1.枯れ果てた花冠
魂が「記憶を宿す花」として芽吹く世界。
人が命を落とす時、その胸からは生前の想いや無念、そして残された者への切なる遺言を色濃く反映した一輪の花が咲き誇る。
ある者は深紅の薔薇のように激情を遺し、ある者は白い百合のように密やかな愛を咲かせる。
その花に優しく触れ、そこに秘められた言葉なき遺言や記憶を読み解く特別な能力を持つ者を人々は畏怖と敬意を込めて“花読みの聖女”と呼んでいた。
オルテンシア王国の聖女ヴェロニカは、幼少期から第一王子エリオットの婚約者として大切に育てられていた。
白銀の美しい髪とどこか儚げな青い瞳を持つエリオットは誰に対しても気品高く優しく、国の未来を真摯に案じる誠実で温和な王子であった。
彼の隣に寄り添い、静かに微笑むヴェロニカ。
二人の絆は、王宮の誰もが疑いようのないほど固く美しいものに見えた。
ヴェロニカにとってもエリオットは、未来を誓い合った夫であると同時に孤独な聖女としての自分の苦悩や孤独を真に理解してくれる人生の唯一の光であった。
しかし、その穏やかで幸福に満ちあふれていた日々は、ある激しい雨の夜に突如として残酷な形で打ち砕かれることとなる。
第一王子エリオットが自室の豪奢なベッドの上で何者かに刺殺され、二度と目を覚まさない冷たい骸となって発見されたのだ。
凶行の報せを受け、絶望に身を切り裂かれそうになりながら現場へと真っ先に駆けつけたヴェロニカは、息絶えたエリオットの胸元から静かに芽吹いた青い花へと震える手でそっと触れた。
いつもなら、花に触れた瞬間に故人の記憶が脳裏へと溢れ出し、鮮やかな色彩と情景となって流れ込んでくるはずだった。
だが、何ひとつとして伝わってこない。
花の手触りはただただ冷たく硬く、底なしの虚無のような不気味な静寂が彼女の手のひらを刺すだけだった。
「なぜだ……! なぜ聖女でありながら、エリオット殿下の最期の記憶を読み解けぬのだ! お前は何のために今まで王宮の手厚い保護を受けていたのだ!」
エリオットの寝所に鳴り響く悲しみに狂った国王の凄まじい怒号。
大事な愛息を失った失意と疑心暗鬼の刃は、そのまま哀れなヴェロニカへと向けられた。
読憶に失敗したヴェロニカは、王子の死にまつわる何か不都合な真相を不当に隠蔽しようとしたのではないかと真っ先に疑われた。
さらに、最愛の婚約者を失って絶望の底に暮れる彼女へ容赦なく投げかけられたのは、日頃から彼女の存在を快く思っていなかった側近や貴族たちの不条理で陰湿な罵倒の数々だった。
「死者の記憶すら読めぬ役に立たぬ偽りの聖女め!」
「最愛の王子の魂にすら拒絶された呪われた忌み子だ!」
「あいつはただの“死者の花嫁”に過ぎない。もはや王宮に置いておく価値などないわ!」
エリオットの訃報から僅か三日後。
ヴェロニカは長年勤めた聖女としての位とすべての権限を剥奪され、着の身着のままで冷酷にも王宮から追放されたのだった。
猛烈な冷たい雨が王都の冷徹な石畳を容赦なく叩きつける。
行くあてを完全に失い、雨に濡れた薄い衣服が肌に重く張り付くのも構わず、泥にまみれながら街の外れへと彷徨い歩くヴェロニカの意識は、恐怖と疲労で次第に遠のいていった。
エリオットを失った底なしの絶望と世界からすべてを奪われた深い虚無感。
感覚を失っていく冷たくなった指先を見つめながら、彼女は泥の上で重い瞼をそっと閉じた。
(……このまま、誰も知らない雨の底で、静かに枯れてしまえたらどんなに楽でしょう……)
石畳に膝をつき、そのまま倒れ込む直前、頭上を打つ激しい雨音が不自然にピタリと止んだ。
薄開けた視界に飛び込んできたのは漆黒の大傘と、見上げるほど背の高い一人の男の圧倒的なシルエットだった。
重厚な鋼の甲冑の上から雨に濡れた暗い色の旅外套を羽織り、深く被ったフードの影から野獣のように鋭く光る眼光がヴェロニカを見下ろしている。
「こんなところで濡れ鼠か。哀れだな、オルテンシアの元聖女」
男の低く掠れた声には、王宮の貴族たちが使う洗練された口調とは対極にある見たこともない冷徹さと、野性的な泥臭い生気が宿っていた。
彼が外套の隙間を払った瞬間、首元から覗く銀色の紋章がヴェロニカの雨に濡れた瞳に映る。それは隣国、ガルブレイス王国の精鋭騎士章であった。
「あなた、は……」
「俺の名はアルザック。お前の王宮の犬どもが、愛しい婚約者を殺した『暗殺者』と名指しして躍起になって血眼で探している男だ」
世間を激震させた王子暗殺の容疑者。それが、今目の前に立ちはだかる隣国の騎士・アルザックであった。
ヴェロニカの身体からすっと最後の力が抜け、彼女は冷たい雨の匂いと共に深い闇の底へと意識を滑り落とさせていった。
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