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扉    作者: 楠 秋生
羽化
16/55

羽化 1

 意外な客に真由美はびっくりした。


 佳代である。

 真由美の記憶にある限りでは、佳代がこの家を訪ねてきたのは、幸也から逃げてきたあの日以来一度だけ。やよいのお葬式の時だけだ。

 訝りながらも佳代を居間へ通してお茶を出すと、間もなく八重子も帰ってきた。


「あら、珍しいお客様ね」

「ご無沙汰しております。遅い時間に突然すみません。あの・・・ご相談したいことがあって・・・こんなときばかり申し訳ないのですけど」


 八重子のちょっと驚いた様子を見て、佳代は本当に申し訳なさそうに小さくなって言った。


「遠慮なんてしなくていいのよ。頼られるのって大好きなんだから。血、かしらね」


 片手をぷらぷらさせて微笑みながらいうと、佳代と斜向はすむかいのソファに腰を下ろした。


「私にもお茶を淹れてくれる?」


 八重子の言葉に真由美はほっとして台所へ引っこんだ。

 真由美は佳代が苦手だった。病人のように白い肌と暗い深淵な闇を覗きこんでいるようなどこか虚ろな瞳は、不気味にすら思えた。


 できれば顔をあわせていたくはない。幸也を訪ねて行くときも、いつも台所にいるだろう佳代に声だけで挨拶し、そのまま二階の幸也の部屋に入っていた。無作法だとは思うが、佳代の方も出てこようとはしなかったのであまり気に留めてはいなかった。


 そういえば。


 まだおばあちゃんのいた頃、幸也が二三か月に一度家に帰るときにはいつも幸也に引っついていっては一緒に食事をしていた。あのときは三人で食卓を囲んでいた。会話は───ほとんどなかったけれど。

 時折真由美が幸也に話しかけ、それに幸也が相槌を打つだけ。静かな、とても静かな食卓。何かの拍子に幸也がひょいと顔をあげたり身じろぎしたりすると、佳代の身体にさっと緊張が走るのがわかる。真由美はそんな食事の時間が大嫌いだった。


「おばさん、やめてよ!また幸也が泣いちゃうじゃない!」


 そう真由美は言いたかった。何度も何度もそんなことがあった。でも、それは結局口に出されることはなかった。


 そうして、真由美の家に戻ってきた幸也はやよいの顔をみて泣き出すのだ。あの家では決して流さない涙。抑え込まれた幸也の気持ち。一緒についていってあげていてもなんにもできない自分。切ない思いを抱えて眠りにつく夜。


 だけどそんな夜は必ず夜明け前になると、真由美のベッドに幸也は潜りこんできた。自分の部屋で寝つけずにやよいと寝るのに。幸也が何を思ってやってくるのかはわからなかったが、守ってあげられなかった幸也が自分に甘えてきてくれることが嬉しくて、幸也を抱きしめてもう一度眠りについた。



 お茶を持ってリビングのドアを開けると、俯いていた佳代が顔をあげ弱々しい瞳で真由美を見た。視線に気づかないふりをしてお茶を出すと、真由美は席をはずそうとそっと立ち上がりかけた。


「あ、真由美ちゃんにも聞いてほしいんです。・・・しんどいようなら無理にとは言えませんが」


 真由美の顔にさっと緊張が走った。八重子を見ると、頷いて自分の隣を指し示す。

 真由美は仕方なく席につき、佳代の口元に神経を注いだ。


 あたしにも聞いてほしい話?


