夜明 1
幸也は、真由美の口から語られる真実を、信じられない面持ちで聞いていた。荒唐無稽なファンタジーの方が、まだ想像できるだけに信じられるくらいだ。
お母さんが僕を待ってる・・・?そんな馬鹿な!あの笑顔も、僕のためのものだって!?そんなことがあるだろうか!
「信じられないかもしれないけど、本当だよ。あたしだって、佳代おばさんのあんな綺麗な笑顔を見たのは初めてだよ。でも、『今までずっと怖がって逃げてきたけど、───怖いのは今でも同じだけど、幸也を愛したい気持ちの方が、今は大きくなったんだ』ってはっきり言ってたよ」
「・・・ほんとに?」
聞き返す言葉が掠れる。
「ほんとにお母さんが・・・?」
真由美が嘘をつくはずなどないとは思いながらも、すぐには信じられない。震える声で訊く幸也に、真由美は最高の笑顔で応え、幸也の瞳に残る涙を指でそっと拭ってやる。そして呆然としている幸也をふんわり抱きしめて囁く。
「ほんとのほんとだよ」
・・・暖かい。体中の力が抜けていく。今まで知らないうちに体に力が入っていたのだ。その力が、ゆっくりと抜けていくのがはっきりとわかる。真由美にもそれが伝わったのか、そっと体を離してもう一度幸也の顔を真っ直ぐに見てその表情を確認し、顔を綻ばせる。
「幸也。・・・夜が明けてきたよ」
南側の窓に背を向けて座っていた幸也は、真由美に言われて後ろを振り返った。
白々明けの薄青い空の色。
「日の出を見に行こう!」
唐突に言い出した真由美は、ぽんっと幸也の肩を叩いて勢いよくベッドから飛び降りると、幸也の返事を待ちもしないで部屋を飛び出していった。呆気にとられた幸也が慌ててベッドから降りると、あっという間に服に着替えた真由美がドアを開けて戻ってきた。手には幸也の服を持っている。
「はい。幸也も早く着替えて」
言いながら幸也の着ているパジャマをするすると脱がせてしまい、次に幸也の着る服を順番にぱっぱっと手渡していく。幸也はそのテンポにつられて考える間もないうちに着替え終わってしまった。
「さあ、行こう」
外へ出ると、日のまだ昇らない空気は身を切るように冷たい。思わずぶるっと震えた幸也を見て、真由美は幸也の首にひっかけただけになっていたマフラーを、くるくるっと二重に巻きつけて器用に結んだ。
「走ったらすぐにあったかくなっていらなくなるよ」
そう言って幸也の前を走り出した。幸也も慌ててその後を追いかける。幸也がついてきているかどうか確かめるために振り返った真由美は、ちゃんとついてきている幸也を見てにっこり笑った。
しばらくすると真由美の言った通り体が暖まってきた。幸也の頬が赤くなってきているのを見て立ち止まると、
「もういらないよね」
と言うと、するりとマフラーをほどいてはずした。熱くなっていた首もとにひやりとした冷気が心地よい。
「上着も脱いで」
言われるままに脱ぐと、汗ばんだ背中がぞくりとして震えが走る。そんなつもりはないのに心細そうな顔にでも見えたのだろうか、そんな幸也をみて真由美はふっと笑顔になり背中を軽くたたく。
「大丈夫、すぐまたあったまるよ。・・・行くよ」
幸也のマフラーと上着を片手に持って、また前を走りだす。
幸也がついて来れるようにゆっくり走ってくれているが、普段から体育以外運動をしていない幸也は、走り続けているうちにだんだん息があがってきた。真由美は部活で走りこんでいるからか、全く息が乱れていない。
時々ちらりと幸也の様子を見るが、まだ大丈夫と判断するのかペースを落とさず走り続けるので、幸也は頑張ってついていくしかない。けれど、道が次第に上り坂になっていてだんだん足が前に出なくなってきた。
前を走る真由美は振り返って幸也を見、さらにペースを落としてくれるが、止まってはくれない。
