彼(彼女)の苦悩
二話目
◇彼(彼女)の苦悩
五月蝿いカラスの鳴き声がモーニングコールだった。ガーガーって朝から鳴くなよって思った。
ベッドから起き上がり、うーーんと伸びをする。コキコキって骨が鳴って、気だるさが少し取れていく。
眠り目を擦りながら、いつも通りに居間に行こうとして……
ガンッ
と足の小指が逝った。
「ひああぁぁっ!?」
めっちゃ痛い。
私は下手人を睨みつけた。おいおい、本棚くん、君はどうしてそんなトコに……
……あれ?
思考が停止した。
一瞬、夢を見ているかと思った。まだ自分は夢の中にいるんじゃないかって。
様式美的に、頬をつねってみる。
「いひゃい……」
普通に痛かった。ずっきりと来るぐらいに痛かった。普段、頬をつねらないから加減なんて分かんないし。
私は呆然となった。
朝、起きた場所が身に覚えのない場所だったから。体操服や制服が無造作に散らかり、本棚の中には少年漫画がいっぱいになっている。
極めつけに、サッカーボールとか置いてあるし。
「ここってまさか……。それに私って……」
ぺたぺたと自分の体を触っていく。
昨日までのマシュマロボディーじゃない。うっすらと硬い筋肉が全身を覆い、心なしか視点も高くなってしまっている。
部屋をがさごそと物色し、手鏡をゲット。
そこに映ったのは。
私の想い人、その人だった。
私の恋はありふれていて笑えている。
爽やかな笑顔に似合わず攻撃的なフォワードで活躍していたサッカー部の先輩に憧れてしまったのだ。
風に長めの髪をなびかせながら、グラウンドを切り裂き、相手チームからゴールを奪う。楽しげに仲間とハイタッチする先輩はキラキラしていた。
風見幸仁。
校内人気者ランキングでも上位十人に入る、まごうことなきイケメンだ。
その先輩の爽やかな笑顔が、鏡に映っていた。
「私……かっちょええ」
うん、変態になってしまった。さっきからイケメンなポーズを決めまくっている。そのたびに身悶えしてしまった。
だって、だってだよ?
いつも遠くから見るしかなかった、先輩の顔が目の前にあるんだよ? 私に向けて欲しかった笑顔を独り占めできるんだよ?
「ふふ……勝ち組……」
もう夢でもいい。この状況を楽しむんだ。
「あんた……なにやってんの?」
顔を上げると、見知らぬおばさんが立っていた。状況から察するに、風見くんのママさんである。
「あ、え、これはっ」
「ナルシストも大概にしなさいよ。ご飯出来てるから早くいらっしゃい」
風見くんのママさん(仮)はため息をこぼして、部屋から出ていってしまった。なんだか誤解を招いってしまった気がする、ごめんね、風見くん。
私はご飯をむぐむぐと食べていた。
風見家はご飯派らしい。ちなみに私の家はパン派だ。
「あら、ユキくんが梅干しなんて珍しい」
ママさんは流石である。私の行動を訝しみ、疑いの視線を向けてくる。まぁ、さっきから私がポカしているからかもしれない。
「わ……俺は今日梅干しが食べたい気分だったの……んだっ!」
「そう……すっぱいの嫌いって言っていたのに」
「……うん、疲れてるんだよ、たぶん」
いや、結構おいしいと思うよ。梅干し。風見くんは嫌いなのか。
むしゃむしゃ食べつつ、私は思考を整理する。
とはいえ、整理すべき事案はほとんどないのだけどね。状況が意味不明だし。
朝目覚めたら、片想いの彼に乗り移りましたっ、てへっ。最悪だよ、まったく理解できないんだけど。
まったく検討もつかない、と言えば嘘になる。心当たりはある。荒唐無稽で科学を無視した見解ではあるけれども、たぶん、おそらく、あのサイトが原因だ。それ以外、要因を思いつかないし。
彼の気持ちが分かる?
