フィールド・オブ・トキワ荘、或いはトキワ荘・オブ・ドリームス
つい…
裏庭のジャングル
五十二歳。その数字が、今の谷口修のすべてを規定していた。
白髪の混じり始めた生え際、少しだけ前に出っ張った下腹、何よりも二十年以上勤め上げた中堅印刷会社での「そこそこの役職」という、安定と引き換えに情熱をすべて磨り潰したような平穏な日常。
「……さて、やるか」
修は手にした草刈り機のスターターロープを力任せに引いた。けたたましい2ストロークエンジンの爆音が、初夏の重い空気を切り裂く。
ここは半年前、八十一歳でこの世を去った父・厳が遺した、郊外の古い木造平屋の裏庭だった。生前の父が「ここだけは手を付けるな」と頑なに守り続けていた裏庭は、主を失った途端に牙を剥き、大人の背丈ほどもある雑草や雑木が鬱蒼と生い茂る、さながら緑のジャングルと化していた。
実家の売却手続きを進めるためには、まずこの土地を更地にしなければならない。それが、週末を潰してここにやってきた修の、長男としての「現実的な義務」だった。
ガガガガ、と刃が硬い雑木の根元を削る。飛び散る緑の汁と土の匂いが、修の鼻腔を突いた。
汗が目に入り、修は腕でそれを拭う。ふと、その腕の筋肉の衰えに目が向く。
(俺は一体、何をやっているんだろうな)
若い頃、この手には重い草刈り機ではなく、一本の丸ペンが握られていた。
二十代のすべてを漫画家になるという夢に捧げた。何度も持ち込みをし、新人賞に応募し、最終選考の寸前で落とされ続けた。三十歳を迎えた春、父から「漫画なんて子供の読み物だ。そんなヤクザな商売で生きていけると思うな。もう大人なんだから現実を見ろ」と烈火のごとく怒鳴られ、修はついに折れた。ペンを折り、インクを捨て、普通の就職口を探した。それ以来、父とは死ぬまで、どこか冷え切った、業務連絡だけを交わすような関係のままだった。
「現実を見ろ、か……」
エンジンを止め、修は額の汗を拭った。
数時間の格闘の末、裏庭の雑草はきれいに刈り取られ、見通しの良い四角い更地が姿を現していた。西日が傾き、刈り取られた草の匂いが、夕暮れの湿った霧の中に溶けていく。
その時だった。
更地の中心、夕暮れの深い霧の向こうから、ぽつり、ぽつりと「人影」が浮かび上がってきたのは。
「おや、ずいぶんと綺麗に片付いた場所だね。これなら良い机が置けそうだ」
最初に聞こえたのは、少し高めの、どこか上品で、しかし妙に通る声だった。
修は我が目を疑った。霧の奥から歩み出てきたのは、黒いベレー帽をかぶり、厚いレンズの眼鏡をかけた、小柄な若い男だった。その手には、使い古されたインク瓶と、数枚の原稿用紙が握られている。
「え……?」
修の口から掠れた声が出る。その顔、その風貌。歴史の教科書や、ドキュメンタリー番組で何度も見た、あの姿。
「て、手塚……先生……?」
「おや、僕のことを知っているんですか? ありがたいな。でも、先生だなんて大袈裟ですよ。僕はまだ、ただの漫画好きの若造です」
若い姿の手塚治虫は、二十代前半のみずみずしい笑顔を浮かべ、眼鏡の奥の目を輝かせた。
修の思考は完全に停止した。幻覚か、熱中症の類か。しかし、彼が踏みしめる土の足音は、あまりにもリアルだった。
「おいおい、手塚さん、一人で先に行っちゃずるいよ。ほら、藤本くんも早く!」
「待ってよ、安孫子くん。そんなに急いだら原稿がバラバラになっちゃうよ」
続いて霧の向こうから現れたのは、お揃いのジャケットを着た、二人のこれまた若い男たちだった。一人はシャイそうにベレー帽を傾け、もう一人は人懐っこい笑顔で、大きな風呂敷包みを抱えている。
「藤子……不二雄……?」
修の膝がガタガタと震え始めた。
さらにその後ろから、「シェー!」のポーズを半分崩したような、見るからにお祭り騒ぎが好きそうな若者が、一升瓶を抱えて飛び出してきた。
「なーんだ、ここには美味い酒と、広い机がありそうだ! 素晴らしいのだ!」
赤塚不二夫だった。
彼らの後ろには、石ノ森章太郎、寺田ヒロオの姿まで、ぼんやりと見え隠れしている。
