ある怪物の記憶 ―黄金の血脈・幕間―
『黄金の血脈Ⅰ ベルアマード』と『黄金の血脈Ⅱ ベルフレア』を繋ぐ幕間です。
かつてアマルティアと同じ時代を走った、一人の“怪物”の記憶。
まだ冬の寒さが残っている。
春という言葉を口にするには、風が冷たすぎた。競駆場へ向かう道の脇にはところどころ雪が残り、吐く息も白い。
けれど、駆人にとってはもう新しい一年が始まっている。
リュニークへの道は、この寒さの中から始まる。
俺も昔は、同じような風の中を走っていた。
思い返せば、最初からリュニークを目指していたわけじゃない。田舎で生まれて、ただ走るのが好きだった。前にいる奴を抜けば嬉しかったし、自分より速い奴がいれば、次はどうすれば勝てるのかを考えた。
それだけだった。
人生が変わったのは、地元の小さなレースだ。
観客も少なく、競駆を知っている者でも名前を聞いたことがないような大会だった。そこへ、たまたま関東優英の関係者が来ていた。
レースのあと、声をかけられた。
関東優英へ来ないか、と。
最初は冗談だと思った。
けれど、そこへ行けばもっと強い奴と走れると聞いて、迷う理由がなくなった。
都会へ出た。
何もかもが違った。
ただ、走路の上だけは同じだった。
速い奴がいる。
なら、そいつより速く走ればいい。
そしたら、気づけば俺は同世代の一番前にいた。
レースに出れば勝った。次も勝った。その次も。
いつしか周りは俺を、こう呼ぶようになった。
――怪物。
嫌いじゃなかった。
むしろ、当時の俺はその呼び名を気に入っていたと思う。
誰にも負けない。
自分より強い奴なんていない。
そんなことを本気でそう思っていた。
そんな昔のことを思い出しながら、俺は東都競駆場へ向かっていた。
今日は息子のレースだった。
ベストセンス。
リュニーク初戦、雨月賞。その前哨戦となる雪消雨賞に、あいつは出る。
俺が関東優英へ行けと言ったわけじゃない。
同じ道を歩けとも言っていない。
それなのに、気づけば俺と同じ場所に入り、同じ三つの冠を目指していた。
親の背中というものは、本人が思っているより見られているのかもしれない。
競駆場へ入り、関係者席の奥へ腰を下ろした。
レースまではまだ時間がある。
何となくにターフを眺める。
冬の空に緑の走路、そしてスタンドから聞こえる歓声。
懐かしかった。
あそこで、俺も必死になって走っていた。
自分が一番強いと信じて。
いけすかないキザな奴もいた。
そして――傲慢な女王もいた。
あいつらと走ったリュニーク。
ずいぶん昔の話なのに、思い出せば今でも胸の奥が少し熱くなる。
その時だった。
入口の方が騒がしくなった。
関係者席にざわめきが広がっていく。
何事かと思って振り返り、すぐに理由が分かった。
忘れるわけがない。
アマルティア。
かつての、あの女王がそこにはいた。
現役時代とはずいぶん雰囲気が変わっていた。
昔は立っているだけで人を寄せつけないようなところがあった。誰に何を言われても気にせず、自分が一番強いことを疑いもしない。
今は違う。
表情が柔らかい。
纏っている空気も穏やかになっている。
ただ、周りの騒がしさを鬱陶しそうに見る目だけは昔のままだった。
何故か俺は少し安心した。
人混みを避けるように歩いてきたアマルティアと、目が合った。
一瞬だけ目を丸くして、それから笑う。
「久しぶりね、ハイセンス」
「そっちこそ。引退してから初めてだな」
「そうだったわね」
俺の隣の空席を見る。
「……隣いい?」
「ああ」
腰を下ろしたアマルティアを、改めて見る。
「それにしても、お前は変わったな」
すぐに睨まれた。
「なによ、それ。それはそうでしょ。あたし、これでも二児の母なのよ」
「二児?」
「あら、知らなかったの?」
「もう一人いるのか」
「ええ。今は友達と一緒にレースを見てるはずよ」
その時に見せた顔は、昔の女王からは想像もできないほど普通の母親だった。
「それにしても、まさかあんたの子とうちの子が同世代とはね」
「なんだ。嫌なのか?」
「嫌に決まってるでしょ!」
即答だった。
「あんたの子どもよ? あんたに似て無茶苦茶強いんだから。……自分の子には勝ってほしいじゃない」
思わず笑ってしまった。
「なによ」
「いや。歳を取るのは怖いなと思ってな」
「はあ?」
睨まれた。
そこだけは、本当に昔と変わらない。
やがて雪消雨賞の時間が近づき、出走者たちがターフへ姿を現した。
俺はすぐにベストセンスを見つけた。
歩き方。肩の使い方。
何より、あの目。
勝つことしか考えていない目だ。
隣でアマルティアが声を上げた。
「うわー。なに、あんたの子、あんたにそっくりじゃない!」
「そうか?」
「そっくりよ。あの目のギラギラしてる感じそっくりよ。」
「そう言うお前の子も、目つきはそっくりだろ」
ターフの先にベルアマードがいた。
アマルティアとウインドベルの息子。
顔立ちには母親の面影がある。特に、誰にも譲る気のなさそうな目はよく似ていた。
だがアマルティアは、不満そうに腕を組んだ。
「でも、それくらいよ」
「何が?」
「走り方。癖もそう。あの人そっくり」
ウインドベルか。
そう言われれば、確かにそうだった。
「あたしの走りを教えたかったのに」
「お前の走りか」
笑うと、また睨まれる。
「なによ」
「いや。真似されたら困ると思ってな」
「どういう意味よ」
俺はターフを見た。