そりゃ、彼の体に憑依しちゃったら、分かるかもしんないけど、なんか間違ってる。
でも、そこまで焦ってはいない。あのサイトを信じる訳じゃないけど、あそこには「睡眠時間に依存」と書かれていた。
今にしてみれば、それは入れ替わる時間を暗示していたのだろう。
そのうち戻ると分かっていたら気が楽だ。むしろ、この状況を楽しんだほうが、、、
「そういえば今日ってバレンタインデーね。ユキくん、だから鏡見てたのね?」
胃がキュッとなった。
口に入っていたご飯がブハッと放出される。むせながら、慌てて牛乳を飲み下す。
「ちょっ、ユキくん?」
「あぁ、うん、大丈夫だからね。ちょっと、いや、ものすんごく動揺しただけだから」
「えー、気になるー。もしかして好きな人からのチョコとか?」
それは違う。渡すはずだったチョコが、どうなってしまったか。てか、私の身体は? どうなっちゃってるわけ?
「これはまずい。本格的にヤバイ」
「ホントどうしちゃったの? あんた、おかしいわよ?」
心配そうなママさん。でも、構っちゃいられない。慌てて制服に腕を通し、荷物を持つ。ワックスで先輩風の髪を作れば完成だ。
男って化粧とか身支度が楽だね。
「行ってきまーすっ」
いつもより身体のスペックが高いから、ものすんごい快速だ。幸いにして、先輩の家の位置を知っていたから、学校にもたどり着ける。
もしも、私の予感が当たっているとすれば。本当に最悪だけど……私の体の中身が先輩になっちゃってるかもしれない。
もともと起きるのが遅かったから、学校に着いた時間も始業ギリギリだった。いつもとは違う、二年生の階に上がり込み、遠目に知っていた先輩の席へ。
「おっす、風見っ。おまえが遅刻ギリギリなんて珍しいな」
うん、前の席に座っている金髪ツンツンのチャラ男が親しげに話しかけてきた。もちろん、私の知っている人物ではない。
「あんた、だれ?」
「へ? 風見、ひでぇーよ。俺たち親友だろ?」
そのチャラすぎる態度がイラッと来るんだけど。なんで馴れ馴れしいの? キモいんだけど。
「ごめんなさい、生理的に受け付けられません」
「のぉーっ、ひでー、ひどすぎる」
「あ……」
自分の体の事ばっかり気になって、配慮に欠けていた。完全に自分が私だと思って行動してしまった。これじゃあ、酷い人だ。
「よしよし、泣いちゃダメだぞ?」
男子は頭を撫でられると喜ぶって本当だろうか?
「もうダメ……立ち直れそうにない」
私の行動が、金髪くんの心をノックアウトしてしまったらしい。本当にごめん。悪気はなかった。
しくしくと涙をこぼしている金髪くんを尻目に、自分の体を案じた。本当は今すぐにでも確かめに行きたい。
だけど、もう授業は始まっちゃってるし。そっとため息を漏らす。
「次の休み時間でいっか」
急がば回れ、そんな言葉が脳裏を過ぎっていた。
人は見たくない物から目を逸らす。誰にだってある習性だと思う。
人間社会は総じて理不尽だし、まともに請け合っていたら、みんな首吊り自殺に追い込まれてしまう。
私もいろんな物から目を逸らしてきた。たぶん人一倍に。私は傷つきたくなかったから。
ワガママだと笑ってもいい。高校生にもなってガチ泣きそうになるなんて思わなかった。
「風見先輩、……これ受け取ってください」
私の体の安否を確認しようと、廊下に出た瞬間だった。避ける暇さえ無かった。
頬を桜色に染めた女子が、もじもじと私にチョコを差し出してくる。
言うまでもない。
今日はバレンタインデーだ。そして、私はイケメンかつサッカー部のエースだ。モテない要素が見当たらない。
「あぁーっと。うん?」
「う、受け取ってくれないですかぁ?」
わずかに涙が溜まった上目遣い。反則級のあざとさである。私が女じゃなかったら、間違いなく心臓を撃ち抜かれていた。
「受け取るだけね。受け取るだけ」
「うん、ありがとっ」
彼女はタタターっと嬉しそうに去って行った。私はため息混じりの気分だ。
複雑だ。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
