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第八話 偽り

「お待たせ。少しは良くなった?」


飲み物を買いに行ってくれていた陽葵が帰って来た。彼女がそう尋ねてきながら渡してくれたスポーツドリンクを俺はさっき見てしまった物と一緒に胃の中に体に流し込む。


「うん。だいぶ良くなったよ。ありがと」


俺は努めて穏やかに、彼女の瞳を見つめて言った。陽葵は「よかった」と胸をなでおろすと、俺の隣にすとんと腰を下ろした。その時、ふわりと彼女のシャンプーの香りが鼻をくすぐる。その香りに誘われて俺は彼女のほうに目をやる。

彼女は、初夏の眩しい光に目を細めながら、遠くの観覧車を眺めている。その横顔は、どこまでも澄み切っていて、嘘なんて一つもついていないように見える。

遊園地の喧騒の中でも、今このベンチの周りだけ時間がゆっくりと流れ、静寂に包まれているような気がした。

そんな中、ぐうぅ、と、静かなベンチに場違いな音が響いた。

陽葵は一瞬きょとんとした後、顔を真っ赤にしてお腹を抱えた。


「あ、あはは……。お腹空いちゃった」


照れくさそうに笑う彼女を見て、俺の胸の痛みは一瞬だけ和らいだ。


「食べに行こっか」

「うん」


その後、俺たちは園内のレストランで遅めの昼食をとり、華やかなパレードを楽しんだ。陽葵は目の前を通るキャラクターたちに無邪気に手を振り、カメラで何度もシャッターを切った 。

2人ではしゃいで笑って楽しんで、こんな時間がずっと続けばいいと何度も思った。けれど、日が傾き、園内が柔らかなオレンジ色に包まれ始めると、楽しかった時間の終わりを告げるような寂しさが胸に込み上げてくる。


「ねえ、最後にあれに乗らない?」


陽葵が指差したのは、夕暮れの空にゆっくりと円を描く大観覧車だった。

ゴンドラが地上を離れると、遊園地の喧騒が遠のき、さっきのベンチとは違い本当に、狭い空間に二人だけの沈黙が流れる。

陽葵は窓の外を見つめ、街の明かりが灯り始める景色をじっと目に焼き付けているようだった。


「……綺麗だね、蓮君」


彼女がぽつりと呟く。


「……綺麗だな」


俺の言葉は、窓の外に広がる景色に向けたものだったのか、それとも隣で儚く微笑む彼女に向けたものだったのか、自分でも判然としなかった。

ゴンドラが夕闇の頂点へと達し、世界から音が消える。地上から何十メートルも切り離されたこの鳥籠の中では、嘘も真実も、すべてが夜の青に溶けていくような気がした。


「……ねえ、蓮君。私ね、今日のこと、絶対忘れない」


陽葵は窓に額を預けたまま、消え入りそうな声で呟いた。

その言葉の裏側にある、震えるような彼女の決意を思った。

彼女は、自分がこぼし落としてしまった時間の断片さえも、誰にも悟らせたくないのだ。

たとえ、朝目覚めた瞬間の自分が、隣にいる俺を「知らない誰か」だと認識したとしても。


『明日の私へ。彼を忘れても、彼を悲しませることは絶対しないように。

昨日の私へ。彼を悲しませないために嘘をつきます。ごめんなさい』


あの時見てしまった記録に書かれていた通り、彼女はきっと、何事もなかったかのように微笑み、昨日から地続きの自分を演じきるつもりなのだろう。

それは、自分を欺き続けるという、あまりに孤独で残酷な決意だった。

失ったことを嘆く暇があるなら、その隙間を完璧な嘘で埋め尽くす。

そうすることでしか、彼女は自分という存在を、そして俺との繋がりを繋ぎ止める術を持たないと思っているのだ。隣にいる俺に、昨日が消えてしまった絶望を見せないために。俺が抱いた淡い期待を、自分の不手際で汚してしまわないために。

その献身的なまでの「偽り」が、今の彼女にとっての唯一の正義なのだと、俺は痛いほどに理解してしまった。


「……俺も、今日のこと、絶対忘れない。俺は君のバックアップだって言っただろ。君の脳が何を消したって、俺がもう一つの記憶フォルダとして全部持っておくから。……だから、無理して笑わなくていいんだよ」


その言葉を口にした瞬間、陽葵の肩が激しく跳ねた。

窓の外を見つめていた彼女が、ゆっくりと、恐る恐るこちらを振り向く。その瞳には、嘘で塗り固めた完璧な笑顔ではなく、隠しきれなかった激しい動揺が浮かんでいた。


「……え?」


 陽葵の喉が小さく鳴る。俺の視線から逃げるように、彼女は思わず膝の上の鞄を抱え込んだ。その隙間から覗くノートの角が、今の彼女にとって唯一の命綱なのだと分かってしまう。


「蓮君、何を……。私、ちゃんと覚えて――」

「無理しなくていいんだ」


俺は彼女の言葉を遮るように、静かに、けれど逃げ場をなくすほど優しく告げた。  


「そんで、何も言わなくていいよ」


その瞬間、陽葵の瞳から大粒の涙が溢れ出した。

張り詰めていた糸が切れたように、彼女は顔を覆って泣き崩れた。しゃくり上げるたびに、その細い体が折れてしまいそうなほど激しく震える。


「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……! 怖かったの。蓮君が悲しむのが、怖くて……私が、私じゃなくなるのが、怖くて……っ」


彼女は、自分でも制御できないほどの嗚咽を漏らしながら、何度も、何度も同じ言葉を繰り返した。


「忘れたくない……っ。蓮君とのこと、昨日話したことも、今日のパレードも、この綺麗な景色も……全部、全部消したくないよぉ……!」


それは、今日一日、彼女がノートに「地続きの私」を演じると誓い、心の中に押し殺し続けてきた、本当の絶叫だった。

そして、彼女が初めて俺に見せた弱い部分だった。

俺の腕の中で泣きじゃくる陽葵の熱を感じながら、胸の奥が焼き切れるような痛みに襲われる。これまで彼女は、どれほどの孤独の中にいたのだろうか。

朝目覚めるたびに昨日までの自分を失い、それでも誰かを傷つけないために「自分」を演じ続けてきた。その指先がどれほど凍えていたのか、その笑顔の裏でどれほど絶望を飲み込んできたのか、今の俺には想像することしかできない。

彼女が守ろうとしていたのは、俺との「思い出」だけではない。俺という人間の中に存在する「瀬戸陽葵」という光を、絶やしたくないと願うあまりの、血を吐くような抵抗だったのだ。

腕の中に収まった彼女は、驚くほど小さくて、冷たくて。俺は壊れ物を扱うように、けれど力強く、彼女を抱きしめた。


「大丈夫だ。俺が全部覚えてる。君が失くした分も、君がこれから失くすかもしれない分も、俺が君の隣で、何度だって復元してやるから」


下降を始めたゴンドラの中で、陽葵は俺のシャツを掴み、子供のように声を上げて泣き続けた。

宝石箱をひっくり返したような夜景が、彼女の涙で滲んでいく。俺は、彼女の背中を優しく撫でながら、心の中で誓った。明日、彼女が目覚めたとき。また俺のことを知らない誰かとして見つめたとしても。

その時は、今日よりももっともっと面白い「初めまして」を届けてやろうと。

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