五十二歳のかつて夢を諦めた男の裏庭に現れたのは、昭和の漫画の黄金期を築き上げた、「トキワ荘」の若き神々たちだった。
チューダーの夜
「おい、おっさん! ぼさっとしてないで、その一升瓶の蓋を開けるのを手伝ってくれよ!」
赤塚不二夫が、修の家の居間に勝手に上がり込み、ドカリと座って笑った。
気がつけば、修の古い実家の平屋は、若き天才たちの作業場兼宴会場へと変貌していた。手塚治虫はすでに居間の座卓に陣取り、ものすごい勢いでクロッキー帳にペンを走らせている。藤本(のちのF)と安孫子(のちのA)は、二人で一つの机を挟み、楽しそうに背景の描き方について相談し合っていた。
「あの……皆さんは、どうしてここに?」
修が恐る恐る尋ねると、安孫子が焼酎をサイダーで割りながら言った。
「さあね? 僕たちもよく分からないんだ。ただ、あそこの草むらを抜ければ、新しい漫画のアイデアが湧き出る『広場』があるような気がしてね。そしたら、あんたが綺麗に草を刈って待っていてくれた」
安孫子はそう言って、なみなみと注がれたコップを修に差し出した。
「ほら、僕たちの特製だ。『チューダー』っていうんだよ。これを飲むと、徹夜の原稿も乗り切れるんだ」
修は震える手でコップを受け取り、口にした。安っぽい焼酎のツンとした刺激と、サイダーの甘み。それは紛れもなく、昭和のトキワ荘の住人たちが愛した、伝説の飲み物の味だった。
「それにしても……」
藤本が、修の部屋の隅に置かれた古い書棚に目を留めた。そこには、修が捨てきれずに残していた、近年の現代漫画の単行本が数冊並んでいた。緻密な書き込み、大胆な構図、かつて自分たちの時代には存在しなかった最先端の表現の数々。
「ほう、これは……未来の漫画ですか」
手塚治虫が、猛烈なスピードでその単行本を手に取った。眼鏡の奥の目が、獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝く。ページをめくる音が、室内を支配した。
「なんだ、この作画の密度は! 背景のパースが完璧じゃないか! それにこの変形コマの割り方……! 映画のカメラワークを完全に超越している!」
手塚は興奮のあまり立ち上がり、自分の髪をかきむしった。
「悔しい……! 僕の時代には、こんな表現は思いつかなかった! 線の太さだけでキャラクターの感情を表現するなんて、この作家は天才か!? いや、僕ならもっとこう描く、このコマの後ろにこのカットを入れれば、読者はもっと驚くはずだ!」
巨匠の、いや、若き天才の「圧倒的な嫉妬心」が爆発していた。彼はすぐに自分の原稿用紙に向かい、取り憑かれたように新しいネーム(絵コンテ)を書き始めた。そのペン先からは、火花が散るようなエネルギーが放たれていた。
「あはは、手塚さんは相変わらずだなぁ」
赤塚不二夫がゲラゲラと笑いながら、修の肩を組んだ。
「でおっさん、あんたは何の仕事をしてるんだ? この手のタコ……あんた、昔、漫画を描いてただろ?」
修はビクッとして、自分の右手のひらを見た。中指の付け根にある、消えかけたペン凧。
「……昔の話です。もう二十年も前の。結局、芽が出なくて諦めました。親父にも『漫画なんて子供の読み物だ。現実を見ろ』って怒鳴られて。今じゃ、しがない印刷会社のサラリーマンですよ」
修は自嘲気味に笑い、チューダーを飲み干した。
「五十二ですよ、僕は。今さら漫画なんて、描けるわけがない。体力的にも、感性的にも、若い新人に勝てるはずがないんです。大人の世界はシビアですから。権利だの、アンケートの順位だの、日々の生活だの……」
その時、それまで静かに現代の単行本を読んでいた藤本が、本を閉じ、修をまっすぐに見つめた。
「谷口さん。漫画を描くのに、年齢やルールなんて、本当に壁になりますか?」
藤本の口調はどこまでも穏やかで、丁寧だった。しかし、その奥には静かで揺るぎない確信があった。