「おーう、風見くん。さっそく貰ってんじゃん。いーなぁー、おすそ分けおなしゃす」
金髪くんが立っていた。
「取り敢えず死ね」
「へぶっ、容赦なっ」
金髪くんは貰えてないらしい。だってキモいから仕方ないよね。てか、まじムカつく。
そうやって過ぎていく時間。お昼休みを経て気がついた事実がある。風見ってめっちゃモテる。そりゃ、もう尋常じゃないくらいに。
おそらく本命チョコだってのが、既に十を超えてしまっている。
「ホント、もうチョコはいらない」
主に私の精神がピンチだった。
貰うたびにズキズキと心臓がうずく。顔を赤らめてチョコをくれる女の子たちに、自分を重ね合わでてしまう。
自分もあの中の一人だったはずだ。
選り取り見取りもいいトコ。私より可愛い娘だってスタイルのいい娘だっていた。
私が一番好きな気持ちが強い、なんて陳腐な台詞は言いたくない。恋心は誰にだって平等にあるモノ。否定なんて出来るわけがない。
数あるうちのチョコ一つを手に取る。
オレンジ色のリボンで結ばれた袋には、手が込んでいるチョコレートが入っていた。きっと彼女の想いだって籠っているはず。
そう思うとやりきれなかった。
「……ぜんぜん届いてないのに」
私に渡しても仕方はない。なんだか涙がこぼれそうになった。ひどい罪悪感だ。
「風見くーん。なんか体育館裏に来いって」
またお呼ばれしてる。
嫌な気分だ。行きたくないって断りたい。でも、行かなければ、余計に罪悪感に苛まれる。
「すぐ行く……」
いつしか私の頭の中から、自分の体の安否が抜け落ちてしまっていた。
旧校舎を迂回し、その先にあるのが、いわゆる体育館裏だ。旧校舎は耐震強度がどうたらで建て直しになったけど、体育館は問題が無かったらしい。
だから、新校舎から遠く離れていて、人気もあまりない。告白にはうってつけ。
「あ……風見くん」
セミロングの茶髪を揺らしている少女を、私はよく知っていた。知り過ぎていた。もしかしたら、大親友かもしれない。
「…………由佳?」
うるんだ瞳が私を見つめる。
いっつもかるーい雰囲気だけど、今は全然違う。服装は学校の制服。でも、瞳は大きく見えるし、唇も薄ピンク色に変わっていた。髪の毛だってくるんってカールしてるし。
「あたしの名前……知ってくれてたんだ。嬉しいな」
にっこりと由佳が笑う。
私は今すぐにでも逃げ出したい気分だった。どんな鈍感でも理解できる。このシチュエーションはコクられてしまう、と。
「待って。お願い」
私は嘆願した。
由佳の想いを聞いてしまったら、何かが壊れてしまう気がする。たぶん、二度と修復できないかもしれない。
「……好きです。受け取ってください」
でも、笑顔を咲かせた由佳は言い切ってしまった。共にチョコレートが差し出される。
「……っ…」
由佳の真っ直ぐな想いは、私の鼓膜を揺らし、脳裏にまで響き渡った。ズキズキとした鋭い痛みが走り、じんわりと視界が侵食されていく。
理性とか感情とかがノックダウンされ、最終的に残ったのが、ただの獣じみた本能だけ。
清々しいまでに冷たい声だった。
「無理です。貴方とは付き合えません」
下劣だった。
損得計算をした私は、由佳を切り捨てる選択をした。ここで彼女を蹴落とせば、後で自分にもチャンスが回ってくると。
本当に最低な判断だった。
「あっ、今のは違くて……」
時計の針は常に前へ進んでいく。決して巻き戻る事はない。
「そっか、すいません。先輩」
由佳の瞳には光るモノがあった。
なのに。
感情はいつでも理不尽だ。私のほうが泣いてしまいそうなくらいに、心がズタボロだった。
「由佳っ」
呟きが漏れる。
まだ背中は近い。手を伸ばしたら、届きそうな程に。でも、私はその手を胸に引き戻す。
呼び止めてどうする。
好きだから、付き合ってくれって言うのか。それは間違っていると思う。今日、一日が終わったら、先輩も由佳も困った事はなってしまう。
「どうしろって……どうすればよかったの……」
本当に意味が分からなかった。
どうしようもない。自分は悪くないはずなのに。それなのに自分が許せなかった。
ひどく醜い物に感じてしまった。