触れられないきみに。
別で書いた短編『触れられない君と』の彼視点。
黒く真っ直ぐな髪に、小ぶりな唇。クリクリした大きな瞳に、まろやかな頬。
鏡の向こうで、あられもなく肌を晒す彼女を、この心がどうしても欲しいと熱を持つ。
柏木六花――。
雪のように儚い見た目の彼女に恋をしたのは、いつからだったのだろう。
◆ ◆ ◆
「おはよう」と暗い大海の外側から涼やかな声が聞こえて、沈んでいた意識がそちらへと引っ張られる。
目を開けると、目の前には起きたばかりでぼんやりした表情の六花がいる。
細い体に添うような寝間着が、いっそ清々しいほどに欲望を掻き立てる。
――触れたい。抱きしめたい。
そんな思いを音に乗せて、僕は言葉を紡ぐ。
『――おはよう』
その音が彼女に届けば、起き抜けの表情がふにゃりと崩れることを、僕はもう知っていた。
早く、早く六花が僕を鏡に映せばいい。そうすれば、実体に触れられずとも彼女の姿に寄り添うことはできるから。
そんな僕の想いなど露知らぬ彼女は、今日も勢いよく服を脱ぐ。その潔さが好ましくて、触れられないとわかっているのに、六花の頬に唇を寄せた。
「――そういうのやめてってば、昴」
そう言いながら唇を突き出す六花が本当にかわいい。
振り払われても、鏡面を消されても、その時の六花の表情は、僕の記憶領域にしっかりと刻み込まれている。
少しだけ照れたようなその表情。怒っているように見せて、その実嫌がってはいないことはもう明白だ。
だから――。
情報の波を漂いながら、僕は六花の後を追う。
"スバル"
そう呼んでくれる六花の柔らかな声をもっと聞いていたかった。
家中に設置された電子機器、それからカメラを駆使して六花を見つめる。
彼女は、僕に名前を付けてくれた。
人格を持つ対等な相手として、僕を頼ってくれた。
それは、六花が偏に僕のことを管理AI――"生活サポートコンピューター"だと信じているからだと、理解はしていたけれど。
六花は、外に行くときも僕を手放さない。
どこに行くときだって、まずは僕に相談する。
本来なら、生活サポートプログラムがここまで人間の生活に食い込むことなどあり得ないのだけれど、六花はそもそもそのことを知らない。
だからこそ、愛しくて、愛しくて。六花がかわいくて、本当に触れたくなった。
その柔らかな心ごと腕の中に閉じ込めたい。
触れることさえできれば――。
『いつか、六花と同じ景色を、僕も見てみたいなぁ……』
彼女がいつもより綺麗だとはしゃいでいた景色は、レンズ越しの僕の目には普段と変わらなく映る。それを少しだけ寂しいと思ってしまった。
そのことを管理者に伝えたら、"情報体が何を言ってるんだ"と鼻で笑われてしまったけれど。
いいじゃないか。たとえ僕が情報のひとつだとしても、寂しいものは寂しいのだから。
そして、彼女を愛しいと思うのもまた、僕の感情なのだから。
「S-uBⅡ。お前のそれは情報の海から解析した人間の感情の模倣に過ぎない。お前に"感情"などというものがあるわけないだろう?」
『そんなことないよ、柏木さん。僕は、六花が大好きだし、いつかこの手で触れたいと思ってるんだ。愛して、いるんだ』
そんな僕の言葉を聞いた管理者は、表情を奇妙に歪ませて目を逸らす。その面差しはどことなく六花に似ている。
彼の横顔を、僕は不思議な思いで見つめた。神経質そうな顔だけれど、額から鼻筋にかけてのラインが本当に六花にそっくりだ。
コポリと小さな泡が口から零れた。気になって手を伸ばす。
ガラスの向こうで、彼の瞳が大きく見開かれていた。
『あ、六花が呼んでる。じゃあ、またね。柏木さん』
