↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
PR

彼岸の桜

作者: 中田精子
掲載日:2026/10/11

 よく晴れた心地のよい昼下がり、公園までの小ぢんまりとした通りには黒い点の群れが幾つも蠢いて、なんとも不快だ。黒髪の黄色人種ばかりで狭苦しい日本という国は蟻の巣みたいだと思う。僕たちはひとごみ──文字通り「人のゴミ」の中にいた。僕たちもその「ゴミ」の一部なのがまた癪だった。

 じゃあ、なんで鮨詰め状態のコンビニにいるのかって? それは、柄にもなく、花見をすることになったからだ。

 隣にいる慎一(しんいち)君が買い物カゴに自分用の缶ビールを一本入れたのを僕は見逃さなかった。

「君には、これだよ」

 僕は缶ビールを棚に戻して缶コーラを入れてやった。

「なあ、糸鶴(しづる)さん……俺をまだガキかなんかだと思ってる訳? もう、俺もおっさんだよ……」

「そりゃあ、そうだろ? 酒が母乳なんだからな。少しは乳離れするべきだと思うね」

 僕が嫌味を言うと、慎一君は卑屈そうに苦笑いした。彼はアルコール依存症気味なのだ。

 大体、養子(むすこ)のことを「子供」として扱わない親はいないだろう。慎一君と僕が疑似親子(おやこ)関係になったのは最近の話である。奇妙な話だが、僕らを繋ぎとめたのは一人の人間の存在であった。──あ(・)れ(・)は慎一君の恋人であったし、僕の実子(むすめ)であったし、今は知らない男のもので、誰かの母親であるらしい。僕たちと彼女はもう他人同士なので、よく知らない。

 公園は大きな池を囲んだ構造だ。池には複数のボートが浮かび、家族連れやらカップルやらがはしゃいでいる。桜は池に沿って植えられており、その周りに写真を撮る花見客がひしめき合っていた。

 当然だがベンチは満席だった。歩きながら呑むのもよいが、肴が食べづらいのは難点である。僕は肴がなくてもよかったのに、慎一君が焼き鳥なんて買ったからいけない。けれども、地べたで宴会を催して、馬鹿騒ぎをしているような連中の傍で呑むなんてまっぴら御免だった。

 二組のカップルが、背もたれがないタイプの長いベンチに、対角線上で背中合わせに座っていた。カップル同士はベンチの両端に寄り添い合って座っていたため、ギリギリ一人くらいなら座れそうな空間がぽつんと二カ所あった。このようにカップルには等間隔で座る習性があるうえ普通の人間はカップルの邪魔はしないものだからだ。僕が片方のカップルの隣に割り込んで座ると、彼らはいかにも迷惑そうな顔をした。

「おい、君も座れよ」

 振り返りながら、僕はもう片方のカップルの隣の空間を指差した。

「えぇ……でも……」

 僕より図体は大きい癖に、慎一君にはやや気弱なところがある。もちろん、僕も無粋な行為であるのは理解しているのだ。しかし、それがなんだ? 僕の人生に関係のない人間のことにまで興味はない。

「いいから、座れよ。別(・)に(・)隣(・)に(・)座(・)る(・)必(・)要(・)な(・)ん(・)て(・)な(・)い(・)じゃないか」

「まあ、そうですけど……」

 慎一君は僕の発言に同意したが「意味」には寸分遅れて気づいたようだった。

「す、すいません……」

 カップルたちにできる限り遠慮する仕草を見せながら、とうとう観念して慎一君は座った。

 駄目押しで、僕は煙草を吸うことにした。紫煙を肺いっぱいに吸い込み思い切り吐き出すと気持ちがよかった。

 すると、僕の隣のカップルは去っていった。つられるように、慎一君の隣のカップルも去っていった。……勝ったな。晴れて、このベンチは貸し切り状態になった訳だ。

「隣が空いたよ。折角なら、こっちに座りなよ」

「よくないですよ、そういうところ」

 僕は小言を聞き流した。それに、慎一君だって隣に移動してきたのだからいいではないか。

「こっちからの方がよく見えるだろ?」

「三月なのに満開ですね」

 昨今、温暖化のせいもあり、四月にはもう葉桜になっている場合の方が多い気がするが。三月末の今、咲き誇っているだけでも上出来じゃないだろうか?