「この現代の漫画を読みました。ここには、僕たちが描いてきた『正義』や『情熱』のスピリットが、形を変えて脈々と生きている。困っている人を笑顔にする、ワクワクさせる。時代が変わっても、人間の心の中にある『熱いもの』は変わらないんです」
安孫子も頷き、言葉を繋いだ。
「そうだよ。大人の社会がどれだけ冷たくても、この白い原稿用紙の上だけは、完全に自由んだ。僕と藤本くんが二人で一本のペンを握ったとき、そこにはお金のことなんて一言もなかった。ただ、世界で一番面白い物語を、目の前の相棒に見せたい、それだけだったんだよ」
「そうなのだ!」
赤塚不二夫が修の背中を、バチコーン!と痛烈に叩いた。
「漫画なんてさ、面白ければ、楽しければそれでいいのだ! 綺麗にまとまろうとするなよ! おっさん、あんたの胸の中にも、まだ誰にも見せてない『バカな物語』が眠ってるんじゃないのか?」
手塚治虫がペンを止め、眼鏡をキラリと光らせて修を見た。
「谷口さん。僕たちは、何もないこの白い紙と、一本のペンだけで、世界を変えられると信じて戦っている。あなたは、戦う前から年齢や現実を言い訳にして、負けを認めるんですか?」
若き神々の、純粋で、凶暴なまでの情熱が、居間に満ち満ちていた。
現実の厳しさや、年齢の限界を言い訳にして、安全な場所に逃げ込んでいた五十二歳の修の胸の奥で、二十年前に凍りついたはずの「何か」が、ピシッと音を立ててひび割れた。
「僕だって……」
修の口から、魂の底にある言葉が漏れた。
「僕だって、本当は、死ぬまで描きたかったんだ……!」
「だったら、描きなさい!」
手塚治虫が、新品の原稿用紙と一本の丸ペンを、修の前に突き付けた。
「夜明けまでは、まだ時間がある。僕たちと一緒に、机に齧り付きましょう!」
修は、震える手でペンを握りしめた。二十年ぶりの木軸の感触。インクの匂い。
その夜、五十二歳の男は、トキワ荘の住人たちと共に、徹夜の戦場へと飛び込んだ。
深夜の戦場
ガリガリ、カリカリ。
静まり返った室内に、ペン先が紙を削る音だけが響く。
修は夢中でペンを走らせていた。頭の中に、二十年間押し込めていたキャラクターたちが、恐ろしいほどの鮮明さで蘇っていた。
それは、現実の重みに押し潰されそうになりながらも、心の中の「小さな光」を消さずに戦い続ける、中年の冴えない男がヒーローになる物語だった。まさに、今の自分自身の投影だった。
「おっさん、ここのコマ、キャラクターの視線が左に流れてるよ。次のコマに視線を誘導するために、背景のスピード線を右上がりにしなきゃダメだ!」
赤塚不二夫が、上着を脱ぎ捨てて修の原稿を覗き込む。
「あ、本当だ。修正します!」
「谷口さん、この見開きのベタ(黒塗り)、僕が塗っておきますね」
藤本が優しい手つきで、修の原稿の背景に墨を入れ始める。
「えっ、藤本先生にベタを塗らせるなんて、そんな恐れ多い……!」
「いいから、いいから。今は僕たち、同じ締め切りを追う仲間でしょう?」
安孫子も笑いながら、トーン(網点)のカットを手伝ってくれた。
手塚治虫は、隣の机で自らの新作を描き殴りながらも、修の原稿が進むのをチラチラと見ては、「ふん、なかなか面白い構成じゃないですか。でも、僕なら次のページで度肝を抜いて見せますよ!」と、最後までライバル心を隠そうとしなかった。
その空間には、売れているかどうかも、年齢がいくつかも関係なかった。
ただ、一本のペンで、誰かの心を震わせる物語を作りたいという、純粋な初期衝動だけが渦巻いていた。
修の手首は悲鳴を上げ、目はかすみ、肩は鉄のように重かった。
しかし、これほどまでに「生きている」と実感できた瞬間は、これまでの五十二年の人生の中で、一度もなかった。
深夜三時。修の原稿が、ついに完成した。
全十六ページの、不器用だが、今の谷口修のすべてをぶつけた読み切り漫画。
「できた……」
修がペンを置いたとき、室内をすっと冷たい風が吹き抜けた。
ふと見ると、部屋の明かりが、いつの間にか朝方の淡いブルーへと変わっていた。
「皆さん、できました……って、あれ?」
振り返ると、そこにいたはずの若き天才たちの姿は、どこにもなかった。