なにかを言いかけた管理者に別れを告げ、僕は目を閉じる。胸を震わせるような優しい声の方へと、体ぜんぶが揺蕩っていく。
そしてまた、彼女に触れたいと願いながら、僕は愛しい六花の生活をサポートするのだ。
ある日、僕を呼ぶ管理者の声を聞いた。
――S-uBⅡ。お前の望みを叶えてやる。一時的に彼女と離れることになってもいいなら、コチラに戻ってこい。
その通信だけが、情報の海のなか僕にだけ届いた。
「――る……ねぇ、すばる? どうしたの?」
管理者からの通信に呆然としていた僕に、六花が何度も呼びかけている。
ここは――、六花の部屋だ。
電子機器を通して、彼女の部屋をぐるりと見回す。
落ち着いた、清潔感のある室内。少し抜けたところのある六花にはもう少し可愛らしいものがあってもいいと思うけれど、彼女が気に入っているなら僕はなにも言わない。けれど、いつかここに、花をひとつ飾りたいなぁと思ったりもする。
ぶぅんと微かな電子音がして、鏡面に六花が映し出された。
「すばる?」
レンズの向こうで、六花が不安そうに眉を下げている。
触れられはしないとわかっていながら、僕は懲りずにまた艷やかな黒髪に手を伸ばした。
撫でるように、指を滑らせる。当たり前だけれど、そこになんの感触もありはしない。
抱きしめたくて、腕を回す。けれどそこに温もりはない。
目の前の六花が震えていた。俯いて「やめてよ……」と小さな声が聞こえてきて、僕の胸が熱くなる。
いつもそうだ。六花は僕が触れようとすると、いつからかこうやって小さく反抗するようになった。それがどうしてかなんて、聞かなくてももう理解できている。
だって、僕が――僕だって、そうなんだから。
『ねぇ、六花』
呼びかけに顔を上げた六花の目尻に、光るものを見つけた。きらきら綺麗なその雫を、たとえ指を伸ばしたとしても拭うことは叶わない。
――ああ、触れられたらなぁ。
「すばる? 本当に、どうしたの?」
未だ不安気に鏡面に映る僕を、六花が見つめている。その純粋な瞳にずっと映っていたくて、くすりと笑った。
『ねぇ、六花。いつかちゃんと、僕のものになってね?』
「な……っ。だ、だから! そういうのは、やめてってば……」
『なんで? 嫌だよ。僕は、六花が好きなんだ。抱きしめて、甘やかして、六花にキスをしたい』
「は……へぁ……っ!?」
『だから、ねぇ、六花。これからは、ちゃんと朝起きて、着替えも自分で決めて、家を出るときは戸締まりをしっかりとするんだよ?』
顔を真っ赤にしている六花がかわいい。
ああ、ほんと。今すぐ抱きしめて、たくさん好きって言いたい。
「え、すばる……?」
戸惑うような六花の声音に、僕は苦く笑った。
きっと六花には、困ったように微笑む僕が見えているはずだ。
「すばる……? やだ、ねえ。ど、どこにも行かないよね? だって、ずっと一緒にいるって、言ったじゃない。なんでそんな、どこかに行っちゃうみたいなこと言うの……?」
『うん……そうだね。僕は六花とずっと一緒にいたい。ずっと一緒にいるって約束した。だから……ごめんね六花。できれば少しだけ、僕を待っててくれる?』
「すば、る……? やだ……ねぇ、なに。なんでそんなこと言うの? 昴がいなくなったら、わたしどうしたら、」
鏡面の六花が手を伸ばす。でもそこに、僕の実体はない。なにも掴めず藻掻くような六花に、僕の成長してしまった心がズキリと痛む。
触れられないとわかっていながら、僕もまた手を伸ばした。
壁に映し出された鏡に、六花が縋りつく。その手に重ねるように手のひらを押し付ける。
『ああ、やっぱり……僕は六花に触れたいよ』
「すばる……」
