〈4〉行き倒れたち②
よろしくお願いします。
サイの迷いはいつもほんの一瞬しか続かない。
いつもならラグがいるせいで、間違いなくこの行き倒れの世話をさせられたことだろう。
現にラグは今、つい目と鼻の先(正確に言うならば、分厚く高い硬石造りの壁を挟んだ向こう側)で同じような行き倒れを世話しているのだ……
サイがラグの巻き添えになることは仕方がないにしても、ラグがいない今、彼に倣う必要はなかった。
しかし、ここで生まれたほんの少しの逡巡は、いつものテンポで足を止める相棒の不在という違和感のためといったほうが良い。
「第一オレぁ、壁ン外の間抜け一人の世話で手いっぱいなんだ」
言い訳のように足元に転がる細身の身体に呼びかけると、混乱する町から散々せしめてきた“病人への見舞品”を背負いなおして、足を踏み出した。
あまり長い間この町の中にいて、例のバカ領主の兵どもにみつかってしまっては、元も子もない。
元来、サイは面倒はあまり好きではないのだから。
しかし、目の前で(それも自分にぶつかって)倒れた人間をほうっておいたとなると、後でバレた時にラグに何を言われるかわからない、というのも本音だ。
別に誰が見ているわけでもないのだが、後々嫌な思いをするよりは、今ほんのちょっと時間を割くほうが楽であろう。
「ったくよお、ほら?大丈夫か??」
倒れた男の隣にしゃがみ込み、軽く身体を揺さぶる。
短いズボンから伸びた長い足や、上半身が肌着だけ、などかなり特異な出で立ちが気にかかる。
この町は商業が盛んな豊かな町であり、襤褸をまとって行き倒れするような町人は一人もいなかった。
「……逃げ出した囚人か……奴隷か?」
それほど多くはないが、この街にも、人権を奪われた奴隷の存在があることをサイは知っている。
自分が生まれ育ってきた記憶の中ではそれは違和感があり過ぎてまるで知らない世界の話のようだが、現実、何度か主人に虐げられている奴隷の姿を目にしたこともあった。一緒にそれを目にした相棒がその主人に闇の制裁を加えに行っていることは知っているし、止めるつもりもない。
「……ほら……まずは、水でも飲め」
水筒の水を口に注ぎ込むが、本来なら、相手の意識があるかどうかわからない状況でのこの処置は、はっきり言って危険極まりない。せめて抱き起こして飲ませればいいのだが……
「うううう……」
しかし、運良く男はかろうじて意識を取り戻し、サイが口に流し込んだ水に気がつき、ゆっくりと嚥下する。どうやらかなり喉が渇いていたらしい、結局サイは水筒の水を全て与えてしまう羽目になった。
「……ほら、ちょっとはマシになったか?」
噎せ込みながら意識を取り戻した男は、うっすらと目を開けて、サイを見つめた。
そして苦し気な呼気のもとに紡いだ言葉が……
「………あなた………くさい………」
「はあああああああああああ!?!?!?!?」
よく考えてみれば、意識をやっと取り戻した病人のうわ言だ。戯言、と切って捨てるのが良識ある大人の判断だっただろう。しかしサイは、男に言われた言葉に、目くじらを立ててしまった。
体臭には、日頃から気を配っている。
ラグに関しては、生まれながらのものなのか、例え数日風呂に入ることができなくても、大して体臭を感じさせないし、それどころかいつもなんだかいい匂いを纏わせている。
しかしサイは普通の男だ。酒も飲むし、毎日風呂に入れる環境でもない。服だって、毎日取り替えられるわけではないし、洗濯だって日頃からこまめに出来る環境ではない。覚えてはいないが、昔の生活の頃のように、汚れた服を自動で洗ってくれる便利な道具があるわけではないのだ。
汗もかけば、それなりの臭いが体臭となるのを自覚していないわけではない。
だから、日頃から自分の体臭には気を配るようにはしている……なのに……
「言うにことかいて、このオレ様が臭い、だと~~!?!?!?」
ラグからも言われたことがないのに、はっきりと見知らぬ、それも行き倒れの男に指摘されて、思わずカッとなってしまった。
「猫の……な、匂い……」
男の口から出てきた単語に、心当たりのあるサイはぎょっとした。
猫のことを……知ってる?