一瞬、昔の景色が重なる。
まだ俺が怪物と呼ばれていた頃。
負けることなんて、本気で考えたこともなかった頃。
そして初めて、自分より恐ろしいものに出会った頃。
「だって、あの時のお前は――怪物だったじゃないか」
一瞬の沈黙。
それからアマルティアが吹き出した。
「怪物って……それはあんたでしょ!」
腹を抱えて笑っている。
「世間じゃそうだったな」
怪物。
そう呼ばれていたのは俺だった。
田舎から出てきて、関東優英でも勝ち続けた。
俺自身、その呼び名に相応しいと思っていた。
けれど。
俺にとっての怪物は、別にいた。
雨月賞。
日本クラウン。
錦秋賞。
どれだけ考えても、どれだけ差をつけても、最後には後ろからやってくる。
俺が強くなれば、その先を行く。
あの頃は、本当に嫌だった。
「それぐらい、俺はお前が怖かったんだよ」
口に出してから、自分でも少し驚いた。
現役の頃なら死んでも言わなかった。
アマルティアも笑うのをやめた。
「へぇ。初めて聞いた」
「言うわけないだろ、あの頃に」
「でしょうね」
少しだけ沈黙が流れた。
不思議と居心地は悪くない。
すると、アマルティアが何でもないことのように言った。
「でも、あたしはあんたのこと、ずっと怖かったわよ」
思わず横を見る。
「俺が?」
「そうよ。戦えば戦うほど強くなってたもの。最初に走った時と最後じゃ、全然違った」
アマルティアはターフを眺めたまま、少し目を細める。
「まさに怪物」
それから笑った。
「いつもギリギリだった。だから今でも、あの頃のレースは忘れられないの」
しばらく何も言えなかった。
現役時代のこいつが、そんなことを思っていたとは知らなかった。
いや。
知らなくて当然か。
俺だって怖かったなんて言わなかった。
負けた相手を認めることさえ、自分の弱さのように感じていた。
今だから話せる。
長い時間が経って、俺たちがターフの外に立つようになった今だから。
「ほら」
アマルティアが前を指した。
「始まるわよ」
ファンファーレが響く。
俺たちは同時にターフへ視線を戻した。
ゲートが開いた。
最初に前へ出たのは、ベルアマードだった。
迷いがない。
最初から先頭しか見ていない。
「ああ……」
思わず声が漏れる。
ウインドベルに似ていた。
誰かを見ながら走るのではなく、誰もいない場所へ行こうとする走り。
少し後ろを、ベストセンスが追う。
焦ってはいない。
ベルアマードを視界に入れながら、距離を測っている。
その姿には、嫌になるほど自分が重なった。
最後の直線。
「行きなさい、アマード!」
隣でアマルティアが身を乗り出す。
母親というのは、ああなるものなのか。
そう思った俺も、いつの間にか拳を握っていた。
ベストセンスが動く。
差が縮まる。
ベルアマードの脚が鈍る。
並ぶ。
そして、抜いた。
「行け!」
声が出た。
ベストセンスが先頭でゴールを駆け抜ける。
勝った。
胸の奥が熱くなる。
俺が走ったわけじゃない。
昔の借りを返したわけでもない。
ベストセンスが走り、ベストセンスが勝った。
それだけだ。
それでいい。
なのに、俺の目は勝った息子ではなく、その少し後ろへ向いていた。
ベルアマード。
初めて敗北を知った、そんな顔をしていた。
さっきまで自信に満ちていた目が揺れている。
信じられない、あり得ない。
そんな顔だった。
俺は、あの顔を知っていた。
自分が一番強いと信じていたものを壊された時。
今まで正しいと思っていたものが、通用しなかった時。
昔、俺も同じ顔をしていた。
「お前の子、負けるのは初めてか?」
「?」
アマルティアがこちらを見る。
「ええ。そうよ」
「そうか」
もう一度、ベルアマードを見る。
今日の夜、きっと何度も考える。
なぜ負けた。
どこが悪かった。
自分は本当に強いのか。
苦しいだろう。
腹も立つだろう。
けれど。
それでいい。
俺も負けて、ようやく知った。
自分が怪物ではないことを。
自分より怖い相手がいることを。
そして、その相手がいたからこそ、自分がもっと強くなれたことを。
「なら、ここからだな」
アマルティアは少しだけ目を細めた。
「……だと嬉しいんだけどね」
その声は女王のものではなかった。
ただの母親の声だった。
ターフには勝った息子がいる。
その向こうには、今日初めて負けたアマルティアの息子がいる。
二人はこれから、俺たちも走ったリュニークへ向かっていく。
どうなるのかは分からない。
俺にも。
アマルティアにも。
分かるはずがない。
冬の冷たい風が、競駆場を抜けていった。
ゆっくりと戻ってくる次の世代の駆人たちを見ながら、俺は遠い昔を思い出す。
怪物と呼ばれていた少年が。
初めて、本当の怪物と出会った頃を。
俺たちの物語は、もう終わっている。
それでも、あの日の記憶だけは消えない。
その記憶の先を走るように、子どもたちはこれから自分たちのリュニークへ向かっていく。
今度は、俺たちの続きではなく。
あいつら自身の物語として。
次の物語へ。
9月29日より
『黄金の血脈Ⅱ ベルフレア―親友を追い続けた少女 は、自分の走りを見つける―』
を開始します。
9月29日は、
8:10 第1話「誕生」
12:10 第2話「背中」
20:10 第3話「邂逅」
の3話を公開します。
一番近くにいた親友が、一番遠い背中になった。
次は、ベルフレアの物語です。