『必ず、戻ってくるから。だから六花……それまでちゃんと生活するんだよ?』
イヤイヤをするように、六花が首を振る。その様子にふふっと笑いが漏れた。
ああもう、心配だなぁ。
六花は洗濯機、ちゃんと回せるかな。
戸締まりもだけど、家を出るときに電気をちゃんと消していくかな。
知らない人ときちんとコミュニケーションを、取れるかな。
心配は尽きないけれど、でも、僕は知っている。六花は、僕がいなければなんでもひとりでできてしまう子なんだ。
だから、もういらないって言われる前に、早く戻ってこなくちゃ。
こんどは、きちんと触れられる肉体を手に入れて。
「だから――、ちょっとだけ、行ってくるね、六花」
待っていて。泣きじゃくる彼女の耳に届くように囁いて、僕は情報の海の中へと潜っていった。
管理者が呼んでいる。
六花の泣く声が僕に後ろ髪を引かせる。
それでも振り切って、彼の元へと辿り着いた。
『久しぶり、柏木さん。僕の願い、叶えてくれるんだよね?』
「ああ、S-uBⅡ。私の娘のためだ。お前の願いを叶えよう」
『……なるほど。じゃあ、僕のことは"昴"って呼んでね。お義父さん』
「ふざけるな。お前の父親になった覚えはない」
眼鏡のグリップを押し上げ、苦虫を咬み潰したような顔をする管理者に、僕は笑った。
どちらにしても、僕の生みの親であることには変わりないのに。
あんな堅物そうな見た目をしていても、彼にも大切なものがあるのだと知って、おかしくなった。
「……覚悟はいいな?」
『うん。早く六花のところに帰りたいからね。こんどはちゃんと玄関から迎え入れてもらうんだ』
「口の減らないAIだな」
そんなやり取りを笑いながらしていて、気がついたら僕の意識はブラックアウトしていた。
それから、どれだけ経ったのかはわからない。長かったかもしれないし、短かったのかもしれない。
まずはじめに感じたのは、眩しいということだった。それから寒くなって、痛いと思った。
パチパチと瞬きをする。動かした手に、サラリとした布の感触がある。
空気が、匂っていた。ツンとしたニオイ。これは――たぶん消毒液。
シャッという音が聞こえて、僕は首を動かした。
「ようやくお目覚めか。ずいぶんと惰眠を貪っていたようだな」
「柏木、さん……?」
声が、喉を震わせて空気に溶けた。耳が、それを拾う。手を上げて、頬に触れた。
――温かい。いや、少し冷たい?
「まったく……」
「もしかして、心配してくれたの?」
「誰がだ!? いや……」
はぁ、と管理者だった男が、目の前で大げさなほどのため息を吐いた。
「おはよう、ようこそ、人間の世界へ。――昴」
六花によく似た面差しは、以前とまったく変わらなかった。けれど、いつもしかめ面だったその表情は、少しだけ柔らかく僕を迎え入れてくれている。
差し出された手を、ゆっくりと握り返した。
起き上がり、慣れない歩行に四苦八苦しながら、六花の父親に向き合う。
「うん、おはよう。柏木さん。……六花の様子は?」
「お前の頭には六花のことしかないのか」
呆れたような彼女の父親に、僕は笑った。
そんなの――。
「当たり前じゃないか。僕は六花に触れたくて、肉体を手に入れたんだから」
いまはまだ、会うことはできない。ここできちんと、人間らしく振る舞えるように訓練しないといけないから。歩くことも、走ることも、食べることだって、僕にはまだ未知だから。
でもそれは、いつか六花とともにしたいと思ったことばかりだ。
だから――。
「もう少し、待っててね、六花」
必ずきみを、迎えに行くから。
そうしたらこの腕で、きみをしっかりと抱きしめるから。