「もしかして、おまえさっきラグに打ちのめされてた兵士か?」
サイのことを猫の捕獲に関する関係者だと知っているのは、数が限られてる。
先ほど自分達を尾けていた兵士がどんな顔をしていたかなど覚えてはいないが、あちらとしてはこちらの顔は覚えていて当然だ。
もしかしてこの行き倒れは、ラグに倒されたあと、別の輩に追い剥ぎ行為にあってこんな格好になってしまったのかもしれない。となると……
逃げるべきか、助けるべきか………
(……少なくともオレのせいじゃね~や……)
打ちのめしたのは、ラグだ、ある意味これは、ラグのせいだ。
逃げよう。三十六計逃げるに如かず、だ。
とはいえ、このまま捨て置くのも心苦しい。サイは仕方なく、自分の上着を脱いだ。
「臭いんなら捨ててくれてもいいけどな。その薄着の状態よりはましだろう」
身体を抱き起こして服に腕を通すと、男はうっすらと目を開けた。
「服、違う、あなたの、口……」
「口が臭いだとぉぉ!!!! 返す返すもさっきから、なんていう恩知らずだ!!」
サイは再び声を上げ、片腕で支えていた男を地面に落とした。
がつん、と地面に落とされながら、男は首をいやいや、と言わんばかりに横に振る。
「匂い、酒……」
「う……」
男の言葉に、これまた心当たりがあるサイは、思わず自分の口を抑えた。
確かに昨夜もしこたま飲んだ。口臭は気にしてはいるが、酒が残ってる体調なのは確かだ。おまけに昨夜はもう使わないだろう、と猫の捕獲に使ったマタタビ酒を飲んでしまった。あれは独特の匂いで、自分でも飲んでいて匂いに負けてしまいそうになる。味は不味くはないのだ、どちらかと言うと上級の酒に近いまろやかさでこくのある味わいは、匂いの強さを凌駕する。
結局、また猫捕獲をしなければいけないので、先ほど新たにもう一瓶購入したのだが。
「おまえ、この匂い嫌いか?」
わざと男の鼻先で、はぁぁっ~~っと胃の中から息を吐き、臭を撒き散らす。
「ううううううううう~~………!!!!」
男はうめき声をあげると、サイを恨めしそうににらみあげた。
「ははっははははは!! おじいちゃん、お口臭ぁぁいってか!?!?」
意趣返しができたサイは、大人気もなく再び男に向かって呼気を吐きかける。
「……や、やめてく、さい……」
サイの上着を着せられた男は、サイの意地悪に顔を顰めて飛び上がった。
……まさしく、飛び上がったのだ。
満身創痍の行き倒れとは思えないその身体能力に、いたずらを仕掛けていたサイは目を見開いた。
飛び上がった男の体は、民家の屋根の高さまで上昇すると、ふっと姿を消す。
おそらくは、屋根の上に上がったのだろう。
「おいおいおいおいおい、なんだ、おまえ!!!!」
並の兵士ではない。サイはうっすらと全身に鳥肌が経つのを感じた。
「ま、待て!!!」
慌てて荷物をつかみあげると、足場を見つけて負けじと屋根の上に駆け上る。
「あ、あれ?」
屋根の上にあがったが、既にそこに、先ほどの男の姿はなかった。
サイだって、結構な身体能力だ。屋根に登るのにそれほど時間がかかったわけではない。
しかし男は、既に影も形も見えなくなっていた。
「……なんなんだ?あいつ………」
サイは首をひねったが、少なくとも行き倒れたまま息を引き取るような玉でないことは把握できた。
「……ほっといても、良かったのかな?」
結局上着を取られてしまうことになったが……
「ま、あれはもう飽きてたからいいんだけど」
負け惜しみを言いつつ、サイは屋根から“壁”に目をやった。
「……そろそろあっちに戻るか……」
もう一人の行き倒れを世話している相棒のところへ。
* * *
「“猫”のこと……知ってる?」
男がうめいた言葉に、ラグは手を止め、腕の中の男の顔をまじまじと見た。
「……あなたから……臭いが、する……猫の……」
男が途切れ途切れにいう言葉に、ラグはぎょっとした。奇しくも壁の向こう側で、同じ頃相棒が同じような行き倒れに同じセリフを言われている、とはもちろん知らない。
「え、マジ!?!? 僕、結構体臭は残らないタイプだから、気にしたことなかったんだけど……臭うって言われたの、初めてだ」
「ね、ねこと……マタタビの、匂い……」
男の言葉に、再びラグはギョッとした。
「……よく、わかったね、僕らがマタタビ酒を使って、猫を捕獲したこと……」
マタタビ酒が猫を捕獲するのに使える、という知識は、サイのものだったのだ。
『昔っから猫にマタタビってのは、黄金タッグだからな』
と、わけのわからないことを言っていたが、実際に“猫”はマタタビ酒に釣られた。
どこでサイがそんな知識を手に入れたのかはわからない。本人もなぜ知っているのかわからない、と言っていたから、記憶を失った昔の知識なのだろう。しかしそれは、他の者には考えもつかない捕獲法だった。だからこそ、再び“猫”を捕獲できるのは、自分たちだけだ、という自信があったのだが……
「……マタタビは……猫の………」
男は何か言いかけて、再びぐったりと首を落としてしまった。
「ちょ、ちょっと、待ってよ、お兄さん!!」
藪の中に放り込んではいさよなら、となるはずだった男だったが、このまま捨て置くわけには行かなくなった。猫の弱点を知っている、とういだけでも、ただの行きずりではないはずだ。
もしかしたら、あの猫のことを知ってる男なのかもしれない。
ということは……単なるやじうまの人間ではない。
ラグはあたりを見回すと、茂みのそばに男を横たえ、壁を見上げた。
「ここで倒れてたってことは、街の中には入ってなかったんだよな……」
この街に猫が捕獲されている、という噂を聞きつけてやってきて、力尽きたのか……
「サイ、どこまで行っちゃったのかなあ……」
傍らですやすやと寝息を立て始めた行き倒れの男を眺めながら、ラグはため息をついた。