を零してしまう。そんな真由美を見て佳代は穏やかに微笑む。そしてもう一度幸也に視線をもどし、

「あなたと、やり直したいの。今までの分も。・・・許してはもらえないかもしれないけど」


 幸也が慌ててかぶりを振る。


「恨んで・・」

「恨んでなんかないよ!」


 佳代の言葉をひったくって幸也が叫んだ。


「・・・ありがとう」


 佳代の頬を涙が滑り落ちた。


 そして佳代はゆっくりと幸也に手を伸ばし・・・。


「抱きしめても、いい?」


 そう言って立ち上がり、一歩近づいて。



 そのとき。



 ふいにそれは起こった。


 ひゅっという音とともに、佳代が胸元を押さえて顔を歪ませた。そのまま呼吸がどんどん早くなり・・・。


 ───過呼吸だ!


 真由美は以前、この症状を見たことがあった。部活の合宿で、先輩がなっていた。過度のストレスが原因・・・。


 正確な対処法はわからないながら、おぼろげな記憶を頼りに背中をかかえ佳代に話しかける。


「佳代さん、落ち着いて。ゆっくり。ゆっくり息を吐いて」


 お腹に赤ちゃんがいるのだ。ただ収まるのを待っていられない。


「幸也、救急車呼んで!」


 が、幸也は呆然として動かない。仕方なく真由美は、佳代をそのままにして自分で電話をかけた。



 救急隊員が到着したときには大分落ち着いていたが、念のため診てもらう。


「もう大丈夫ですよ」


 その言葉に安堵した表情をちらと見せたものの、真由美が説明を受けている間も、幸也は石のように動かなかった。


 隊員の説明によると、やっぱり過度の精神的ストレスが原因とのことだった。


「過呼吸の発作は起こってしまったら、止めるのは難しいんですよ。ゆっくり深く息をするようにして、途中息を止めて全部吐ききったりして収まるのを待つしかないんです。大体三十分程度でおさまります。繰り返し発作が起こる場合は、原因を調べ取り除いて起こらないようにするのが一番なので、一度きちんと受診してください。お腹の赤ちゃんには、ストレスにはなるでしょうがそれが原因でどうこうなるということはありません」


 隊員は淡々と説明をして、帰っていった。玄関先まで見送った真由美はリビングに戻りながら考えた。


 ───原因。


 あの時、佳代おばさんは幸也に一歩近づいて。幸也を抱きしめようとしていた。あれが、原因なら・・・


 どうすればいい?


 ドアの前で立ちつくす。


 そういえば、昨日電話で言っていた。幸也が近くに来たら息が止まりそうになるって。


 あれは・・・こういうことを言っていたの?


 佳世おばさんは幸也に触れられないの?


 幸也は・・・抱きしめてもらえない!?


 そっとドアを開けると、佳代はソファーに深く身を横たえたまま、蒼い顔で眼を閉じている。眠ってしまったのかもしれない。幸也は、さっきと全く変わらない格好でソファーの隅で小さくなっていた。


 真由美は幸也の前に膝をつき手を握ると、俯いた彼の顔を下から見上げた。


「・・・ぼくの、せい・・・?」


 掠れた声が、幸也の口から零れた瞬間、眠ってしまったかと思っていた佳代の声が響いた。


「違うわ!!」


 半身を起こして、涙まじりの声で続ける。


「あなたが悪いんじゃない。私が、私が・・・弱いから・・・。こんなはずじゃなかったのに。もう・・・大丈夫だと思ったのに・・・」


 ふらりと立ち上がり、二人に近寄ってくる。


「・・・ごめんなさい」


 言いながらさらに近づいて。


「おばさん、駄目!!」


 真由美は思わず制止してしまう。その声に、佳代と幸也の二人がびくっと躰をうちふるわせて固まる。


「・・・駄目よ。真由美ちゃん、幸也を、ちゃんと抱きしめたいの」


 半泣きの笑顔で、また幸也に手を伸ばそうとする。


 無茶だ。そんなことしたらまた・・・。


 幸也が立ち上がって逃げようとしたのとほぼ同時に、二度目の発作が始まった。


 そのまま幸也はドアへ向かう。


「逃げちゃ駄目!幸也!そこで、待ってて!!」


 真由美の声に、ノブに手をかけたまま幸也は立ち竦んだ。


 静まり返った部屋の中、佳代の息を吸い込む音だけが大きくひびく。真由美は佳代の背を擦りながら何度も

「ゆっくり吐いて。止めて」

 と繰り返した。


 発作は一回目より短く、20分ほどでおさまった。真由美はほーっと一息ついて、ぐったりしている佳代をソファに寝かせる。


 かちゃり


 ドアの開く音に振り返ると、幸也が出ていこうとしている。


「幸也!」


 真由美が声を出すより早く、佳代が叫んだ。


「・・・行かないで!・・・大丈夫だから。お母さんは、平気だから。お願い、行かないで」


 幸也が振り返ると、涙を目にいっぱいためた佳代が胸元に手をあてて、ひとことひとこと呼吸を整えながら言っている。


「幸也、お茶をいれてくれる?おばさんと話するから」


 真由美の眼を見、それから佳代に視線をうつして。


「わかった」

 と小さく呟くと幸也は踵を返し、キッチンへ向かった。




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