「新学期にはもう散ってますね、こりゃ」

「……ああ、そうだね」

 そういう話題はあまり聞きたくなかった。仕事のことを思い出してしまった。長年、僕は大学の講師をしている。別段、仕事自体は嫌いではないが、生徒との向き合い方が面倒なのだ。どうせ、つまらない講義だと思われているに決まっている。しかし、媚びへつらって、面白く講義をする気もなかった。しかも、僕は女生徒に好かれる傾向にあるので、常に結婚指輪をチラつかせ研究室の扉を全開にしておく必要があった。そのうえ、大学側から教授になれだの言われるのも嫌だ。確かに賃金は上がるだろうが、僕にはそんな情熱はない。

「そんなことよりさ、乾杯」

「そうでした、乾杯」

 僕たちが缶の蓋を開けると、炭酸の小気味よい発泡音が鳴った。僕たちは少し冷めた焼き鳥を食べながら、無言で桜を眺めた。いつの間にか、ベンチは僕たちのものだけではなくなっていて、僕と同年代くらいの中年男三人組も座っていた。おやおや、野郎しかいなくなっちゃったよ。むさ苦しいが、花は目の前にあるからいいか。でも、悪くない。ただ何もなく過ぎゆくこの時間は嫌いじゃない。僕の人生は色々あったけど、意外なところに落ち着いたな。

 ──おいおい、待てよ? これは、もしかして。不意に笑みがこぼれて、とうとう僕は声を出して笑っていた。笑い過ぎてベンチから転げ落ちる始末だ。そう、そうだよ! これが、幸せってことじゃないか! 

 ──君が幸せになれる訳ないじゃん。あの夜の、あ(・)の(・)女(・)の幻。あ(・)の(・)女(・)の言葉に一矢報いたとき、僕は笑った。心の底から。

「ちょっと、糸鶴さん! 大丈夫ですか!」

 どうやら、僕の気が違ったと思って、慎一君は心配してくれているらしい。一体何が起きたのか理解ができず、混乱しているはずだ。爆笑しながら地面に引っくり返っている大男をこれまた大男が覗き込みながら大声で話しかけている……という光景は非常に不気味であったに違いない。実際、さっきまで一緒のベンチに座っていた男たちはいなくなっていた。

 あんたの気は狂っている! 初めて慎一君の両親に会ったとき、そう言われた。父親は僕の頬を殴り、母親は泣いていた。こんな両親がいる慎一君が羨ましいと思った。無条件で愛してくれる人間が二人もいるのに、彼は僕一人だけを選んでくれたのだ。僕と一緒に生きることを選んでくれたのだ。結果、罵られ勘当されることになっても。

 本当の家族にならないか、と聞いたとき本当は照れ臭かった。僕しか一緒にいて欲しいと思ってなかったら、とんだ自惚れ屋じゃないか。でも、慎一君が僕に情が湧いてきているのを察していたからこそ言えた、というのはここだけの話だ。そう、僕は自惚れ屋なんだ。

「……いや、大丈夫。なんでもないよ。ただ、人生って可笑しいと思っただけさ」

 怪訝そうな顔をしながら慎一君は僕を起こしてくれた。

「いきなり、すっ転んだら危ないでしょーが。腰やっても知りませんからね」

「僕は君より運動神経がいいんだよ」

「でも、俺の方が若いんですよ」

「よし、ボートに乗ろうか」

「え? 今の流れで?」

「どっちが上手く漕げるか勝負しようよ」

「それ、運動神経関係あるんですかね?」

 ローボートは巨躯の男二人には狭苦しかった。混んでいるためか制限時間内に返却しないと追加で料金が加算されるとのことだった。言い出しっぺの僕から漕ぐことになった。久しぶりだったけど、上手く桜の側まで停めることが出来た。慎一君はスマホで桜の写真を撮っている。ふと、耳を澄ますと、どこからか僕を呼ぶ声がした。


 ──ねえ、やっと気づいたのね。


 ……この声は、まさか。

 対岸で死んだ妻が手を振っていた。遺影写真の姿のままで。麦わら帽子に白いワンピースの少女のままで。


 あなたって、とっても鈍感だわ。今の今まで気づかないなんて。そうよ! これが、幸せってことなの。


 でも、僕は……僕に幸せになる資格なんてないんだよ。君のいない世界で幸せになんてなってはいけないんだよ。幸福は罪だ。この世に生きている限り、僕は罰を受け続けなきゃならない。


 もう、お馬鹿さん! でもね、私。いつでも、あなたを待っていますよ。いつまでも、あなたを待っていますよ。


 そう言うと、彼女は消えた。

「どうかしました?」

 白昼夢というやつだろうか? 余韻に浸っている間もなく、慎一君の声で現実に戻される。刹那の出来事が永遠にすら感じられた。

「綺麗だね、桜」

「なんですか、今更。あ、でも確かに。池の方から見ると、すごいよな……」

 何事もなかったかのように、中身のない形だけの言葉を紡いで、僕はその場を取り繕った。さっきのことは慎一君には言ってはならない気がした。

「次は俺が漕ぎますよ」

「池の一番奥まで行ってみようか」

「遠(とお)! 延長料金取られないといいけど……」

「まあ、行けるだろ」

「適当かよ!」

 慎一君が漕ぎ始めると、ボートはあさっての方向へ動き出した。桜に近づきすぎて、枝が僕たちの頭や顔を引っ掻いた。でも、漕いでいくうちにボートの動きは安定した。

「これ以上、奥には進めないみたいですね」

 てっきり池のほとりまで行けると思ったけれど、柵で区切られていた。それは、そうか。

「ここまでだな。後は頼んだよ」

「えっ! 交代してくれないんですか」

「僕はもう疲れた」

「俺も疲れましたよ!」

「君は僕より若いんだろ?」

「しょうがねえな……」

 慎一君の頑張りのお陰で、どうにか僕たちは制限時間内に戻ることができた。それを踏まえたうえ、この勝負は引き分けとしよう。

 さあ帰ろうというタイミングで、もう桜は見納めだと気づいた。夕日に照らされた水面と花弁をぼんやり見ていると、妙に感傷的な気分になってしまう。この日この時この一瞬は、二度と戻ることはない。そんなの当たり前のことなのにね。