座卓の上には、空になった一升瓶と、サイダーの缶。そして、手塚先生が使っていたインク瓶だけが残されていた。
窓の外を見ると、裏庭の更地には、朝靄が深く、白く立ち込めていた。
「夢……だったのか?」
しかし、修の手の中には、確かにインクの乾いたばかりの、十六ページの生原稿が握られていた。そして、指先には、はっきりと黒いインクの汚れが付着していた。
その時、誰もいないはずの裏庭の霧の奥から、ざり、と足音が聞こえた。
朝靄の読者
修は突き動かされるように、原稿を抱えて裏庭へと飛び出した。
朝靄の向こう、刈り取られた草の匂いが満ちる更地の中心に、一つの「人影」が立っていた。
その人影は、ベレー帽もかぶっていなければ、派手なジャケットも着ていなかった。
いつも着ていた、色褪せた作業着。白髪混じりの、気難しい顔。
半年前になくなった、父・厳の、まだ五十代の頃の姿だった。
「親父……?」
修の声が震える。
父親は、腕を組んだまま、不機嫌そうに修を見ていた。その眉間には、生前、修が何度も見て恐怖した、深い、深いしわが刻まれていた。
「相変わらず、そんなくだらないものを握りしめているのか、修」
父の声は、記憶にある通り、低くて厳しかった。
「お前はもう五十二だ。現実を見て、身の丈に合った生き方をしろと、あれほど言ったはずだ」
昔の修なら、ここで目を背け、黙り込んでいただろう。
しかし、今の修の胸には、トキワ荘の神々から分けてもらった、消えない炎が灯っていた。
修は一歩、前に踏み出した。そして、震える手をまっすぐに伸ばし、描き上げたばかりの生原稿を、父親の前に差し出した。
「嫌だ」
修は言った。
「親父。僕はもう五十二歳だ。十分すぎるほど現実を見て、妥協して、安全に生きてきた。でも、やっぱり僕には、これしかなかったんだ。これが、今の僕のすべてだ。頼むから、読んでくれ。僕が描いたんだ」
父親は、差し出された原稿と、修の目を交互に見た。
眉間のしわは、さらに深く刻まれた。
沈黙が、裏庭を支配した。朝靄の中で、二人の息の白さだけが揺れる。
やがて、父親は大きな、無骨な手を伸ばし、修の手から原稿を受け取った。
「……フン」
鼻で短く息を吐き、父親は1ページ目をめくった。
修は、息をすることすら忘れて、父親の顔を見つめていた。
最初の数コマを読んでいる間、父親の顔は硬く、眉間のしわは崩れなかった。
しかし、3ページ目に入ったときだった。
赤塚不二夫直伝の、主人公のオヤジが派手にズッコケるギャグのコマに差し掛かった瞬間、父親の口元が、ピクッと微かに緩んだ。
(あ……)
修の胸が跳ねる。
ページがめくられる。5ページ目。
藤本先生のアドバイスを元に描いた、主人公が孤独に机に向かう、静かだが感情の籠もったコマ。父親は、ふっと目を見開き、食い入るように原稿を見つめた。
8ページ目。物語がクライマックスに向けて加速する。
手塚治虫の嫉妬心をエネルギーに変えて描いた、圧倒的な構図とスピード線。
父親の手が、少しだけ震え始めた。眉間のしわが、いつの間にか、少しずつ、少しずつ、浅くなっていく。
父親の表情は、ページをめくるたびに、コロコロと変わっていった。
怒り、驚き、哀しみ、そして――どこか切ない、愛おしそうな表情へ。
それは、厳格な「父親」の顔ではなかった。
息子の描いた物語に、心を鷲掴みにされている、純粋な「一人の読者」の顔だった。
最後のページをめくり終えたとき、父親の眉間のしわは、完全に消え去っていた。
父親は原稿を閉じ、そっと両手で抱えるように持った。
その目元は、かすかに潤んでいるように見えた。
「親父……」
修が声をかけると、父親はゆっくりと顔を上げた。その顔には、修がこれまで一度も見たことのない、穏やかで、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「……上手くなったな、修」
父親の声は、とても静かだった。