裏山の散策路の入り口までくると、やっと立ち止まってくれた真由美に安堵する。
「これからしごきがいがあるなぁ」
はぁはぁと肩で息をする幸也が、躰を折り曲げて膝に手をついて息を整えていると、頭上からなんだか楽しそうな声が降ってきた。顔をあげるといたずらっぽい瞳の真由美がにっと嗤った。いつもと違う真由美の笑い方に違和感を覚えるが、
「ここからは歩こうか」
と言うと真由美がさっさと歩き始めたので慌ててついていく。
山の上へと続く小道は足場が悪く、足元をしっかり見ていないと躓きそうになる。かさかさと音を立てる落ち葉を踏み締めてしばらく歩く。
ふいに小鳥が頭上の高い梢の上でチチチッと鳴く声が聞こえた。
耳を澄ましてみると、聞こえてくるのは小鳥の囀りと羽音、それから二人の足元の枯れ葉の音。いつもはおしゃべりな真由美も、早朝の静かな世界の中、今は何も言わず歩いている。幸也と同じように耳を澄ませているのだろうか。ゆっくり歩く後姿を見ながらそんなことを考えていると、
「朝の山って気持ちいいでしょう」
深呼吸する真由美を見て、幸也も真似をする。
清々しい空気が胸いっぱいに入ってくる。
「最後にここを登るの」
さらにもう少し歩いてから、立ち止まった真由美は小道の脇に少し入っていき、岩だらけの急な斜面を指さした。両手を使わないと登れそうにない。真由美は手に持っていた服とマフラーを幸也に着せかける。ちょうど汗がひいてきて、肌寒くなっていたところだ。
「あともうちょっとだから、頑張って。・・・ここ、登れるよね?」
幸也の自尊心をくすぐるような言い方をした真由美は、またさっきと同じようににっと嗤って先に岩場を登り始めた。
幸也も慌ててついていく。
まず、両手をひっかけるところを見つけ、次に足を置くところを探す。それから、片手片足を順番に動かして、少しずつ上へと登っていく。登りきって少し広いところに出ると、すぐまた次の岩が目の前に迫っている。それを何度か繰り返しているうちに、コツを覚えてはじめよりすいすい登れるようになったが、手の届く範囲にちょうどよい窪みも突起もなく、足をかける場所もないところにきてしまったとき、はたと動きが止まってしまった。
上方に目をやると、真由美は先の方を登っている。幸也はもう一度手足をかけるところを探してみたが、窪みが浅すぎてひっかからなかったり、砂が多くて滑りやすかったりで、自分では登れそうもない。
幸也は一人でさっさと登っていく真由美の後姿を恨めしそうに睨みつけ、もうずいぶん使ったことのない能力を使って、その場所を一気に登ってしまおうかと考えた。
すると、幸也がまさにそれを使おうとした瞬間に、まるでそれがわかったかのようなタイミングで真由美が振り返った。
「幸也!!」
思わずびくっと躰を縮こめて目を閉じる。
叱り声が飛んでくると思って身を竦めて待ったが、真由美は何も言わない。そろそろと目をあげてみると、先を行っていたはずの真由美は幸也のすぐ上のところまで降りてきていた。
「・・・手を貸してほしいときは、呼べばいいんだよ。自分一人でどうにもならないときは、人に頼ったらいいんだから。・・・ほら」
右手を差し出す真由美に素直に頷き、彼女の手を握ると、ぐいっと引き上げてくれた。そこからは比較的楽に登れて、だんだん斜度がゆるくなって手を使わなくてもよくなってきた。
「幸也。・・・ほら!」
ごつごつした岩に足をとられないように、足元ばかり見ていた幸也が真由美の言葉に顔をあげると、急に視界の開けているところに出ていて。
─── 一面が空みたいだ。
真由美の指差す方向の山際はその中でも一際明るく、今にも太陽が顔を覗かせそうだ。
大きく深呼吸すると冷たい空気が胸の奥深く入ってくる。
澄みきった朝の空気の中で、山際の雲は鮮やかに染め上げられ、刻一刻とその色を変えていく。




