彼女の苦悩
◇彼女の苦悩
好きな人に胸の内を伝える。
少女漫画なら、もっともロマンティック、あるいはクライマックスシーンである。
告白の一幕は、きらびやか効果トーンで強調されページをめいいっぱい使って幻想的なタッチで描かれる。
そして大概、告白は成功する。
二人して頬を染めながら、こくりと頷きあう。
ーー付き合おう。僕らならきっと上手くやっていける、と。
だけど……。
私はそれは漫画がフィクションだからだと思う。
たとえばのはなし、努力家で健気だけれども、ちょっぴり地味なお約束のヒロインが、ここ一番の場面でヒーローにフラれたらどうだろう。そんな胸を抉られる陰気な少女漫画なんて、誰が読みたいと思うだろうか。
所詮、少女漫画はフィクションであり、ご都合主義がまかり通る。
読者の心象を害さぬよう、精一杯フィクションで味付けされた恋愛がされているものだ。それはたぶん売れなければ商売あがったりの作家と出版社の宿命なのだろう。
ゆえに、ここ一番のシーンの告白は、成功率100パーセント。
相性バッチリの二人は、付き合いながらも小さな喧嘩を繰り返して二人の関係は確かなものへと変わってゆく。
幕引きの場面では必ず、二人は幸せそうな笑顔なのだ。
かつて熱中していた少女漫画を床に捨ておいて、あたしは、はあと溜息をこぼした。
現実はちがう。
そんな甘っちょろい設計していない。
私は知っている。
たっくん、さなりん、とバカップルをSNS上で展開していた二人が一週間後には、SNS上で「氏ね、あばづれ」「なによ、短小男っ!」と罵り合っていたことを。
私は知っている。
学年一のイケメンと噂される河本君が女子の告白を断ったあと、男友達と一緒に「あんなブッサイクとつきわうわけねえだろ」と笑っていたことを。
現実はかくも残酷で惨たらしいものであると、あたしは短き十数年前の人生で知りすぎていた。
恋愛など、まして告白など、ロマンチックの欠片さえなくただ単純に、男の子の好みに合うか、より即物的には女を欲しいかどうか等という下卑た欲望によって、左右されることになる。
だから、私は異性を極力避けてきた。
間違っても好きならないよう、細心の注意を払ってきたのだ。
人を好きにならなければ、問題は起こらないはずだと、全力で逃げまくってきた。勿論、ときたま、うす甘い感情が心をよぎったこともあった。
それでも、ありえないと断じて想いを振り切り、ここまで有耶無耶にしてきたのである。
なのに。
今更になって又あたしのままならぬ感情が恋の予感にむな騒いでいる。
「バカ野郎」
「勘違いするなっ」
「それは気の迷いにちがいない。正気になるんだ」
あたしの忠実なるアドバイザーこと理性くんは猛烈に異議を唱え、感情さんの主張は徐々に弱りつつある。
これは恋ではない。
これは気の迷いである。
傷つくのが怖い。
あたしはひどく臆病なのだ。
本音をさらして傷つくことを恐れている。
ーー好きだ、と想いを告げた相手に、「おれは好きじゃないんだけど……?」と返されたとき、あたしはたぶん立ち直れない。もう、学校も行けず、不登校になること間違いなしだ。
ーーなら、告白しなければいい。
答えを得なければ、進むこともないけど、退くこともない。
リスクを取らない代わりに、リワードも得られない日常。ドロドロと同じようで退屈な日々を繰り返すことが、あたしにとって一番安定していて気分が落ちつく。
いっそこのまま、淡い感情など、墓場まで持ってゆけばいい。
一時の気の迷いなど灰と一緒に墓石の下に、永久に封印してしまえばいいのだ。
おもむろに顔を上げる。
勉強机の隣に吊りかけられた、カレンダーは二月十二日だと教えてくた。
ーー二月十四日。
世に言うバレンタインなるチョコレート会社の陰謀であるイベントまで、残り二日。
あたしは、早々に答えをだす必要に迫られていた。
世の百戦錬磨の猛獣系女子たちはすでに、手作りチョコレートという甘やかな弾丸を手塩にかけて用意している。
口では義理チョコだよ♡と言いながら、明らかに過剰梱包の手作り本命を男子に撃ちまくり、手頃な男子たちを次々に撃破していくのだ。
あたしはどちらかと言うと、草食傍観系女子。
告白を待ちながらも、自分の魅力だけでは向こうから来てはくれないだろうと何処かで気がついている。
察する大国の日本と言えど、こと恋愛に関しては言ったもん勝ちの雰囲気がある。
「どうしたもんかなあ……」
今年のバレンタインもなあなあで済ませるべきだろうか?
