蠕動 5
翌日、ノックの音がして開いた扉から顔を覗かせたのは、真由美ではなかった。
幸也はどこかで見たことがあるその顔が誰なのか、すぐにはわからなかった。
「はじめまして、かな」
そう言ってにっと嗤った表情を見て、彼女がいつも真由美の隣で不敵な微笑を湛えている人間だということを思い出した。しかし真由美の友達が何のためにやってきたのか、皆目見当もつかなかった。
真由美が来させたのか?それにしても理由がわからない。二週間ほど前に幸也が暴言を吐いてしまったときならわからなくもないけど、真由美はその後も何事もなかったようにやってきていた。それなのになぜ今頃になって友達を?
疑問に思うことはたくさんあったが真由美以外の人間とこんな風に真正面から対峙するのは初めてだったので、幸也は居心地が悪くなって視線を下ろした。
「マミね、今日学校休んだの」
あかりは唐突に口を開いた。
耳に入った言葉につられて顔をあげると、視線はまっすぐに幸也に注がれている。
幸也の心の中まで見透かそうとするかのような瞳は、強い意思の力をなみなみと湛えていてて、真由美の瞳に似ていると幸也は思った。
「熱を出して寝ているそうよ」
幸也から視線をはずし小さく吐き出すように言ったその言葉に、幸也は耳を疑った。
あの真由美が?
幸也は真由美が熱で寝ている姿を想像しようとしてみたが、どうしてもその姿は形を結ばなかった。
「あの健康優良児のマミがどうして熱なんて出したと思う?」
あかりはついっと足を進め幸也の勉強机の前までいき、椅子をひきだしながら振り返りざまに問いかけた。そしてばすんっと大きく音をたてて椅子に跨るようにして後ろ向きに座り、背もたれに両肘をついて手を組む。その手をそのまま上にあげ顎を乗せると溜息を一つ吐いた。
「放っとこうと思ってたんだけどねぇ。部外者が口を挟むことでもないと思って。でも、もう放っておけなくなっちゃった。あの子、無茶しすぎるから。・・・疲れがたまったんだよ。マミ、毎日ここへ来てたんでしょう?」
ちらりと幸也のほうをみやったあと、視線をそらせて続けた。
「あの子、部活が終わってからここへ来て、家に帰ってからは遅くまで勉強、朝は早朝練習が始まるより前にきて自主トレーニングして・・・。挙句の果てに熱なんて出しちゃって。まったく馬鹿だと思うけど、それがマミなのよね」
あかりの口調に呵責の色がまったくないだけに幸也は、いたたまれない気持ちになった。
「マミは強いでしょう?───なんであの子があんなに強いんだと思う?」
再び幸也に視線を戻したあかりは、幸也の答えを待ってか、少し黙った。普段何事にもあまり関心を示さない幸也が、この問いには珍しく興味を覚えた。知らず、意思を持った瞳であかりを見返す。
「あの子が強いのはね、いつも”誰かのため”を想って動いているからだよ。人間ってね、自分のためでなく誰か他の───自分が大切にしたい人のためだったら、いくらでも強くなれるの」
あかりははっきりと言い切った。そして口調を変えて優しい声でつけたす。
「でもね、あの子もただのか弱い女の子だってこと忘れないであげてほしいの。あの子は全部自分の中に背負いこんでしまうけど、その笑顔の下で人一倍傷ついてるんだよ?ねぇ、幸也くん。マミのこと、嫌いじゃないでしょう?だったら、あの子のために、強くなろうって努力してみない?」
あかりは”あの子のために”というところを特に強調して言った。
けれど幸也は、自分に何かができるとは思わなかった。自分一人のことさえ持て余しているのに、どうして他人のことにまで手を出せるのか。ましてや相手はあの真由美である。自分のどんな手助けを必要とするというのだろう。
「マミは誰にでも優しいよ。だけど、だからといってみんながみんなあの子の優しさに甘えてしまったら、いつかあの子はその重みに耐えられなくなってしまうよ。誰か、あの子を支える側になる人間が必要なの。わかるでしょう?」
幸也を見つめたまま小首を傾げ、組んでいた手をほどいて今度は背もたれの上に組んだ腕をのせた。
「マミはいつも”誰かのために”って思ってるけど、その中であんたが一番割合を占めているんだよ。そのあんたが、マミを支えてあげる側に回ってあげることはできない?ううん、それが無理でもせめてマミの負担を少しでも軽くしてあげられないかな」
真由美の負担を軽くする。・・・どうやって?
「・・・マミにもっと心を開いてあげてよ。前みたいに。・・・それくらいは、できるよね?それだけであの子は幸せな気持ちになれるんだから。マミはいつだってあんたに対して心の扉を開けているよ。ね、勇気を出してみて。───マミのために」
”マミはいつだって心の扉を開けているよ”その言葉が、大きく幸也の心の中に響いた。”マミのために”という言葉にも心はひどく揺れ動かされていた。
まるで、どんな強風にも揺るがない堅い樫の大枝が一瞬にしてしなやかな柳の細枝に変わってしまったかのように、固い殻に閉じ籠っていたはずの幸也の心は大きく揺さぶられたのだ。
あかりは幸也の心に激しい嵐を残して、来た時と同じようにさっさと帰っていった。
あかりの消えた扉を見つめていた幸也は、突然真由美に会いたいという衝動に襲われた。会ってどうしようと思ったわけではなかったが、ただ真由美に何か言わなくてはならないと思ったのだ。
幸也は真由美の家に行ってみようと思いたって立ち上がったが、思い直してもう一度元の場所に座りなおした。
何かを言わなければならないという気持ちは依然としてつきあげてくるのだが、一体何を言えばいいのか見当もつかなかったのだ。
しばらくじっとして、何を言うべきかを考えた。それから、つきあげてくる思いと言うべき言葉の見つからないもどかしさを紛らせるために、立ち上がって狭い部屋の中をぐるぐる歩き回り始めた。