 しばらく沈黙が続く。八重子と真由美が黙って待っていると、佳代は意を決したように顔をあげ、二人の顔を交互に見てゆっくりと言った。


「実は・・・子供ができたみたいなんです」

「まあ!」


 八重子はその意外に驚いて思わず声をあげた。


「それはおめでとう!!」


 にこやかに言う八重子と対照的に、佳代の表情はまるで死刑宣告を言い渡されたかのように暗く沈んでいる。真由美はなんといっていいのかわからない。


「おめでた・・・いんでしょうか」


 佳代は喜んでいいのかどうか迷っているようだ。その憂いを吹き飛ばすように八重子は豪語した。


「おめでたいに決まってるじゃないの!もっと喜ばなくちゃ、生まれてくる子がかわいそうよ。ご主人にはもう伝えたの?」


 小さく首を横に振る。


「病院にはまだ行っていないので。はっきりしてからと思って。・・・たぶん間違いないと思うんですけど。・・・でも・・・私、怖いんです」


 佳代はテーブルのティーカップからたちのぼる湯気に目を注いだまま、ぽそりと言った。


「怖い?」

「もし、生まれた子がまた幸也のような・・・」

「おばさん!!」

「佳代さん!!」


 真由美と八重子が同時に叫び、佳代はすまなさそうに目を伏せた。


「・・・もう一つ心配なのは、幸也がその子のことをどう思うかなんです。赤ん坊には手がかかります。それを見て、幸也がどう思うか・・・」


 佳代は続けて言った。


「あの子を愛してないわけじゃないんです。愛しく思う気持ちはあるんです」


 真由美は意外な言葉に驚いた。


「ただ、どう接していいのかわからなくて───表情のないあの子の顔を見ていたら、いつかまたあの時のような恐ろしい目に遭うんじゃないかと」


 そんなことしないよ!と抗議しかけて真由美は口を噤んだ。八重子が真由美の膝に手を置いて制止したからだ。


「・・・理屈ではわかっているんです。あの子ももう三才の子供じゃないし、そんなことをしないだけの分別はあるんだって。あの子から表情を取り上げてしまったのは私なんだって。わかっているつもりなんですけど、ふと何がというわけでもなく恐怖が込みあげてきてしまうんです」


 佳代はどうしようもないというように首を振った。


「あの子を不憫に思ってます。これ以上あの子を苦しめるようなことはしたくないんです。赤ん坊が生まれて私がその子にかかりっきりになってしまったら、あの子は今よりもっと・・・」


 寂しくなると言いたかったのか、孤独になると言いたかったのか、佳代はそのまま口を閉ざして項垂れた。


「佳代さん。今話したようなことを、ぎこちなくてもいいから幸ちゃん本人に言ってごらんなさい」


 八重子は幼い子供を諭すような調子で話しかけた。


「怖いと思ってしまうことも事実だけれど、幸ちゃんに触れたい愛したいと思っていることも本心だと、思うままに素直に言ってあげてごらんなさい。分かり合えるはずよ。親子なんだから」


 八重子の言葉に力を得て、佳代は顔をあげた。


「私───」


 佳代は何度も言いかけてはやめ、目を伏せた。その様子を見守って黙って待っていた二人は、やがて意を決したように顔をあげた幸子が、真っ直ぐに二人を見返して一息に話すのを黙って聞いていた。


「私、本当は後悔していたんです。あの時、幸也を手放してしまったことを。勿論これは今だから言えることですけど。あの時に私は自分からあの子を捨てたんです。自分だけが現実から逃げたんです。あの子だってあんな能力ちからを持ちたいと望んで生まれてきたわけじゃないのに、あの子は自分の持つ能力ちからから逃げることはできないのに、私は自分だけ・・・自分だけ、逃げたんです。そんなことに最近になってようやく気づいたんです」


 途中から佳代の眼にうっすらと涙が滲んできていた。真由美は佳代の表情が少しずつ変わってきているのに気づいた。


「よかったわね」


 八重子の慈愛に満ちた瞳と微笑みは、佳代と真由美に生前のやよいを思い出させた。暖かい、心に沁みる微笑み。

 その微笑みに佳代は微かに微笑み返し、それからまだ不安を隠せない面持ちで静かに言った。


「・・・これからでもやり直せるでしょうか。幸也は、一度手を放した母親を許してくれるでしょうか。あの子が私の手を求めているときに私は背をむけてしまっていたのに・・・」

「大丈夫よ。きっと、ね。ただ、今までのわだかまりがあまりにも大きいだけに、すぐにというわけにはいかないでしょうけどね」


 佳代の瞳にだんだん光が宿ってくる。


「それは、覚悟しています。こんなに長い間私が逃げてばかりで、あの子を傷つけ続けていたんですから」

「赤ちゃんができたことも悪く考えるんじゃなく、幸ちゃんと一緒に愛していくべき者が生まれてくるんだと考えればいいでしょう?赤ちゃんとあなたと一対一になるのではなく、幸ちゃんと二人で生まれてくる子を愛してあげたらいいのよ」


 佳代はこの言葉にやっと安心したようににっこりと笑った。何かふっきれたような清らかな笑顔だった。


 真由美はこの眩しいほどの笑顔を見て、今までの暗く冷たい人だという見方を改めた。


 本当はとても純粋な人なのかもしれない。ただ、少し脆くて壊れやすすぎただけで。


「幸せなりと名付けたあの子が、これから少しでも、今までの分も幸せになれるように努力します。真由美ちゃん、手伝ってちょうだいね」


 穏やかな微笑を湛えた佳代は、まるで別人のようだった。


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