店売りの、友チョコと義理チョコを配ってまわり、手作りの「本命チョコ」は一つもない。
そんな結末で自分を許せるだろうか。
あたしが淡い想いを告げたいと考えている人が今年になったら、猛獣たちの毒牙にかかるともわからないのだ。
猛獣と手をつなぐあの人を見ながら、あたしは耐えることはできるのだろうか。
学校生活を安穏と送れるだろうか。
「……やっぱり」
自分の気持ちを形にするように、そっとつぶやいた。
口からこぼれた言葉は、夕日の差し込む部屋に溶けていく。
「やめておこう」
あたしは矢張り停滞を選んでしまった。
傷つくのが怖かった。たとえあの人が誰かと付き合うことになっても、そのまま遠くで見ているだけでいい。
高望みはしない。
それだけで十分だ。
怖がりすぎて前に進めない、煩わしい自分の性格を呪った日もある。もしかしたら、一生恋とは無縁なのかもしれない。それでもいいや、って思っている自分に気がついて、から恐ろしくなる高校一年の夕下がりだった。
私には中学二年生の弟がいる。
厨ニ病って程じゃないけど、おかしな発言もしばしば。例えば「空から銀髪シスターさん降ってこないかなぁ」って真顔で言ったり。その時は、「どんなボーイミーツガールよ? バカじゃないの?」と鼻で笑った。
――でも。
今にしてみれば。笑えないのかもしれない。私もどこかで思っている。ご都合主義的な展開が、道端に転がっていないかなぁ、って。
たまーに通学途中の曲がり角で「イケメンとぶつからないかなぁ」って妄想してしまう。だいぶ重症になってきているのが、自覚できる。
そんな都合のいい出来事は発生しない。頭では理解している。だけど、キッカケがあれば、思っている自分もいる。
「文香はさぁー、ぶっちゃけ、誰に渡すわけ?」
「……え?」
昼下がりの教室、午前中の授業から開放された生徒たちは、がやがや五月蝿い。弁当の匂いがまじりあって、何とも言えない空気感だ。
「はぁ……聞いてなかったの?」
「えと……ごめん、ちょっと考え事してて」
由佳は呆れた顔をしていた。高校に入学してから茶色に染めた髪を掻きあげ、じろりと私を睨む。
「明日、バレンタインでしょ、誰に渡すのかなってね?」
「あぁ、そっか。バレンタインかぁ」
白々しく苦笑してみせる。もう明日に迫っているというのに、私は未だに答えを出せていない。
「なにそれー。ぜんぜん関心ないみたいに振る舞っちゃって」
「そんな事ないよ。ちゃんと考えてるし」
心外だ、考えすぎて、夜も眠ねないくらいなのに。
「まぁ、教えたくないならいいけどね」
「ぇ?」
由佳はくすくすと笑った。私の鼻の天辺を人差し指でくすぐり、
「授業中も食事中も上の空じゃ、バレバレ」
「んなっ」
由佳は、指先を妖艶に舐め取った。ピンク色の舌でぺろって。
「お鼻にケチャップまで付けちゃってさ。あんたはトナカイさんかってーの」
「ちがっ」
「はいはい、あたしは分かってるからねー」
顔に血が登っていくのが分かる。私の顔はきっとスモモのように紅潮しているだろう。
言われて気がつく。
今の私は異常だ。普段はこんなバカな失敗はしない。頭の中に、バレンタインの六文字がぐるぐると回って、私を惑わせる。
何がなんだか理解できない。まるで脳みそが飽和状態になって、心と体がちぐはぐになったみたい。
「そんな好きなら、コクっちゃえばいいじゃん」
真っ赤になった私を見ながら由佳は半ば呆れたように、笑っていた。
チョコレートを買ってしまった。
デパートで買ったそれなりチョコではなく、コンビニの特設コーナーで買った板チョコだ。
湯煎しながら、形を整えたり、ナッツを加えたり、綺麗な包装紙で飾ったり。そうやって女の子の手作りチョコは、手間暇かけて作られる。値段は安いけど。恋心はプライスレスだし、気にしちゃダメだ。
