〈3〉行き倒れたち①
よろしくお願いします。
「………なんだ、こいつ」
壁の外は、中とは違って静かだった。
兵士たちは未だ、壁の中を右往左往しているし、今日という日は町民たちも町の外へ出ることは禁じられていた。
門からはかなり離れた位置の壁を越えたので、町へ入ろうと門の外に並んでいる行商人たちも、見当らない。
しかし、ただ一人、サイの予想に反して、サイたちが乗り越えた壁の真下に人がいた。
驚いたものの、乗り越えたところは見られてはいないようだ。
「……死んでるんじゃない?」
男が一人、壁の傍に倒れていたのだ。
菫色の変わった髪の色と、こざっぱりとした品のいい服装をした男だった。
「死んでるのか、そうか」
ラグの解釈にサイはにんまりと微笑む。
「なら、服はいらないよな。懐にも何か、生身の人間の役に立ちたがってるものがあるかもしれない」
俯せになって倒れている男を仰向けに返して、サイは意気揚揚と服を脱がせはじめた。
「止めなよ、サイ。追剥ぎなんて僕の趣味じゃない」
ラグが心底嫌な顔をすると、サイはボタンを外す手を止めて顔を挙げた。
「よく言うぜ、生きてる人間からは剥ぎとるくせに」
「行き倒れして死ぬような、手応えのない奴から取ったって、嬉しくもないだろ?」
確かにラグは、山賊や盗賊といった悪党か、腕に覚えのある集団からしか金銭は奪わない。
「だからといって、こいつをこのままにしておいても、他の奴らに群がられるだけだぜ。どうせなら、ちゃんと墓の下に埋めてやりたいだろ?……懐のものや服なんかはその墓代と手間賃だ」
サイの言葉に、ラグは仕方なく同意した。
彼としても、死んだ人間は荒らされないよう墓に埋めてやりたい。
……手間賃を取るのは頂けないが。
「わかったなら、ほら、手伝えよ」
ラグの躊躇いも気にせず、サイは男の財布を引きぬく。
「………っっっう」
思わぬ所から聞こえてきた声に、サイの財布を持つ手が一瞬、止まった。
サイの膝元で、ピクリと動くものがある……男の手だ。
「……いき、てる?」
ラグは男の傍らにしゃがみ、服を脱がされた胸に手を当てた。
……ドクン。
ラグの手の下で、死んだ人間からなら発しえない鼓動が響く。
そして、それに呼応するかのように、男の唇から呼気の微かな音が聞こえる。
「サイ!! この人、生きてるよ」
ラグは慌てて、男の胸に両手を重ねておき、力をこめて何度も強く押す。
昔、旅先で出会った旅人から教わった、蘇生術である。
一定の間隔で手に力をこめ、心臓にきっかけを与えると、弱っていた心の臓はその力に便乗する形で再び動き始めるという。
ラグの額に汗の粒が見え始めた頃、男の心臓は自らの力で動けるほどに回復していた。
「サイ………?」
一段落つくと、ラグはいつのまにか、サイの姿が見えないことに気が付いた。
立ち上がり、サイの姿を探そうとするものの、男がラグの服の裾を掴んだまま、苦しそうに咳を繰り返すので、動くに動けない。
仕方なく男の傍らに寄り添い、ラグは今更ながら、男の容貌をじっくりと見た。
滅多に見ない髪の色だ。
しかし違和感というよりは見事さを感じてしまう。
夜明け前の空の色、野に咲く菫の花のような爽やかな薄紺色だ。
絹のような髪質が、その色の艶やかさをさらに助長し、一層の清潔感を与えている。
顔の大半を覆い尽くしてしまっていたその長い前髪を払うと、そこには男のラグですら見惚れてしまうような白く滑らかな肌と整った顔立ちがあらわれた。
後ろ髪が短く刈り上げられているところを見ると、別に長髪が好みなのでも、髪を切る手間が惜しくて延ばしているのでもないというのが判る。
おそらくはこの美貌……旅先での危険は金品強奪だけには止まらない。
見目の良いものならば男女を問わず山賊の餌食となってしまう。
かくいうサイも、今までに売り飛ばされそうになったことはもちろん、貞操の危機というものを感じたことがある。
この男の前髪もその危機を未然に防ぐための隠し蓑なのであろう。
「……と、いうことは……」