「昔のお前の絵は、もっと下手くそで、何を言いたいのか分からんものばかりだったが。これは……ちゃんとお前の言葉が聞こえる」
父親は原稿を、修の胸元へと優しく戻した。
「もう大人なんだ。お前の人生だ。好きに生きなさい」
その言葉を残して、父親の姿は、光の粒子のように、静かに霧の中へと消えていった。
「――ありがとう、親父」
修の目から、大粒の涙が溢れ、地面の青草を濡らした。二十年分の、いや、五十年の人生のすべての重荷が、その涙と一緒に流れ落ちていくようだった。
大人の決断
太陽が完全に昇り、裏庭の更地を鮮やかな黄金色に染め上げていた。
修は居間に戻り、朝の静寂の中で、一人ぽつんと座っていた。涙はすでに乾いていたが、胸の奥の熱はまだ収まっていない。
手元には、親父が、そしてトキワ荘の神々が認めてくれた16ページの原稿がある。
二十年ぶりに取り戻した、狂おしいほどの情熱。普通の漫画なら、ここで「よし、会社を辞めて、もう一度漫画家として一旗揚げてやる!」と叫ぶところだろう。
だが、修は小さく首を振った。フッと、自嘲気味な、しかしどこか落ち着いた笑みが口元に浮かぶ。
「……そんなわけに、いくかってんだよな」
修は五十二歳だ。明日も、明後日も、生きている限り現実の生活は続く。
住宅ローンはまだ十何年も残っている。大学生の娘の学費の振込もある。印刷会社の部下たちの顔、取引先への義理、積み上げてきた二十年のキャリア。自分が明日いきなり「漫画家になります」と会社を辞めれば、どれほど多くの人に迷惑がかかるか、どれほど生活が破綻するか、その「酸いも甘いも」を、修は痛いほどよく知っていた。
若者なら、すべてを放り投げて突っ走るのが正解かもしれない。
だが、大人の覚悟というのは、そういうものじゃない。
「現実から逃げるために、夢を利用しちゃいけないんだ」
修は立ち上がり、自分のスーツに袖を通した。ネクタイをきっちりと締め、鏡の前で自分の顔を見る。白髪混じりの、どこにでもいるおじさんの顔だ。だが、その目の奥の光だけは、昨日までと全く違っていた。
修は、完成した原稿をカバンの一番奥に、折り目がつかないように大切に仕舞い込んだ。そして、手塚先生が残していったインク瓶をポケットに入れた。
会社を辞める必要はない。社会人を舐めてはいけない。
平日は、これまで通り必死に働き、部下を守り、家族のために金を稼ぐ。印刷会社の営業部長としての谷口修を、120%完璧に全うする。
その代わり――。
平日の夜、22時に帰宅してからの2時間。あるいは、週末の土日のすべて。
かつて酒を飲んでダラダラとテレビを見て潰していたあの時間を、すべて原稿用紙に向ける。
睡眠時間を削り、体力を削り、二足の草鞋を履いて、泥にまみれて戦う。
往生際の悪い、現実としがみつきながら夢を追う「二重生活者」だ。だが、それこそが、52歳の大人が下せる、最も重く、最も誠実な決断だった。
「よし、行くか」
修はカバンを手に取り、玄関の扉を開けた。
初夏の眩しい朝光が、修の全身を包み込む。
満員電車に揺られながら、修はポケットの中のインク瓶に触れていた。
(手塚先生、藤本さん、安孫子くん、赤塚さん。あんたたちが言った通り、僕はもう言い訳をしないよ。大人の現実を全部背負ったまま、やれるところまで、やってみるよ。)
会社に着くと、いつも通りの喧騒が待っていた。部下が焦った顔で駆け寄ってくる。
「谷口部長! A社から仕様変更のクレームが入ってまして……!」
「落ち着け。すぐに俺が先方の担当者と話す。資料を回してくれ」
修はテキパキと指示を出し、いつものようにデスクに向かった。現実の戦場で、彼は完璧なプロの大人として戦い始めた。
だが、そのスケジュール帳の隅には、誰にも見えないように、新しく思いついた漫画のプロットのアイデアが、小さく、しかし力強い筆致でメモされていた。
現実を生きる。そして、夢も殺さない。
誰よりも泥臭く、誰よりも往生際が悪い、オールドルーキーとして今日から始めるのだ。
ハーメルンでサザエさんの二次創作やってます。
新約:サザエさん ってのです。




