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第九話 告白

桜の華やかさが遠い記憶となり、校庭の木々が力強い深緑へと色を変えた五月の末。

色々なことに慣れ始め、新学期特有の浮ついた空気も落ち着き、生徒たちがそれぞれの日常に馴染み始め、少しずつ熱を帯びる初夏の風に混じり始めるこの時期、俺はまた、あの図書室の扉を引いた。

窓から入り込む風が、彼女の長い髪をなびかせている。あの四月の終わりの日、涙を流しながらインスタントカメラをなぞっていた彼女の姿が脳裏をよぎるが、今の彼女の横顔に、あの時のような危うい空虚さはなかった。

さらに、窓辺に座る瀬戸陽葵の隣には、もう一台の椅子が当たり前のように用意されている。


「……あ、蓮君。お疲れ様」


陽葵がノートから顔を上げ、柔らかく微笑む。その笑顔を見るたび、俺の胸の奥は不規則なリズムを刻む 。遊園地での出来事を経て、彼女は自分の病気と、そして俺という存在に正面から向き合うことを決めていた。

彼女は、自分が睡眠中に記憶を失うことが、脳が強い感情を「毒」として処理している結果であることを知っている。大切に想えば想うほど、その存在ごと消去されてしまう残酷な仕組み。けれど、彼女はもう、その欠落を埋めるために「完璧な嘘」をつくことを辞めていた 。


「ねえ、蓮君。私、昨日の夜、ノートを読み返しながらずっと考えていたの」


陽葵が、使い込まれたノートの表紙を愛おしそうになぞる。


「私の脳は、あなたとの時間を『毒』だって判断して捨てちゃう。でもね、朝起きて蓮君の写真を見たり、このノートの文字を辿ったりしていると、なんだか胸の奥がぎゅっと熱くなるの。それは、記録を読んで知ったことじゃなくて……今の私が、蓮君を見て感じていることなんだって気づいたんだ」


彼女の言葉は、図書室の静寂に波紋のように広がっていく。

陽葵の瞳は、これまでの「誰を忘れたのか分からない」という不安に満ちたビー玉のような瞳ではなく、今、目の前にいる俺を真っ直ぐに射抜いていた 。


「私は、明日も蓮君のことを忘れてしまうかもしれない。目覚めた瞬間の私は、また『どなたですか?』って聞いてしまうかもしれない 。……それでも、今の私は、蓮君が好きだよ」


その告白は、あまりに切実で、けれど誇り高い宣言のようだった。記憶が地続きでない彼女にとって、今この瞬間の「好き」を伝えることが、どれほど勇気のいることか、俺には痛いほど分かった。

俺は椅子を引き、彼女の隣に腰を下ろした 。触れ合いそうなほど近くにある彼女の体温を感じながら、俺はゆっくりと口を開く。


「瀬戸さん。いや陽葵。君の脳が何を『毒』だと判断したって、俺にとっては全部が大切な宝物だ。陽葵が失くした分も、君がこれから失くす分も、俺が君の隣で何度だって復元してやるって、前に言っただろ 」


俺は彼女の細い手を、包み込むように握りしめた。彼女の指先は少し震えていたが、俺が力を込めると、静かに握り返してきた。


「陽葵が明日俺を忘れても、俺は明日も君に恋をする。昨日よりもっと面白い『初めまして』を届けて、何度だって陽葵を惚れさせてみせるよ。……だから、俺と付き合ってほしい」


その言葉は、四月のあの日、図書室で「一目惚れ」をした瞬間に、すでに決まっていたのかもしれない 。

陽葵の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。それは、自分の存在が消えてしまうことへの恐怖からくる涙ではなく、何度忘れられても、何度でも自分を見つけてくれる場所があるのだという、深い安堵の涙だった 。


「……はい。よろしくお願いします、蓮君」


彼女の声は、鈴の音を転がしたように澄んでいて、けれどもしっかりとした意志を宿していた 。

夕闇が迫る図書室。オレンジ色の陽光が二人の影を一つに重ねていく。俺は、彼女がノートの余白に新しい記録を書き込むのを見守っていた。そこには、震えるような文字で、けれど力強くこう記された。


『秋月蓮君と、恋人になりました。この幸せだけは、脳が何を言っても信じること』


それは、記憶を失い続ける彼女と、記憶を背負い続ける俺との、歪で、けれど世界で一番純粋な「約束」の始まりだった。

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