「買っちゃたし……でも……」
うじうじ悩んでいる。
えいやっ!と気合を入れて買ったつもりだったのに、家に向かって歩く間に気分は沈んでいった。チョコ片手に台所に立っても、やっぱり最後の一歩が踏み出せない。
「姉ちゃん、なにやってんの?」
後ろに弟が立っていた。
いっちょ前に髪の毛をワックスでツンツクさせて色気づいている。厨二のくせに。
「なんでもいいでしょうがっ!」
板チョコを胸に抱え込んだ。弟に隠しても仕方がないのに、バカみたいに顔を赤くして。弟が手元を覗き込む。
「あー、もしかしてチョコ? マジ手作り? うっけるー」
「うっさいっ。血祭りにあげたろうか」
「怖い怖い。俺だったら、姉ちゃんみたいな女と付き合わねーわ」
こっちだって願い下げだよ、弟くん。
五月蝿い弟を台所から追い出し、再びチョコレートへ向かう。
たった一枚の板チョコ。砂糖と油とカカオで構成された脂質むんむんのお菓子。私はこんなお菓子に命運を賭けるわけだ。泣けてくるほど、自信がない。
「形を変えるだけ? いや、ここはブラウニーとか……」
スマホ片手に台所をぐるぐる。
女の子は料理できる、ってのは男子の偏見だ。私みたいに、料理どころかお菓子作りもしない女子だっている。
スマホの広告に「失敗しない、簡単レシピ!」と書いてあっても不安が募る。
もし失敗したら?
これだったたら予備を買っておくんだった、失敗したなぁ、そんな雑念に支配されかける。
いやいや。
ここまで来たら、流石にね。
「フライパンでくるみを炒って……ふむふむ」
三、四十分の格闘を経て、やっとこさブラウニーは形になった。オーブンから出して、さっそく味見したせいで火傷したのはお愛想。
今は冷蔵庫の中で眠っている。袋に入れて、手紙に想いも綴った。
きっと大丈夫、こんだけ想い込めれば。たぶん伝わるはず……
なんて乙女チックな妄想はしない。私はしっかりと現実を見ている。告白の成功率はハーフハーフ。入念な準備を怠ってはいけない。
ベッドに寝転がり、青白いスマホ画面を眺める。「必見、告白の十の秘訣」とか「彼が思わずグッとくる仕草」とか「学校の告白場所おすすめ」とか。
ネットの海には、様々な情報が溢れかえっていた。背反している情報さえあった。素っ気なく渡したほうがいい、気持ちをダイレクトに、少しあざといほうが。
バカらしくなった。
あわあわしてる自分が、むなしい生き物に感じられた。何が悲しくて、こんな必死になっているんだろうって。
「……もう寝よ」
窓を一つずつ消していく。こんなのに私は二時間も使ってしまった。
「ん?」
画面をタップする指が止まる。
「意中の彼の気持ちがわかる、ちょっとしたおまじない?」
画面にはたしかにそう書かれていた。眉をよせて内容を確認する。
ーーーー
バレタイン限定イベント! 運命の神様もきっと微笑んでくるはず。
方法は簡単。この画面を維持したまま手に持ち、寝ればいいだけ。彼の気持ちがよーく分かっちゃいます!!
注 効果の継続時間は睡眠時間に依存します。しっかり寝ないと彼の気持ちが分からないぞ?
ーーーー
「なにこれ……」
思わず笑ってしまった。おまじない、にしても杜撰だ。新手の詐欺だろうか。
「ま、いっか。減るもんでもないし」
占いは嫌いじゃない。なんの根拠もない情報かもしれないけど、人生だって必勝法があるわけじゃない。そこに法則性を求めるのが間違っているのだ。
私はスマホを胸に抱え、意識を闇の中に溶かしていったのだった。
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