 ああ、そうか。僕は終わりを寂しいと感じているのか。終焉は終焉であって、それ以外の何でもなかったはずだったのにね。

 帰りたくないような気がしている自分に驚いた。でも、ずっとここにいても仕方がないので、僕たちは公園を後にした。


 帰宅すると、よく見慣れた光景が出迎えた。殺風景だった我が家も慎一君の私物が増えたな。それだけのことが、僕を一時的に日常へ戻してくれた。

「そういや、腹減ってます? 変な時間に飲み食いしたせいか、俺全然減ってなくて」

「今減ってなくても、どうせ夜中減るよ。簡単なものでも作るか」

「糸鶴さんの当番じゃなくないですか?」

「いいから、僕がやるよ。君の料理のレパートリーは炒飯しかないんだから」

 僕は器用貧乏なので大抵のことは上手くできる。料理もその一つだ。野菜とベーコンのコンソメスープを作って、パンをトースターで焼いた。即席の粗末な献立だが、今の僕たちの胃袋には十分だった。

 日常的に食事前の挨拶をするようになったのは何年振りだろうか? こうやって同じ時間を誰かとまた共有することになるなんて思ってもみなかった。

 あ(・)れ(・)──娘との生活は決して良好とは言えなかった。妻は娘を産んで死んだ。それはそれとして、僕は娘が妻に似ることを夢見ていた。しかし、僕の血が半分も入った人間が僕に育てられたところでそのような奇跡が起こるはずもない。しかも、娘が僕に似れば似るほど、あ(・)の(・)女(・)──僕の母そっくりに見えてきたのだ。

 いつか娘も母のような妖婦になるのではないかという恐怖が僕を苛んだ。それは僕が母と同じ淫売である証だと思った。それについては否定しない。

 でも、慎一君は違う。僕と似ているところがないからこそ血の繋がりがないからこそ、僕は彼を愛しているのである。娘の元恋人と娘の父親が本当の家族になるというのは全くもって変な話だ。娘に感謝しなきゃならないのは、慎一君と出会えたことかもしれない。

 他人同士が結ばれて家族になることだけを僕は愛だと信じている。だから、妻のことも愛している。……もう妻と過ごした時間より慎一君と過ごした時間の方が長くなってしまったな。それが悲しくて、嬉しい。

 春めいてきたから、風呂を沸かすとき、湯の温度を一度下げた。浴槽の中で、つい明日のことを考えてしまうのは僕だけだろうか? 明日までに「決行」の方法を入念に調べておこう。場合によっては追加で必要なものを買いに行かないといけないだろう。もしかすると「処理」に一番迷惑がかからなさそうなのは、この風呂場かもしれない。じゃあ、僕は「現場」で鼻歌なんて歌っているのか。なんだか馬鹿馬鹿しくなって一人で笑った。

 風呂から出た後リビングに立ち寄ってみる。慎一君は茶を飲みながらテレビを観ていた。よしよし、禁酒の習慣が根付くのはいいことだ。

「鼻歌なんて珍しいじゃないですか」

 まあ、聞こえるよな。我ながら浮かれ過ぎではないか?

「しかも、なんか笑ってませんでした?」

「ん? ああ、そうだね。今日は楽しかったから」

「俺もです。また機会があれば行きましょ」

「……おやすみ、慎一君」

「はい、おやすみなさい」

 深夜になっても、まだ僕は起きていた。野暮用を終えたので、今は慎一君宛ての長い手紙を書いている。寝室には妻の遺影と骨壺(urne funéraire)がある。

 ──なあ、君にはわからないかもしれないけどさ。僕にはね、僕なりの美学ってものがあるんだよ。それを曲げてまで生きながらえようとは思わないのさ。

 長々と綴った文字の最後に自分の名前を書いた。……『糸井(いとい)糸鶴』と。改めて見ると『糸』が二つも入っていて変な名前だよな。書き終えたら、いい塩梅に眠くなってきた。久々に、デスクから妻の遺品の香水を取り出して、手首につけてみる。やっぱり、この香りは僕には似合わないよ。ベッドに入ると、フリージアの匂いと柔らかな毛布が僕を包み込んだ。全身が重くなってきて、速やかに眠りへと誘われた。夢と現の虚ろな境界で、ぼんやりと考える。さて、明日はどんな日になるだろうか?(終)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。