ラグはつまらなさそうに男を見下ろした。
顔を隠さなければ旅も出来ないほど、美形であるといえば聞こえはいいが、つまりは顔を隠さなければ危険なほど、腕に自信のない軟弱者だということ、だ。
そう考えてみると、確かに男の体は線が細く弱々しい。
しなやかで身軽そうに見えるものの、それは戦う為ではなく“逃げる”為に筋肉がついているからといったほうが良い。
「まあ、行き倒れになるような奴だし、な」
ラグは男に欲情する型でもなければ、美形の青年を売り飛ばす当てを知っているわけでもない。
死にかけた人間を放っておくつもりはさらさらないが、その為にサイと別行動になってしまうのはかなりの痛手である。
「どうしようか……」
男の手を振り切ってサイを追いかけるべきか、それとももう少し男の回復を待ち、後からサイに追い付くべきか……
男の呼吸は規則的だ。見た目には眠っているようにしか見えない。
「しょうがないな」
もう十分に蘇生している。これ以上ラグがしてやることもないし、生き返らせてやっただけでも有り難いと思ってもらわなければならない。
とは言っても、これだけの美形をこんな道端に放っておいては、言うまでもない不幸がこの男に降りかかるであろう。
少しの逡巡の後、ラグは男の体を抱えあげた。
驚いたほどにその身は軽かった。筋肉など、ほぼゼロに等しいのだろう。
近くに適当な茂みを見付けるとその中に放りこもうとする。茂みの中ならば、人の目にはつかないだろうから、衰弱した状態でも、追い剥ぎに会うこともないだろう。
このあたりの乱暴さや杜撰さは、ラグもサイと良い勝負だった。
「……ううう」
しかし放りこもうとした瞬間、男は呻き声をあげた。まるでラグの意図を感じ取り、それを阻むようなタイミングだ。
思わず、ラグは手を止め、腕の中の美しい青年を見据えた。
男の口から、息とともに、言葉が漏れる。
よおく耳を澄まして聞かないと、聞こえないような小さな声だ。
ラグは耳を男の口元に寄せた。
「………“猫”……私の……」
* * *
サイは再び、城壁の中に入り込んでいた。
先程と寸分違わぬ乱れぶりに、些か辟易してしまう。
統率者の無能ぶりもここまで来ると、他人事を通り越して苛立ちを感じさせる。
そういう感情をサイに与えたという意味では、この町の領主は滅多に見られぬ貴重な存在といっても良いであろう。
「まったく、ラグのお人好しぶりにも困るよなあ」
ぶつぶつぼやきながら、サイは町の乱れに乗じて酒瓶や水、果実などを物色しては愛用の麻袋に放りこむ。いつもなら止めるラグも今はいないし、町は混乱極まりない。サイは調子に乗ってあちらこちらへと歩き回った。
城壁の外に倒れている愚か者の為に気付け薬を調達してやろうという、当初の殊勝な思い付きが今では口実になってしまっている。
「そうだ。きっとあの男、路銀ももう無いに違いない」
勿論、見ず知らずの男の路銀を調達しなければならない義理など、何処にもない。
しかし今のサイは“ラグに劣らぬ人の良さ”を発揮することに快感を覚えていた。
当のラグが聞いたら、眼を吊り上げて怒りそうなことなのだが……
「この先に、確か使用人を奴隷のように扱う腹黒陰険富豪の屋敷が……」
ふらりと路地から通りに出ようとして、サイは人にぶつかってしまった。
互いにそれほど速度を出していなかったため、サイの方はぶつかっても大してよろめきもしなかったが、向こうはそうもいかなかったらしい。どうと音をたてて倒れてしまった。
「……おい、大丈夫か?しかし、大げさだなあ。そんなに強くぶつかってねえぞ、オレ」
そういいながら、相手を助け起こそうとして、サイは少し、顔を顰めた。
運が悪い。直感的にそう思った。
二人目だ。
目の前に倒れた男は、どうみても健康体ではない。
倒れたのはサイとの接触がきっかけだが、おそらくは放っておいても後少しで倒れるところだったろう。
汚れてくすんでしまった髪、血だらけの手足、上半身は裸で、目の下には黒い隈……今日、サイが出会った二人目の行き倒れ。